火種育成
夜の気配が町に降りて久しい時刻。
住宅街の片隅にある小さなコンビニに、フードを深く被った一人の少年が立っていた。
黒いパーカーに黒いスキニージーンズ。顔は街灯に照らされる角度を避け、下を向いたまま。
コンビニの自動ドアが開く前、白はもう一度深く息を吸った。
(失敗は許されない。だが……リスクを恐れていては手に入らない)
橘聖人の「社会的な死」。
それを確実に、静かに、誰にも悟らせずに成立させるために。
今日の“犯行”は、その起点。白はその意味を十分すぎるほど理解していた。
ポケットの中で右手を握りしめる。中には、数日前にすれ違いざまに“偶然”手に入れた橘聖人の学生証。
(彼の癖、動き、歩き方。全部、観察し尽くした)
そして──その再現は完璧だった。
わずかに庇う右足、やや猫背気味の姿勢、視線を合わせず、店内を回るときの独特の緩さと間隔。
(俺は、橘聖人になる)
静かに、ドアが開いた。
カラン、と控えめなチャイムの音。
深夜近くのコンビニは照明の白さが際立ち、やけに冷たい。
レジ奥に一人、補充作業をしている中年の店員。
レジ前には若いバイトの男女が二人。
いずれもスマホの方を気にしていて、客の入店にはろくに顔を上げなかった。
(いける)
白は、ゆっくりと店内に足を踏み入れる。
右足をわずかに引きずりながら、視線は斜め下へ。
両手は袖に隠れ、何かを触る動作は見せない。
彼がまず向かったのは、日用品コーナー。
コンビニの隅、カメラの死角にある。
棚の最下段にあるBluetoothイヤホン──高額商品であり、かつ盗みやすいサイズ。
手を差し出すその瞬間、彼の胸中は驚くほど冷静だった。
(ここにあるのは“証拠”じゃない。“道具”だ)
イヤホンを服の内ポケットに滑り込ませる。
一切の迷いもなく。指紋が残らないように注意しながら。
そして、そのまま無言で立ち上がり、別の棚に移動する。
菓子パンを一つ、あえて適当に選ぶ。
盗みだけでは“怪しさ”が際立つ。何か買う素振りが、逆に“人間らしさ”を強調するのだ。
その瞬間、背後から熱を帯びた視線を感じた。
(……見てるな)
商品補充をしていた中年の男性店員が、じっとこちらを見ていた。
しかし、決定的な“証拠”はまだない。ただの不審者というレベル。
(それでいい。むしろ、ちょうどいい)
白は演技を続ける。
少しおどおどしながらレジへと進む。
店員の前で立ち止まったとき、わざと視線を逸らしながら、ぼそりと呟いた。
「ポイントカード、ないです……」
猫背気味に立つ姿勢。言葉の抑揚もなく、無感情な話し方。
“橘聖人”の模倣。それは本人すら驚くほど、忠実だった。
パンを受け取り、袋を手にした瞬間──
彼は、ポケットの中から橘聖人の学生証をすり抜けるように取り出し、床に落とした。
拾わない。
視線もくれない。
そのまま何事もなかったかのように歩き出す。
カラン……。
ドアが閉まる音と同時に、白は静かに歩き出す。
通りを一本曲がったあたりで、手早くポケットの中を確認し、Bluetoothイヤホンを取り出す。
「回収完了」
──静まり返った夜の町。
白は川沿いの人気のない歩道を歩いていた。頭にはフード、手には黒いナイロン袋。
中には、Bluetoothイヤホンと、作戦実行に使った複数の道具──グローブ、マスク、メガネ、そして学生証を入れていた小さなチャック付き袋。
(完璧に近い、けど……“残す”と“捨てる”の境界は慎重に)
Bluetoothイヤホンだけは別の内袋に分けて保持していた。
いざというとき、“聖人の所持物”として出す可能性がある。あるいは、二次利用。
だが、今すぐ証拠になる可能性がある道具は、確実に処分する必要がある。
白は、川辺に近い小さな駐車場の裏へと足を進めた。
昼間なら、散歩する人や釣り人がいるが、今は誰もいない。
──以前に目星をつけておいた場所だった。
奥に、一斗缶が隠されていた。蓋を外し、中には事前に準備していた乾燥した新聞紙と着火剤。
