世界普遍
世界は、何も変わっていなかった。
それが、俺の率直な感想だった。
暖かな春の日差しが窓から差し込み、白いカーテンがそよぐ。
朝の教室は、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。
友人同士で冗談を言い合う声、スマホの画面を覗き込みながら笑う声、眠そうに机に突っ伏しているやつ。
誰もが、まるでこの日が「普通の一日」であるかのように振る舞っている。
──いや、実際に彼らにとっては「普通の一日」なのだろう。
時間は巻き戻り、俺だけが「未来」を知っている。
この世界の結末を、俺は知っている。
「……」
俺は、自分の手のひらを見つめた。
細く白い指。しっかりとした爪。
どこにも、血はついていない。
大学時代に「汚した」はずの、この手が。
──あの事件も、あの夜も、すべて「なかったこと」になった。
俺が犯した罪も、狂気も、ここではまだ「存在していない」。
ただの「高校生・黒上白」が、ここにいるだけだった。
だが、それは表面上の話に過ぎない。
俺の中には、あの頃の記憶がはっきりと残っている。
玲奈に執着し、玲奈を奪い、玲奈のために手を汚した日々。
警察に包囲された、最後の瞬間──。
それらは決して「なかったこと」にはならない。
むしろ、今の俺を形作る最も重要な要素になっている。
──ならば、俺はどうすべきか?
答えは、決まっている。
「もう一度やり直す」
前回の失敗を踏まえ、玲奈を確実に手に入れる方法を考える。
「普通の高校生」として振る舞いながら、玲奈を引き寄せる。
彼女が俺を「特別な存在」だと認識するように、ゆっくりと仕向けていく。
今度こそ、間違えない。
今度こそ、玲奈を手に入れる。
俺の中の「狂気」は、決して消えない。
だが、それを「表に出す」必要はない。
今の俺に必要なのは、慎重さと計算、そして確実な行動だ。
俺は深く息を吐き、窓の外を見た。
桜の花びらが、春風に乗って舞っている。
その景色は、あの頃とまったく同じだった。
変わらない世界。
──だが、「俺だけ」は、もうあの頃の俺ではない。
俺は「高校生の黒上白」を演じながら、玲奈の世界へと再び足を踏み入れる。
静かに、確実に。
………………。
「高校生としての黒上白」を演じることが、最初の課題だった。
俺はもう、かつてのような「気弱な高校生」ではない。
かといって、急に性格を変えすぎれば、周囲に不審がられる。
──だからこそ、俺は「適度な優等生」を装うことにした。
目立ちすぎず、しかし周囲の印象には残る。
クラスの中心人物ではなくとも、「しっかりした奴」と思われるようにする。
玲奈にとって「信頼できる存在」になるためには、そういうポジションが最適だった。
◆
「黒上ってさ、前より落ち着いた感じしない?」
休み時間、教室の隅で誰かがそんなことを言っているのが聞こえた。
俺は、机の上にノートを広げながら、表情を崩さずに耳を傾ける。
「うん、なんか前より冷静っていうか、大人っぽいよな」
「前はもっと影薄い感じだったのに」
──上出来だ。
違和感を抱かせすぎないよう、しかし以前よりも「少し洗練された自分」を見せる。
それが俺の計画だった。
たとえば、授業中の態度。
昔の俺は、どちらかといえば目立たないようにひっそりと座っていた。
必要最低限の発言しかせず、教室の中で「その他大勢」に紛れていた。
だが、今の俺は違う。
教師に指名されたときは、無駄に焦らず、簡潔に答える。
わからない問題があれば、余計なプライドを捨てて質問する。
そうすれば、教師からの印象もよくなり、「真面目な生徒」という評価が自然と定着する。
実際、何人かの教師が「黒上、最近はよく手を挙げるな」と呟いていたのを耳にした。
──俺は、目立たずに信頼を積み上げる。
◆
また、日常の些細な会話も重要だった。
「黒上、次の授業って何?」
「英語。確か、プリントが配られるはず」
