学校過去
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、肌を温める。時計の針は午前6時30分を指していた。
俺はベッドからゆっくりと起き上がり、窓の外を見下ろした。通学路を歩く学生たち。変わらない街並み。何もかもが「過去」と同じままだ。
……いや、「過去」ではない。
今の俺にとっては、これは「現在」だ。
すべてはやり直すために与えられた時間。
昨日、俺はこの逆行の意味を理解し、新たな計画を立てた。今日から、それを実行に移す。
制服に袖を通し、鏡の前でネクタイを締める。高校時代の自分の顔がそこにあった。まだ穢れていない、純粋だった頃の俺。
「……慎重にいけ」
小さく呟くと、俺は教科書の詰まった鞄を肩にかけ、家を出る。
─────
校門をくぐると、そこにはかつて見た光景が広がっていた。
昇降口で友人たちが談笑し、教室へと続く廊下にはいつも通りの喧騒が満ちている。
──だが、俺の目に映る彼らは「ただのクラスメイト」ではなかった。
俺は彼らの“未来”を知っている。
「あの時、こいつは玲奈に告白していた」
「こいつは玲奈の相談相手だった」
「こいつは玲奈に裏切られたと感じ、彼女を憎んだ」
すべてが記憶に焼き付いている。
たとえば、廊下でふざけながら歩く男子の一人──宮田翔太。
高校時代、ただの明るいクラスメイトだったが、やがて玲奈に恋をし、大学時代には告白して振られた。彼はその後も未練を抱き続け、玲奈の周りをうろついていたが、結局は玲奈にとって“どうでもいい存在”で終わった。
「宮田、お前は無駄に足掻くなよ……」
心の中でそう呟きながら、俺は静かに教室の扉を開けた。
チャイムが鳴り響き、昼休みが始まった。
教室の中は一気に騒がしくなり、あちこちで弁当を広げる音や、椅子を引く音が響く。
俺は机に肘をつき、何気なく周囲の会話に耳を傾けた。
──この空間は、かつて俺が生きていた“日常”のはずだった。
だが、今の俺にとって、それは違う。
なぜなら、俺はここにいる誰よりも、この先の未来を知っているからだ。
以前の俺なら、こうして周囲の話を意識することはなかった。ただ、うるさいなと思いながら、適当に流していた。
でも今は違う。
“知っている”という事実が、世界の見え方を変えてしまった。
「ねえ、昨日のドラマ見た?」
「玲奈、今日なんか機嫌よかったよな」
「バスケ部のアイツ、玲奈狙ってるって噂じゃん?」
玲奈──その名前が聞こえた瞬間、俺の意識は鋭く反応した。
俺の席の斜め前に座る女子二人が、弁当を広げながら話している。
「玲奈って、結局誰が好きなの?」
「さあ? あんまりそういうの話さないよね」
「でもさ、モテる子ほど逆に恋愛の話しないって言うじゃん?」
「確かに。でも、玲奈が誰かと付き合うって想像できないなー」
──この会話を、俺は知っている。
まったく同じ内容を、かつて聞いたことがある。
当時の俺は興味もなく、適当に聞き流していた。
だけど、今は違う。
俺にはわかる。
この言葉の奥にある意味が。
「玲奈は恋愛の話をしない」
それはただの無関心ではなく、「誰とも付き合う気がない」という玲奈なりの意志表示だった。
──俺は、それを知っている。
だからこそ、この“変わらない”会話が、今の俺には恐ろしく思えた。
(……俺が逆行しても、玲奈は何も変わらない)
彼女は、あの頃と同じまま、変わらずに生きている。
なのに、俺だけが彼女を知り尽くし、彼女を求め、彼女に執着している。
この「一方的な不均衡」こそが、今の俺が抱える違和感の正体だった。
「ねえ、玲奈って前に誰かに告白されたことある?」
「え? あるんじゃない?」
「でもさ、付き合ってるとこ見たことないよね?」
「うーん……断ってるんじゃない? てか、玲奈のこと本気で落とせる男なんているの?」
……この会話も、覚えている。
そう、玲奈には“本気で落とせる男”なんていなかった。
彼女は、誰とも付き合わなかった。
──それが、俺にとっての最大の問題だった。
だからこそ、俺は彼女を手に入れようとして、そして失敗した。
その結末を変えるために、俺はここにいる。
だが、今の玲奈はまだ俺の存在を意識してすらいない。
あの頃の俺と同じように、玲奈に想いを寄せる者たちは、この教室の中にもいるのだろう。
(あの時、こいつは玲奈に告白していた……)
(こいつは玲奈の相談相手だった……)
彼らは、まだ自分の運命を知らない。
玲奈を好きになり、近づき、やがて振られる。
それでも諦めきれずに、玲奈の周囲に留まり続ける。
そして最終的には、玲奈にとって「どうでもいい存在」となって消えていく。
──俺は、それを見てきた。
そして、俺もまたその中の一人だった。
「……いや、違う」
俺は彼らとは違う。
俺はもう「玲奈を振り向かせるために頑張る」ような生ぬるい道を選ばない。
今回の俺は、玲奈の隣を「確実に」手に入れる。
それが、俺の目的だ。
教室の外がざわつく音がした。
ふと視線を向けると、廊下の向こうを玲奈が歩いていた。
短いスカートの制服姿。白いカーディガン。
何も変わらない、あの頃の玲奈の姿だった。
……あのときと同じ。
それがわかっているのに、胸が苦しくなる。
玲奈は、まだ俺のことを知らない。
この教室の中に俺がいることすら、意識していないだろう。
俺の時間だけが進んでいる。
それが、この違和感の正体だった。
だが、それでいい。
焦る必要はない。
今は、ただこの状況を確認し、玲奈との距離を測る段階だ。
……今すぐにでも玲奈に会いたい。
だが、焦るのは禁物だ。今日の段階では、玲奈とはまだ直接会わない。俺が「自然に」玲奈に近づくためには、まず周囲を整える必要がある。
そんなことを考えていると、廊下から聞き慣れた声が聞こえた。
「玲奈、マジで昨日の数学やばかったでしょ?」
「ほんとそれ。てか、次のテスト範囲広すぎるって」
玲奈の親友──香坂麻衣と小野寺遥だ。
彼女たちは玲奈といつも一緒にいた。高校時代の玲奈の“取り巻き”とも言える存在だった。
俺は彼女たちの会話を無意識に追っていた。
「玲奈、最近ちょっと元気ないよね」
「うーん、なんか考え事してるっぽい」
……考え事?
玲奈は今、この時点で何か悩んでいたのか?
記憶を遡る。
高校時代の玲奈は、表面上は明るく振る舞っていたが、たしかに時折「憂い」を見せることがあった。だが、それが何だったのかは覚えていない。
「……なら、思い出せばいい」
過去の記憶を掘り起こし、玲奈の“今”を知る。
そのためには、もっと情報が必要だ。
⸻
一瞬、視界が歪んだ気がした。
……そして、思い出す。
大学時代の俺は、玲奈の前で膝をつき、彼女の手を握っていた。
「俺のすべてを捧げる。だから……どうか、俺を見てくれ」
玲奈は微笑んでいた。
だが、その笑顔は俺のものではなかった。
俺が欲した玲奈は、結局、俺のものにはならなかった。
──その結末を、俺は変えなければならない。
昼休みが終わり、次の授業の準備をする。
俺はノートを開きながら、ゆっくりとペンを握った。
「……今度は、失敗しない」
玲奈は、俺のものになる。
そうなる未来を作るのは、俺の意志だ。