「……さて、始めようか」
白は周囲を警戒しながら、ポケットから小型のライターを取り出した。
一つひとつ、手袋、マスク、メガネ、薄手のインナーシャツ──汗や皮脂が残る可能性のあるものを次々に放り込み、新聞紙の間に挟むようにして配置していく。
(人の記憶は曖昧だ。でも物的証拠は、時に全てをひっくり返す)
白はライターを灯し、新聞紙に点火した。
「ボッ」と一瞬火が立ち上がり、青白い煙が夜気の中に昇っていく。
顔をしかめながらも、白は缶の中の燃焼状態をじっと見つめ続けた。
完全に燃え尽きるまで、気を抜かない。
五分。十分。耐火手袋で火の回りを調整しながら、灰になるのを確認する。
やがて、燃え残りが黒く丸まって底に沈む。
白は缶のフタを戻し、川辺に掘った小さな穴に缶ごと埋めた。
──その場所は、しばらく誰にも見つからない自信がある。
一連の作業を終えたとき、白は空を見上げた。
風が少し吹き、白のフードが揺れる。
(これで、もう逃げられない)
バッグにBluetoothイヤホンの入った袋を押し込み、白は夜の闇へと再び足を進めた。
四月中旬の空気はまだひんやりとしていて、制服のブレザー越しに風が肌を撫でる。
校門を抜けて一番に教室に入った白は、鞄を机に置き、カーテンを軽く開けた。
窓の外では、登校してくる生徒たちの姿がちらほらと見える。
(……今日、動く。けど俺は、何もしていない。表面上はな)
椅子に腰を落とすと、カバンからスケジュール帳を取り出す。
表紙の裏側には、小さな付箋に「プランA・08:50」とだけ記されていた。
昨日の放課後、図書室でのことを思い返す。
図書室は放課後にしては珍しく人が少なかった。
橘聖人が窓際の席に置いていたカバン。そのサイドポケットに──
白は一瞬の隙を突き、Bluetoothイヤホンをジッパーの内側、完全に視界に入らない位置に滑り込ませた。
(見せる必要なんかない。ただ、あればいい。
“後で見つかった”とわかるだけで、人は疑う。──疑いは真実を超える)
それが、“仕込み”の最後の一手だった。
チャイム直前の教室。
担任の男性教員が入ってくる。手に持った出席簿と書類の束が、やや多い。
表情は一見普段通りだが、教室全体に走る空気は、いつもとわずかに違う。
「……橘、ちょっと来い。職員室」
白は、視線を上げることなくペンを走らせ続ける。
──ざわつく教室。
橘聖人が静かに立ち上がり、何かを言いかけて、結局口を閉ざした。
彼の歩く背中が、教室を出ていく。
「なんだろ?」
「遅刻とかじゃなくない?」
「てか今朝ちょっと顔色悪かったよな、橘」
(そう。そうやって“何かあった”と思わせるのが、始まりなんだ)
白は筆箱の中を整えながら、机の上を静かに撫でる。
まるでただの優等生のような、冷静な指先。
⸻
休み時間。
二年の廊下。白が仕掛けておいた“火種”が、確かに機能し始めていた。
「……聞いた? 橘ってさ、コンビニでなんかやったらしいよ」
「え、マジ? あの地味な奴?」
「先輩が言ってた。“落とし物があったらしい”って……」
脅しと取引で口を封じたはずの“あの先輩たち”の一人が、あえて中途半端な形で話を漏らす──白の指示通りに。
何も断定しない言い回し。「聞いた話」として流すことで、真実のような疑惑を生み出す。
噂とは、空気に乗れば、それだけで増殖する。
⸻
白はグループの男子たちと軽く会話しながらも、意識の一部は教室の空気を敏感に捉えていた。
「橘、マジで何したんだろうな?」
「あー、でもあいつちょっと陰キャだし。分かんねえよな、裏じゃ何してんのか」
「まあ、あり得るんじゃね?」
白はわざと軽く笑ってみせた。
“乗った”ふりをして、“興味ない”ふりをして、“よくある会話”の一部として、そこにいた。
本心は、誰にも見せない。
(これでいい。疑惑が形を持てば、人は勝手に判断し始める)
白の目的は、橘の信用の「土台」を静かに崩すことだった。