「マジ? やっべ、忘れたかも」
「余分にもらったら、貸してやるよ」
「サンキュー!」
昔の俺なら、こんな会話にわざわざ関与しなかった。
だが、今は違う。
さりげなく、しかし適度に周囲と関わることで、「頼れる奴」という印象を持たせる。
クラスの輪に完全に入る必要はない。
むしろ、「誰とでもそれなりに話せるが、特定のグループには属さない」立ち位置が理想だった。
そうすれば、玲奈と接触するときにも自然に距離を詰められる。
彼女が俺を「特定のグループに縛られない、落ち着いた存在」と認識すれば、警戒心も薄れる。
──玲奈にとっての「話しやすい相手」になる。
それこそが、今の俺の狙いだった。
◆
昼休み、俺は廊下の窓際で一人、弁当を広げた。
周囲では、友人同士で談笑する声が飛び交っている。
俺の隣では、同じように一人で食事をとっている生徒が何人かいた。
俺は箸を進めながら、ふと視線を巡らせる。
玲奈の姿を探して。
彼女はクラスの女子数人と一緒にいた。
笑顔を浮かべながら話しているが、よく見れば、少し退屈そうにも見える。
──玲奈は、群れの中にいながらも、どこか「一人」だった。
昔はそんなふうに思ったことはなかった。
だが、今の俺にはわかる。
彼女には、まだ「本当の理解者」がいない。
──ならば、俺がそのポジションを取ればいい。
俺は黙って弁当の最後の一口を食べながら、静かに微笑んだ。
「適度に優等生を演じる」──その戦略は、着実に進んでいる。
昼休み。
俺は食堂ではなく、教室に残っていた。
玲奈は、クラスの友人と一緒に昼食を取っている。
その姿を、俺は横目で捉えながら、タイミングをうかがった。
──今はまだ、距離を詰めすぎてはいけない。
玲奈が「俺のことを意識し始める」きっかけを、慎重に作る必要がある。
その時、玲奈の友人が何かをこぼした。
「えー、またやっちゃった!」
「ちょっと玲奈、ティッシュ貸して!」
玲奈は小さく笑いながら、カバンを漁る。
だが、なかなか見つからないようだった。
俺は、さりげなくポケットからティッシュを取り出し、玲奈の机の上に置いた。
「使う?」
玲奈が驚いたように俺を見た。
「……えっ? あ、ありがとう!」
笑顔を見せながら、玲奈はティッシュを手に取った。
その表情には、少しだけ「意外そうな色」が混じっていた。
──この違和感を、積み重ねていく。
「黒上くんって、意外と気が利くんだね」
玲奈の友人がそう言い、玲奈も「ほんとだね」と頷いた。
それでいい。
今はまだ、「意外といいやつ」という程度でいい。
少しずつ、確実に、玲奈の中での俺の印象を変えていく。
⸻
放課後。
俺は、玲奈が親しい女子と話しているのを耳にした。
「最近さ、ちょっと気になることがあって……」
玲奈が小さな声でそう言うと、友人が興味津々に聞き返した。
「なになに? 恋バナ?」
玲奈は苦笑しながら、「そういうのじゃなくて……」と言葉を濁した。
──恋愛の話ではない。
ならば、学校生活に関する悩みか?
玲奈の表情を観察する。
そこには、わずかに「不安そうな影」があった。
──彼女は何かに迷っている。
この情報をどう活かすか。
玲奈の悩みが何なのか、はっきりとは分からない。
だが、俺は「未来」を知っている。
彼女は、人間関係において「期待に応えようとする性格」だった。
そのせいで、次第にストレスを溜め込んでいった。
ならば、今の時点で「その負担を軽くする」ような言葉をかければ──
俺は、何気なく玲奈のそばを通るふりをしながら、小さく呟いた。
「……頑張りすぎなくてもいいんじゃない?」
玲奈がピクリと肩を揺らした。
「え……?」
俺は何も言わず、そのまま歩き去る。
この“違和感”を、玲奈の心に植え付ける。
俺の言葉が、「偶然の優しさ」ではなく「彼女を理解している証」だと玲奈が気づいた時──
その時、彼女の中で、俺は「ただのクラスメイト」ではなくなる。