序 龍の娘
――ドン!
はるか夜空にそびえ立つビル群、その上空を何も無い空気を蹴って奔る者がいる。月下にあって闇を飛ぶその姿は壮年の男性の姿である。
【お父さん……、目標地点周辺の全面封鎖――完了したよ】
「ふむ――、それは、母さん……、いや当主に感謝を伝えておいてくれ」
【わかった……、で、その当主から伝言――。今晩は私達の娘の誕生日なんだから無事に帰ってきなさい――、だって】
その無線から聞こえる言葉に、静かに彼は――、矢凪潤は微笑んだ。そして、その無線の向こうにいるであろう愛娘に答える。
「わかっているとも――、心配するな」
【うん……】
空中を奔る彼のその高等霊視眼には、そのはるか先を奔る目標が見えている。
「奴の術式は古式の発展型――、精神反応を伴う呪法はすべからく立ち消えるか、奴のエネルギーになる。そして――、俺達の仕掛けた罠を見抜いて逃走を図る知恵も――」
【……、お父さんがすぐに追いつけないって――相当だね】
「まあ――、いくらでもやりようはあるさ。伊達に奴らと戦い続けてはいない」
――だが、と潤は思う。今逃げている目標――、死怨院乱行は、必要ならばどんな悪辣な手も使うだろう。そんな暇を与える前に捕らえねばならない。
もう奴の犠牲者を増やすわけにはいかないのだ。
彼らとは――、死怨院呪殺道とは、未だ戦いが終わってはいない。おそらく、人の心に闇ある限り彼らの呪法は最大限の効果を発揮し――、そしてそれゆえに、その道に外れる外道はいなくならないのだ。
でも、矢凪潤は絶望しない――、それでも人の心の光を守るべく戦う。
それこそが彼ら【蘆屋の陰陽法師】の使命故に――。
◆◇◆
「お?」
コンビニの自動ドアをくぐった彼女は空をかける人影を見た。
「どうしました、教主様?」
「うむ――、今晩も彼らはお仕事か……、大変じゃな」
そう言って手にしたコンビニ限定シュークリームをぱくつく【教主様】である。そんな彼女の、頬についたクリームを優しく拭いながら、壮年の大男は優しく笑った。
「クリームが落ちたらもったいないですよ――」
「むふふ……、やはりこの系列のコンビニシュークリームは最強であるのぅ」
「ふう……、そうですね。でもわざわざ教主様が出向く必要は――」
そんな大男に【教主様】は笑いながら答えた。
「無論、これだけが目的ではないぞ……。日々是修行也――、見聞を広め新しきを知ることも仙道である!」
「まあ、師の場合は――単に……好奇心で」
呆れ顔で言うその男に、【教主様】は頬を膨らませて子どものように怒りを表す。
「なんじゃ?! 雷太?! わしのやることになんぞ不満でもあるのか?!」
「め、滅相もありませんとも!!」
慌てて取り繕うその男を睨みながら、かわいい【教主様】は小さく鼻を鳴らした。
そんなやり取りをする二人を周囲の者たちは珍しそうに見ている。それも当然――。
【教主様】と呼ばれる人物は――、一見すると小学生にすら見える小柄で華奢な娘であった。
その身は、体の線がはっきり見えるチーパオ――、要するに「チャイナドレス」を身につけ、手には美しい装飾の扇を持ち、髪を頭の後ろで束ねて三つ編みに結っている、黒髪黒い瞳の美少女――それが
―― 【暉燐教主、あるいは陸離娘々】――、本名を泠煌とする【仙女】であった。
それに付き従うは――、【雷太】――、筋骨粒々の大男。
未だ仙人に至ってはいないが、すでに【不老】を得ている人間――、【教主様】の唯一にして最愛の弟子、道士であった。
その二人はまさしく見た感じが「誘拐された幼女と誘拐犯」であり――、
(……通報すべきかな?)
