略奪冤罪
白は、昇降口の隅で靴を履き替えながら、教室で笑っていた橘聖人の姿を思い出していた。玲奈の隣で自然に笑い、気を使うでもなく、彼女と対等に言葉を交わすその立ち振る舞い。
(こいつは、あの頃も、今も。変わらない。)
自分が過ごした“過去”の中で、橘聖人はずっと玲奈の側にいた。恋人未満、けれど恋人以上に近い距離にいた存在。大学時代の白にとって、彼は常に“邪魔な存在”だった。
今度こそ、最初から潰す。確実に、静かに。
白はロッカーの扉を閉めながら、内ポケットに指を滑らせた。中には先日撮影した不良グループの喫煙動画のバックアップ。これを材料に使ってもよかったが、橘に直接的な関与はない。やるなら、もっと決定的で、ひと目で「こいつが悪い」と思われる証拠が必要だった。
「社会的な死」には、“証拠”がいる。
しかも、それは“本人の名が刻まれた”証拠でなければ意味がない。
(……学生証、だな。)
思考がまとまるのと同時に、白はそのまま昇降口を出た。橘の学生証を手に入れる。そして――それを“落とす”ように使う。
白は、図書室での観察を終えたその日から、すぐに“準備”を始めた。
彼にとって、目的はあくまで“玲奈の隣を邪魔されないための地ならし”でしかない。
だが、それでも失敗は許されない。
「その一手」で人間一人の立場が崩壊する。
それを実行するには、何より綻びなく、自然に。
まず最初に白が選んだのは、挨拶だった。
教室ですれ違うときに、軽く会釈をする。
下駄箱で偶然を装って立ち止まり、会話には至らないが、目を合わせる。
それだけでいい。
橘聖人にとって、白の存在が「知っている顔」に変われば、それだけで警戒心はいくらか削がれる。
(まずは“名前のある背景”になる。無名の通行人じゃ、後の動きが不自然になる)
次に白は、登校時や下校時の橘の行動パターンを把握した。
特に橘が図書室へ行く日は、帰り際の時間帯が一定だった。
最後に図書室を出たあと、彼は必ず靴を履き替えてから、自動販売機の前で立ち止まり、缶コーヒーを買う。
(……その一瞬。手荷物を置く癖。財布を使うタイミング)
白の目には、全てが「習慣」として見えていた。
その日も、白は廊下の角からその様子を“偶然”見ていた。
チャイムが鳴り、教室がざわつき始めても、白は誰とも会話せず席を立った。
鞄を肩にかけたまま、静かに教室を出て向かったのは校舎の端――図書室。
ドアを開けた瞬間、冷房の効いた空気と紙の匂いが鼻をくすぐる。
図書室内はまばらに数名の生徒がいるだけで、静寂に包まれていた。
目に見えないルールのように、ここでは誰も声を荒げない。
その沈黙が、白には都合がよかった。
彼は一歩一歩、足音を極力立てずに奥へと進みながら、視線を自然と巡らせた。
――いた。
窓際の席、壁際の棚に背を向ける形で座っているのが、橘聖人だった。
手元の本に視線を落とし、時折ペンを走らせては、メモ帳に何かを記している。
白は表情ひとつ変えず、隣の棚に並ぶ本を物色するふりをしながら、その動きを観察した。
(……来てる。いつも通りの位置、時間、仕草)
ここ五日間、白は橘の放課後の行動を記録していた。
サッカー部に所属している彼が、この図書室を“逃げ場”にしていることに気づいたのは、四日前のこと。
(ノートは……いつも同じ。青い表紙、A5サイズ。筆記具はボールペン。カバンはイスの背もたれに……)
ひとつひとつの情報が、白の脳内で配置されていく。
まるでジグソーパズルを組み上げるように。
(……この机の配置なら、死角が多い。監視カメラも図書室内には設置されていない)
白は静かに本を一冊取り、適当なテーブルへと腰を下ろした。
