表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

世界普遍

 世界は、何も変わっていなかった。


 それが、俺の率直な感想だった。


 暖かな春の日差しが窓から差し込み、白いカーテンがそよぐ。

 朝の教室は、いつもと変わらない喧騒に包まれていた。


 友人同士で冗談を言い合う声、スマホの画面を覗き込みながら笑う声、眠そうに机に突っ伏しているやつ。

 誰もが、まるでこの日が「普通の一日」であるかのように振る舞っている。


 ──いや、実際に彼らにとっては「普通の一日」なのだろう。


 時間は巻き戻り、俺だけが「未来」を知っている。

 この世界の結末を、俺は知っている。


 「……」


 俺は、自分の手のひらを見つめた。

 細く白い指。しっかりとした爪。


 どこにも、血はついていない。

 大学時代に「汚した」はずの、この手が。


 ──あの事件も、あの夜も、すべて「なかったこと」になった。


 俺が犯した罪も、狂気も、ここではまだ「存在していない」。

 ただの「高校生・黒上白」が、ここにいるだけだった。


 だが、それは表面上の話に過ぎない。


 俺の中には、あの頃の記憶がはっきりと残っている。

 玲奈に執着し、玲奈を奪い、玲奈のために手を汚した日々。

 警察に包囲された、最後の瞬間──。


 それらは決して「なかったこと」にはならない。

 むしろ、今の俺を形作る最も重要な要素になっている。


 ──ならば、俺はどうすべきか?