周囲の者たちはスマートフォンを手に、困惑しながら観察していた。
ピリリ……。
ふとその【教主様】を困った顔で見つめる【雷太】のスマートフォンの呼び出し音が鳴る。雷太は慌ててそれを手にして耳に当てる。
「あ……はい? もしもし……、あ」
雷太は電話の向こうの声が誰か理解すると、苦笑いしてそのスマホを【教主様】に示す。
「あの……教主様」
「む? だれじゃ?」
「ええと……、領域管轄の神祇のかたで――」
「はあ?! 神ごときがわしになんのようじゃ?」
そう眉をひそめながらスマホを手にとって耳に当てた。
「はあ? ……うむ?」
「……」
電話の向こうと会話をする師匠を心配そうに眺める雷太。彼が見つめる師匠である少女は――、次第に不機嫌の極みに至りつつあった。
「あのな……、んなコトわかっておるわ! わしは真人にすでに至っておる! 道理がわからぬ者だと――、無闇に人の世に害を与えると、本気で思っておるのか――馬鹿者が!!」
「き、教主様――」
「神ごときが……わしを侮辱するでないわ! ――気分が悪い!!」
少しキレ気味の師匠を見つめながら冷や汗を流す雷太。まあ――、師匠は決して無為な争いを望まない方であるし、大丈夫だと――信じたい。
「はあ? ……はいはい、しばらくしたら仙境に帰るわ。……出向くときにはお前んとこに届けを出せばよいのであろう?! 切るぞ? なんか不満があるなら――、天鳳真君にでも言うがいいわ! 多少検討はしてやるさ……」
「ああ……、天鳳真君様に丸投げ?!」
狼狽えながら苦笑いする雷太にスマホを返すと、一人教主様はコンビニを後にする。雷太は慌てながらそれについて行った。
◆◇◆
夜も更けて人も消えた児童公園のそばを二人は歩いてゆく。雷太は困った顔で笑い――、教主様は頬を膨らませて子どものようにプリプリ怒っていた。
「はあ……、それじゃあ、もう帰りましょっか――」
「ああ……、しかたがないのぅ」
雷太の言葉に教主様は素直に頷いた。と――、その時に児童公園の方角から悲鳴が聞こえてきた。
雷太は驚きその場に止まり――、教主様は逡巡もせずに児童公園へと走った。
「あ! 教主様!!」
叫ぶ雷太を置いて駆ける教主様。一瞬考えてから雷太はその後を追った。
「ナウマクサンマンダボダナンアギャナテイソワカ――」
そう呪文を唱えて笑う邪悪は、その手で泣き叫ぶ娘の首を掴んでいる。娘は泣き腫らし――、その絶望と恐怖が光の帯となって邪悪のもとへと収束されてゆく。
「この俺が――、素直に罠にハマると思うか――蘆屋の愚か者ども……」
「うえええええ……」
「このまま……、命まで食らって力となし――、追跡者を返り討ちにしてやろう」
その時捕まってしまった娘は、ごく普通のOLであった。帰り道に児童公園を通ったら――、この有り様である。そのまま、霊力が邪悪へと収束して――、それにつられてその娘は目に見えて弱っていった。
「お前――。何をしておる」
ふと、そう声をかけられる。そこに見慣れぬチーパオ姿の少女――、教主様がいた。
「なんだ? 貴様――」
「……」
黙って教主様は邪悪を睨みつける。一歩前進するとそれを止める声が響いた。
「教主様――! 取り決めが!!」
「ち――」
その声――、雷太の叫びに足を止める教主様。――黙って雷太はその前に出た。
「俺がやります!」
「――すまぬ」
苦しげに言う教主様に、雷太は優しげな笑顔を向ける。そのまま雷太は怒りの表情でその邪悪と相対した。
「ふん?! 無謀な正義の味方きどりか? あるいは蘆屋の――」
「お前――、術師――か」
拳を握る雷太に邪悪は嘲笑を浮かべながら答えた。
「は――、俺が術師だと理解する――、こちら側の存在か」
「だったらどうする」
怒りを込めた瞳で睨む雷太に、邪悪は笑いながらその手の娘を放おり投げてくる。それを雷太は急いでキャッチした。
「く……、大丈夫! 生きてる!!」
安堵する雷太に向かって、邪悪が高速で奔った。
「雷太!!」
教主様がそう叫び、雷太がその邪悪が手にする凶刃を避ける。
「ほう――」
その人間離れした動きに邪悪は笑顔を向ける。
「教主様」
雷太は教主様のもとへと女性を運んで、そしてその足元へと横たえた。
「後はお願いします」
「雷太――、アヤツの気配――」
そういう教主様の言葉に頷く雷太は、もう一度邪悪に向き直った。
「面倒だな――、速攻で決めさせてもらう」
嘲笑を顔に貼り付けた邪悪は、そう言って秘術を唱え始めた。
「ナウマクサンマンダボダナンアギャナテイソワカ――」
その瞬間、凄まじい霊力が児童公園中に広がってゆく。それを見て教主様は――、
「……」
静かに目を細めた。
「うおおおおおお!!」
雷太が気合いの咆哮を放ちつつ殴りかかる。それを邪悪は軽くかわした。
「は――、筋肉ダルマが!!」
そう叫んでその手刀を一閃する。雷太の身体から鮮血が舞った。
「く――」
しかし、雷太はそれに構わず拳を全力でふるった。
ドン!!