背中合わせの位置から、橘の姿を完全に捉えられる場所。
視線は本のページに落としながらも、思考はすべて“彼”に集中していた。
(学生証をどこに入れてるか。財布か、カバンか。……この位置じゃまだ見えないな)
白はそっと本を閉じ、立ち上がると、窓際の棚に向かった。
橘のすぐ後ろを通る際、意識的に歩幅を遅くし、チラリとカバンの中を覗き込む。
――青と白のストライプ柄の財布。そのポケットに、ほんの一瞬“緑の縁”が見えた。
(あれだ。学生証、財布の中……)
視線を戻した白は、窓際の本棚に背を向けたまま、視界の端に橘の動きを入れ続ける。
ページをめくる手。ペンを置く仕草。周囲をまったく警戒しない姿。
(……あれを、どう取るか)
白は思考の網を張るようにして選択肢を並べた。
⸻
【案1:すれ違いざまに抜き取る】
長い廊下、照明の死角。
橘とすれ違いざまに、外側のポケットから財布を「落とさせる」ような接触をして、財布の口が開いていれば……。
(だが、それはタイミングが限られる。接触が残れば覚えている可能性がある)
リスクが高い。
⸻
【案2:上履き箱でのすり替え】
橘の下駄箱の位置は既に確認済み。
帰りの時間帯に数分だけ先回りし、白が隠れて待機。
橘が履き替えている間に、荷物や制服のポケットに忍ばせておいた“偽財布”とすり替える。
(が……それだと財布ごと盗むことになってしまう。証拠が濃すぎる)
やるなら「学生証だけ」。
それも“落とした”ように見せるためには、財布から“自然に抜けた”ように見せるのが理想だ。
⸻
【案3:図書室の机上に置かれた一瞬を狙う】
これが最も自然だった。
橘が資料を取りに立ち上がった瞬間、手荷物を席に残す。
机の上に財布を置いたままにする癖も確認済み。
そのとき、白は“たまたま後ろの棚にいた”ことにすればいい。
監視カメラもなく、音も少ない空間なら、ほんの2秒で学生証だけ抜き取ることができる。
(これで決まりだな)
白は図書室の座席の配置と、棚の陰から死角を再確認する。
立ち上がる際に使う机の角度、視界の向き。
すべてが“奪え”と言っていた。
⸻
同じ空間にいるのに、橘はまるで“白の存在”を認識していなかった。
無防備に背を晒し、静かにページをめくっている姿は、まるで罠にかかった獣のようで――。
(油断は命取りだよ、聖人)
白の口元に、音もなく微笑みが浮かんだ。
⸻
その後、白は何事もなかったかのように席を立ち、図書カードを提示して一冊の本を借りる。
出口付近で一度だけ、橘の背中に視線を送った。
(――もう少しだけ、“自由”を味わっていなよ)
その心の声が、白の胸の奥で静かに響いていた。
翌日
図書室での時間は、特に何の変化もないように流れた。
橘は例のように資料を読んで、ノートに何かをメモし――そして席を立った。
白はその直前、橘の真後ろにある書棚の最下段にしゃがみ込み、分厚い資料集を手にしていた。
その厚みと位置が、体を遮るのにちょうどいい。
橘が離れる――
机に残されたままの財布が、無防備にそこにあった。
白の指は、まるで最初からそこにあることを知っていたように、迷いなく手を伸ばす。
「……ふん」
指先で挟むと、緑の縁取りが見えた。
抜き取る。財布の角は一切ずらさず、中身だけ。
そのまま、資料のページに滑り込ませるようにして本の中へ隠す。
そして何事もなかったように立ち上がり、書棚に本を戻した。
――終わりだ。
───
その日の夜、橘は少しだけ首を傾げた。
「……あ? 財布、軽くなったか?」
手元を確認するが、カードも小銭も残っている。
気のせいかと思い直し、机に置く。
(俺……、財布開いたか?)
