決意と対面
放課後、教室の空気が少しずつ緩み始める。
生徒たちは帰り支度をしたり、友達と話し込んだり、部活動へ向かったりと、それぞれの時間を過ごしていた。
俺は、まだ席に座ったまま、じっと視線を泳がせていた。
──玲奈。
彼女は今、教室の後ろで友人たちと談笑している。
その声は柔らかく、軽やかで、何の影もない。
俺は手の中のペンを無意識に強く握りしめた。
……この瞬間を、ずっと待っていた。
時間が逆行し、俺が高校生に戻ってから、玲奈とはまだまともに言葉を交わしていない。
彼女は俺のことを普通のクラスメイトとしてしか認識していない。
当然だ。俺たちは「初対面」のはずなのだから。
だが──俺にとっては違う。
彼女の仕草、話し方、口癖、笑うタイミング、好きなもの、嫌いなもの……
すべてを知っている。
どんな言葉をかければ喜ぶのか、どんな行動をすれば興味を持たれるのか──
玲奈を手に入れる方法を、俺は熟知している。
「黒上くん、だっけ?」
その声を聞いた瞬間、時間が止まったような感覚に陥った。
俺の中で、何かが鋭く弾ける音がした。
何度も何度も聞いた声。
大学時代、玲奈が俺の名前を呼ぶたびに、心臓が跳ね上がったことを思い出す。
それは恋情と執着が絡み合った、奇妙な興奮だった。
……それなのに、玲奈の声は、ただのクラスメイトに話しかけるように、何の感情も乗せていなかった。
俺は顔を上げた。
そして、目の前に立つ玲奈を見た。
──ああ、やっぱり。
変わっていない。
玲奈は相変わらず、柔らかな微笑みを浮かべていた。
長い髪を耳にかけながら、じっと俺を見ている。
瞳の奥に、警戒もなければ、恐怖もない。
俺のことを、何も知らない目をしていた。
それが当然だと分かっているのに、胸の奥がざわついた。
高校生の玲奈は、俺のことをただのクラスメイトとしてしか認識していない。
あの頃、俺が彼女に執着し、狂気に染まっていったことを、何ひとつ知らない。
「ええっと、昨日のプリント、余ってたら欲しいんだけど……」
玲奈が言った。
ああ、そうか。
この程度のことで話しかけられただけか。
俺は無意識に、口の端を持ち上げる。
それでも、これは大きな一歩だ。
「たぶん余ってると思う。ちょっと待って」
俺は机の中を探り、余ったプリントを取り出した。
玲奈はそれを受け取りながら、小さく笑った。
「ありがとう。助かった」
その笑顔を見た瞬間、時間が巻き戻ったような錯覚に襲われた。
大学時代の玲奈が、俺に微笑む場面がフラッシュバックする。
俺は彼女の笑顔が見たくて、どれだけのことをしてきた?
彼女を手に入れるために、どれほどのものを犠牲にした?
そして今、彼女は何も知らず、何も覚えておらず、ただ無邪気に笑っている。
それが、たまらなく悔しかった。
だが、同時に、この状況は好機でもあった。
俺は、最初からやり直せる。
今度こそ、玲奈を手に入れるために。
俺は、ゆっくりと息を吐く。
焦るな。慎重に、確実に進めろ。
「どういたしまして」
そう返す俺の声は、驚くほど落ち着いていた。
…………。
玲奈は高校生のまま。
大学時代の彼女とは違う。
まだ何も知らない、何も壊れていない。
無垢で、純粋で、穢れのない存在。
今の俺なら、もう一度「彼女を守れる」立場にいる。
その事実が、俺の心に妙な安堵をもたらす。
……でも、同時に、疑念が生まれる。
「彼女は、このまま生きていくのか?」
何も知らず、何も経験せず、俺が狂ったあの世界とは無関係に。
──それでいいのか?
もしそうなら、俺はなぜここに戻ってきた?
玲奈は、俺の全てだった。
俺は彼女のために人を殺し、彼女のために狂い、彼女のためにすべてを失った。
それなのに、玲奈だけが変わらないなんて、そんなのは不公平だ。
俺が見たもの、経験したもの、感じた痛みと同じものを、玲奈も知るべきじゃないのか?
──彼女も、俺と同じところまで堕ちるべきじゃないのか?
⸻
俺が玲奈を見つめていると、ふいに男の声が割り込んできた。
「玲奈、部活もう行く?」
現れたのは、橘聖人。
玲奈と親しい男子の一人。
こいつが──邪魔になる。
橘聖人は、バスケ部のレギュラーで、社交的で、誰にでも優しい。
玲奈とはただの友人関係のはずだが、距離が妙に近い。
玲奈は笑顔で頷いた。
「うん、そろそろ行く」
俺の手の中で、シャーペンが小さく軋んだ。
……この光景も、知っている。
橘聖人──こいつは、玲奈の周りをウロウロし続ける存在だった。
当時の俺は気にしていなかったが、今思えば、あまりにも玲奈の近くにいすぎた。
それに──
(……こいつは、玲奈に告白したはずだ)
未来の記憶が、鮮明に蘇る。
そう、橘聖人はこのあと、玲奈に告白する。
玲奈はそれをやんわりと断るが、それでも橘は諦めず、彼女の友人ポジションに居続ける。
最終的には、玲奈の「相談相手」にまでなった。
──それは、俺にとって許容できない未来だった。
橘聖人の存在は、俺の計画の邪魔になる。
玲奈の傍にいられるのは、俺だけでいい。
(こいつがいる限り、玲奈は俺を必要としない)
……ならば、どうする?
答えは、決まっている。
橘聖人を排除する。
⸻
「玲奈の世界に入る」ための第一歩
玲奈と橘が連れ立って教室を出ていく。
俺は無意識に、ペンを強く握りしめた。
──俺は、もう間違えない。
この時間は、俺に与えられた「やり直しのチャンス」だ。
前回と同じ轍は踏まない。
玲奈が誰のものにもならないなら、俺がその唯一の存在になる。
そのために必要なら、俺は何だってする。
たとえ、それがどんな手段でも。