明確に地面が振動する。しかし――、
「は――、信じられん怪力であるが……、ただの物理攻撃では俺にはきかんぞ?」
そう言って再び邪悪の手刀が振るわれ――、
ドン!
「うぐ……」
その手刀が深々と雷太の身に突き刺さった。
「雷太!!」
その事態に教主様は顔を歪めて叫ぶ。雷太は――、
「そりゃ……、まいったな。俺はパワーだけが取り柄なんでな」
口から血を吐きながら雷太は笑う。手刀が引き抜かれて、雷太は後ずさってその場で倒れた。
「はあ……、だから不得意な術の勉強を後回しにするなと、あれほど言っておいたろう?」
「すみません教主様……」
反吐を吐きながら倒れ伏す弟子を、教主様は静かに見下ろした。
「は――、さて……、術式の準備は整った。そこの筋肉ダルマには我が呪が刻まれ――、その魂まで我が糧となる」
「ふむ――、呪……だと?」
その邪悪の嘲笑に、教主様は静かに言葉を返した。そのまま弟子のもとへと歩み寄り――、
「ふむ――、これか――」
静かにその手に持つ扇で傷跡に触れた。――と。
「?!」
その瞬間には傷が跡形もなく消えていた。それどころか――、
「わが呪が――」
あっさり消えていた――、彼の仕掛けた呪は――。
「馬鹿な!! 対象の死でしか解除不可能な呪だぞ!」
静かに教主様は立ち上がる――、その眼は――、
――底冷えのする悪寒を与えるものであった。
「――ふむ、雷太スマホをかせ……、領域管轄の神祇に確認を取る」
「は?」
その娘の言葉を彼は――、【死怨院乱行】は理解できなかった。
「教主、さま?」
呻いて見上げる雷太の懐からスマホを取り出し、そして電話をかける。
「貴様?! 何を――」
「領域管轄の神祇に――、貴様を始末していいか問い合わせる」
「?!」
それは――、その言葉に乱行は絶句する。そして――、
(え? あ? こいつ――、この娘――)
感情を糧とするがゆえに――、乱行は、彼女――教主様の感情の高まりと、そしてそこから放たれる凄まじい神気をはっきりと目撃してしまう。
それは――、今まで見たこともない――、そしておそらくこれからの生涯では二度と見ることもない、絶望的な力の奔流であった。
「あ!!」
彼は激情を力に変える死怨院呪殺道士――、それを取り込むことは可能である。――しかし、それはそのまま膨大な神気を取り込みきれずに、死ぬことを意味していた。
すべてを悟って――、乱行は逃走を図った。しかし――、
「動くな貴様!!」
一声――、彼女がそう叫んだだけで、乱行はピクリとも動けなくなった。その余りに出鱈目な話に言葉を失う。
「そこで待っておれ――。領域管轄の神祇に――、貴様を始末していいか問い合わせる、そう言ったろうが」
「あああああああああああああ!!」
もはや彼は泣くしかなかった。ただ――恐怖だけがその心にあった。
「鬱陶しいから泣くでないわ! 貴様が今まで殺したであろう者たちこそ、泣きたかったであろうに!!」
絶対零度の言葉が乱行の精神に好き刺さってくる。その恐怖のあまり――、乱行はそのまま意識を失った。
「――ち、根性無しめが」
そう言って悪態をつく教主様を、雷太は苦笑いで見つめた。
◆◇◆
「誰が――」
矢凪潤は首を傾げながらその光景を見た。急いでやってきた児童公園に――、
「――不本意ではあるが、面倒な手続きがあって駄目らしいのでお前らにコヤツの始末を託す? ――誰?!」
全身禁術符まみれにされて縛られて、まったく意識のない死怨院乱行が転がされていた。その額にはご丁寧に「美しい文字の手紙」が貼られている。
「……まあ、確保できたから、いいのか?」
矢凪潤はただ――、困惑しながら首を傾げることしか出来なかった。