だが、どう考えても誰かに盗られた実感はない。
だって、そんな隙は――
「……いや、ねえか……」
気のせい、と思ってしまうのは当然だった。
“仕掛けた側”が、そう思わせるように計算していたのだから。
─────。
カチリ――。
デスクライトのスイッチが入る。部屋の中は静寂に包まれ、人工的な灯だけが白の手元を照らしていた。机の上には開かれたノートパソコンと、数冊の本、そして1冊の黒いメモ帳。
ページをめくると、整然と書かれたスケジュールと、橘聖人に関する観察記録。
「登校時刻、滞在時間、昼食の傾向、周囲との会話の傾向、物の管理状態」
それらはすでに数日間に渡って積み重ねられており、白にとっては“攻略本”そのものだった。
彼はその上に、今日手に入れた“橘聖人の学生証”をそっと置いた。
光に照らされたそれを見つめながら、白はゆっくりと目を細める。
「さあ……ゲームの始まりだ。」
⸻
白の脳内には、すでに複数の“橘を潰す”ルートが存在していた。
たとえどれかが失敗したとしても、残りのルートで確実に仕留める――それが彼の基本戦略。
プランA:万引き捏造作戦メインプラン
・白が橘と似た制服を着用(帽子・マスク・メガネで顔と輪郭を隠す)
・コンビニへ入り、少額の商品ガムやペンなどを複数ポケットに入れ、そのまま退店
・出入口のカメラがある範囲で“わざと学生証を落とす”
・即時に立ち去り、最寄駅の方角へ逃走
・学生証の存在から、警察または店が学校に連絡を入れる
・“防犯映像+学生証”という組み合わせで橘を追い詰める
→リスク:顔がバレる可能性/橘がアリバイを証明できる場合
プランB:所持品への細工サブプラン
・学生証が奪われていた間に、万引きに使った商品ガムなどを橘のカバンへ忍ばせる
・学内で“偶然見つかる”ように誘導し、教師やクラスメイトに発見される
・「なんで商品がこんなところに?」という空気を作り、疑いを生む
→リスク:橘が自身の無実を主張すれば疑惑止まりになる可能性あり
プランC:匿名告発(補助プラン)
・防犯映像と学生証を元にした事件が発覚した後、ネット掲示板や学校への投書で橘の悪評を流す
・「普段から怪しかった」「コンビニで見たことある」などの虚偽証言を複数用意
・教師や生徒の“感情”に訴えかけ、無言のプレッシャーで孤立させる
→リスク:証拠性が低く、強制力は持たない
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白はすべてのプランに対して、失敗時の保険を用意していた。
彼の頭の中にあるのはただの復讐ではない。緻密に設計された“処刑”だ。
1.証拠が白自身に繋がった場合
→使用する衣類・靴はすべて古着屋で揃え、実行後に即廃棄/学生証はゴム手袋を使って取り扱う
2.橘がアリバイを提示してきた場合
→アリバイ証明の“時間差”を利用し、記録が曖昧な夕方の時間帯に犯行を設定
3.誰かに見られた場合
→顔を絶対に見せない/走り方・姿勢なども研究済み
4.失敗してもダメージを与えるために
→万引きの疑いが晴れても、学校内では「一度疑われた奴」という印象が残る
→その後にプランB・Cでじわじわ追撃可能
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白はメモ帳のページを閉じた。そして学生証をもう一度、丁寧にティッシュで包んで小箱に入れ、引き出しに収める。
「失敗はしない。もししても……次がある。」
その言葉には、妙な安心感すらあった。白にとってこの“復讐”は、娯楽でもストレス発散でもない。人生を取り戻す行為だ。
そして次に備え、白はもう一度ノートパソコンを開いた。ターゲットにするコンビニの店内レイアウト、防犯カメラの角度、最寄駅までの逃走ルート――すべてを地図上で確認しながら、最終調整に入る。
(万引きは、あくまで“本人がやった”ように見せるのが重要。)
白は自分の身長と体格を改めて確認する。橘とほぼ同じくらい。制服も同型なら問題ない。顔はマスクとキャップで隠す。そして、動線がカメラに映る場所では、なるべく顔を伏せるように心がける。
ターゲットにするのは、学校から近いが、セキュリティが甘めのコンビニ。店内には一応防犯カメラがあるが、映像の精度は低く、マスクと帽子で十分に誤魔化せる。
(決定的な証拠は“落ちた学生証”だ。)
白は、机の上の封筒からそっと取り出した橘の学生証を見つめる。写真、氏名、学年、クラス――すべて、公式な“証拠”だった。
「万引きをして、学生証を落としていく」
それだけで、橘聖人の人生は音を立てて崩れ始める。
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白の表情に、ほんのわずかに笑みが浮かんだ。
(さあ、“聖人”の仮面を剥いでやろうか。)