 答えは、決まっている。


 「もう一度やり直す」


 前回の失敗を踏まえ、玲奈を確実に手に入れる方法を考える。

 「普通の高校生」として振る舞いながら、玲奈を引き寄せる。

 彼女が俺を「特別な存在」だと認識するように、ゆっくりと仕向けていく。


 今度こそ、間違えない。

 今度こそ、玲奈を手に入れる。


 俺の中の「狂気」は、決して消えない。

 だが、それを「表に出す」必要はない。

 今の俺に必要なのは、慎重さと計算、そして確実な行動だ。


 俺は深く息を吐き、窓の外を見た。


 桜の花びらが、春風に乗って舞っている。

 その景色は、あの頃とまったく同じだった。


 変わらない世界。


 ──だが、「俺だけ」は、もうあの頃の俺ではない。


 俺は「高校生の黒上白」を演じながら、玲奈の世界へと再び足を踏み入れる。


 静かに、確実に。


………………。


「高校生としての黒上白」を演じることが、最初の課題だった。


 俺はもう、かつてのような「気弱な高校生」ではない。

 かといって、急に性格を変えすぎれば、周囲に不審がられる。


 ──だからこそ、俺は「適度な優等生」を装うことにした。


 目立ちすぎず、しかし周囲の印象には残る。

 クラスの中心人物ではなくとも、「しっかりした奴」と思われるようにする。

 玲奈にとって「信頼できる存在」になるためには、そういうポジションが最適だった。


 ◆


 「黒上ってさ、前より落ち着いた感じしない?」


 休み時間、教室の隅で誰かがそんなことを言っているのが聞こえた。


 俺は、机の上にノートを広げながら、表情を崩さずに耳を傾ける。


 「うん、なんか前より冷静っていうか、大人っぽいよな」

 「前はもっと影薄い感じだったのに」


 ──上出来だ。


 違和感を抱かせすぎないよう、しかし以前よりも「少し洗練された自分」を見せる。

 それが俺の計画だった。


 たとえば、授業中の態度。


 昔の俺は、どちらかといえば目立たないようにひっそりと座っていた。

 必要最低限の発言しかせず、教室の中で「その他大勢」に紛れていた。


 だが、今の俺は違う。


 教師に指名されたときは、無駄に焦らず、簡潔に答える。

 わからない問題があれば、余計なプライドを捨てて質問する。


 そうすれば、教師からの印象もよくなり、「真面目な生徒」という評価が自然と定着する。

 実際、何人かの教師が「黒上、最近はよく手を挙げるな」と呟いていたのを耳にした。


 ──俺は、目立たずに信頼を積み上げる。


 ◆


 また、日常の些細な会話も重要だった。


 「黒上、次の授業って何?」

 「英語。確か、プリントが配られるはず」

 「マジ? やっべ、忘れたかも」

 「余分にもらったら、貸してやるよ」

 「サンキュー!」


 昔の俺なら、こんな会話にわざわざ関与しなかった。

 だが、今は違う。


 さりげなく、しかし適度に周囲と関わることで、「頼れる奴」という印象を持たせる。

 クラスの輪に完全に入る必要はない。

 むしろ、「誰とでもそれなりに話せるが、特定のグループには属さない」立ち位置が理想だった。


 そうすれば、玲奈と接触するときにも自然に距離を詰められる。

 彼女が俺を「特定のグループに縛られない、落ち着いた存在」と認識すれば、警戒心も薄れる。


 ──玲奈にとっての「話しやすい相手」になる。


 それこそが、今の俺の狙いだった。


 ◆


 昼休み、俺は廊下の窓際で一人、弁当を広げた。


 周囲では、友人同士で談笑する声が飛び交っている。

 俺の隣では、同じように一人で食事をとっている生徒が何人かいた。


 俺は箸を進めながら、ふと視線を巡らせる。


 玲奈の姿を探して。


 彼女はクラスの女子数人と一緒にいた。

 笑顔を浮かべながら話しているが、よく見れば、少し退屈そうにも見える。


 ──玲奈は、群れの中にいながらも、どこか「一人」だった。


 昔はそんなふうに思ったことはなかった。

 だが、今の俺にはわかる。


 彼女には、まだ「本当の理解者」がいない。


 ──ならば、俺がそのポジションを取ればいい。


 俺は黙って弁当の最後の一口を食べながら、静かに微笑んだ。


 「適度に優等生を演じる」──その戦略は、着実に進んでいる。


 昼休み。

 俺は食堂ではなく、教室に残っていた。


 玲奈は、クラスの友人と一緒に昼食を取っている。

 その姿を、俺は横目で捉えながら、タイミングをうかがった。


 ──今はまだ、距離を詰めすぎてはいけない。


 玲奈が「俺のことを意識し始める」きっかけを、慎重に作る必要がある。


 その時、玲奈の友人が何かをこぼした。


 「えー、またやっちゃった!」


 「ちょっと玲奈、ティッシュ貸して!」


 玲奈は小さく笑いながら、カバンを漁る。


 だが、なかなか見つからないようだった。


 俺は、さりげなくポケットからティッシュを取り出し、玲奈の机の上に置いた。


 「使う?」


 玲奈が驚いたように俺を見た。


 「……えっ? あ、ありがとう!」


 笑顔を見せながら、玲奈はティッシュを手に取った。

 その表情には、少しだけ「意外そうな色」が混じっていた。


 ──この違和感を、積み重ねていく。


 「黒上くんって、意外と気が利くんだね」


 玲奈の友人がそう言い、玲奈も「ほんとだね」と頷いた。


 それでいい。

 今はまだ、「意外といいやつ」という程度でいい。


 少しずつ、確実に、玲奈の中での俺の印象を変えていく。



 放課後。

 俺は、玲奈が親しい女子と話しているのを耳にした。


 「最近さ、ちょっと気になることがあって……」


 玲奈が小さな声でそう言うと、友人が興味津々に聞き返した。


 「なになに? 恋バナ?」


 玲奈は苦笑しながら、「そういうのじゃなくて……」と言葉を濁した。


 ──恋愛の話ではない。


 ならば、学校生活に関する悩みか?


 玲奈の表情を観察する。

 そこには、わずかに「不安そうな影」があった。


 ──彼女は何かに迷っている。


 この情報をどう活かすか。


 玲奈の悩みが何なのか、はっきりとは分からない。

 だが、俺は「未来」を知っている。


 彼女は、人間関係において「期待に応えようとする性格」だった。

 そのせいで、次第にストレスを溜め込んでいった。


 ならば、今の時点で「その負担を軽くする」ような言葉をかければ──


 俺は、何気なく玲奈のそばを通るふりをしながら、小さく呟いた。


 「……頑張りすぎなくてもいいんじゃない?」


 玲奈がピクリと肩を揺らした。


 「え……?」


 俺は何も言わず、そのまま歩き去る。


 この“違和感”を、玲奈の心に植え付ける。


 俺の言葉が、「偶然の優しさ」ではなく「彼女を理解している証」だと玲奈が気づいた時──


 その時、彼女の中で、俺は「ただのクラスメイト」ではなくなる。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