逆行
重いまぶたをゆっくりと開いた。目の前には見慣れない天井が広がっている。いや、正確には「見慣れないはずの天井」だ。灰色がかったシンプルな模様の壁紙。薄暗い照明に照らされた木目調の天井。息を整えながら、視界の隅々まで確認する。
──これは、高校時代の部屋じゃないか?
だが、そんなはずはない。
俺は確かに終わったはずだ。すべてが。俺という存在が、この世界から完全に消えるはずだったのに──。
脳裏に焼き付いた記憶がある。警察のサイレンの音。荒々しい足音が近づいてくる。四方八方から突きつけられる銃口。何人もの人間が俺を見下ろし、軽蔑と憐れみの入り混じった視線を投げかけていた。
その光景の中で、俺はただ一人の女性を見ていた。
──玲奈。
彼女は遠くにいた。俺を見ていたのか、それとも別の何かを見ていたのかはわからない。ただ、その表情は何の感情もない虚ろなものだった。
その後の記憶は途切れている。俺は捕まったのか、それとも誰かに殺されたのか。
だが、確かに俺は終わったはずだった。
なのに、今ここにいる。
「……冗談だろ」
呟きながら、ゆっくりと起き上がる。ふと手元を見ると、そこには血の一滴も付いていない。あの時、俺の手は真っ赤に染まっていたはずなのに。
すべてが綺麗だ。
何かがおかしい。
⸻
ベッドから降り、ふらつく足取りで部屋の端にある姿見へと向かう。
そこで目にしたものに、思わず息を呑んだ。
「……高校生の俺だ」
鏡の中には、まだ若さの残る黒上白がいた。大学生の時よりも少し線が細く、目の下のクマも薄い。俺はそっと頬に手を当てる。指先が触れた肌は、確かに俺のものだった。
手のひらを見つめる。長年染み付いていた「何か」が、すべてリセットされたかのように綺麗になっている。
震える指でスマートフォンを手に取った。電源を入れると、画面に表示された日付が俺の思考を止めた。
──高校2年生の5月。
「……そんなことが、あるのか?」
何度確認しても、日付は変わらない。LINEを開けば、未読のメッセージがいくつかある。クラスメイトや部活の連絡が並んでいた。まるで過去に戻ったかのように。
これは夢なのか?それとも──。
俺は額を押さえながら、呼吸を整えた。
──落ち着け。パニックになるな。
これは単なる偶然や錯覚じゃない。
俺は、本当に時間を逆行したんだ。
⸻
俺はしばらく動けなかった。だが、混乱の波が少しずつ収まり始めると、別の感情が心の奥から湧き上がってきた。
これは、やり直せる機会なのではないか?
玲奈を失わずに済む。玲奈を手に入れるために、もっと違う方法を選べる。
あの時の俺は、愚かだった。
大学生の俺は、玲奈を崇拝するあまり、あらゆる道を踏み外した。結果として、玲奈は俺から離れ、最終的に俺はすべてを失った。
──だが、今度は違う。
今度こそ、玲奈を絶対に手に入れる。
だが、以前と同じ手は使えない。
無理に距離を縮めれば、玲奈は不審に思うだろう。慎重に、丁寧に、そして確実に彼女の心を掌握しなければならない。
「焦るな……今回は、絶対に失敗できない」
深く息を吸い込むと、俺は鏡の前で静かに笑った。
大学生の俺は、狂気に囚われて玲奈を失った。
しかし、高校生の俺は違う。
今度こそ、玲奈を俺のものにする。
⸻
夜の静寂の中、俺はベッドの上で仰向けになりながら、天井を見つめていた。
明日から、どう動くべきか。
俺は一度、玲奈を失った。その経験を踏まえ、今度こそ確実に玲奈を手に入れるための方法を考えなければならない。
「焦るな……慎重に、確実に進めるんだ」
心の中で自分に言い聞かせる。
──まず、現状を整理する。
今の俺は、高校2年生の黒上白。大学生の頃とは違い、まだ玲奈とは深い関係ではない。ただのクラスメイトだ。もちろん、玲奈の記憶も「リセット」されている。
つまり、俺は玲奈にとって“ただの同級生”としての立場からやり直せる。
……いや、それどころか、玲奈の恋愛事情もリセットされているのなら、俺は「最初に」玲奈にとっての特別な存在になれる可能性がある。
これは大きなチャンスだ。
⸻
玲奈を手に入れるためには、まず彼女の周囲の環境を理解し、適切に対処する必要がある。
玲奈は高校時代、男女問わず交友関係が広かった。特に、ある特定の男子とは仲が良く、時には恋愛に発展しそうな雰囲気を醸し出していた。
──そいつを排除しなければならない。
もちろん、前回のように過激な方法は取らない。無理に動けば玲奈に不信感を抱かせるだけだ。
今回は慎重に、そして計画的に動く。
方法としては、以下の手順が考えられる。
1. 玲奈と仲の良い男子の情報を収集する。
2. 彼らがどんな人間で、どんな性格なのかを再確認する。
3. 玲奈が誰に対して心を許しやすいのかを分析する。
4. 彼らが玲奈に近づきにくい環境を作り出す。
具体的な手段としては、玲奈の周囲の人間関係を「少しずつ」歪めることだ。
たとえば、玲奈の仲の良い男子が他の女子と噂になるように仕向けたり、さりげなく玲奈の中での彼の印象を悪くする。直接手を下さずとも、人の感情や噂は簡単に動くものだ。
……かつての俺は、こういう「間接的な支配」を軽視していた。
だが、今度は違う。
⸻
玲奈とただのクラスメイトとしての関係を築くのでは意味がない。最終的に「恋愛対象」として意識させなければならない。
そのためには、玲奈の「求める理想像」に沿う必要がある。
玲奈はどんな異性に惹かれるのか──俺はそれを熟知している。
・頼れる存在であること
玲奈は、自分のことを完璧に見せようとするが、実際には内面に多くの不安を抱えている。その不安をさりげなく支えることで、俺の存在が彼女の中で「必要不可欠なもの」になっていく。
・共感しすぎないこと
玲奈は自分の悩みに寄り添ってくれる人を求めるが、あまりにも共感しすぎると「対等な関係」としてしか認識されなくなる。時には突き放すような態度を取り、彼女に「この人の気を引きたい」と思わせるようにする。
・意外性を持たせること
単に優しいだけではダメだ。玲奈の中に「この人、思っていたのと違う」と思わせることで、より深く俺に興味を抱かせる。
このように、俺は玲奈の「無意識の中」に入り込むことで、彼女の心を俺だけのものにする。
⸻
玲奈を手に入れるには時間がかかる。
俺はすぐに結果を求めるのではなく、慎重に計画を実行する必要がある。
フェーズ1
・玲奈との会話の機会を増やし、まずは「安心できる存在」としてのポジションを確立する。
・同時に、玲奈が親しくする男子の情報を収集し、適宜印象操作を行う。
・玲奈が困ったときに、偶然を装って助ける場面を作る。
フェーズ2
・玲奈が俺といることが「当たり前」になるように環境を整える。
・玲奈の悩みを聞きつつ、完全に共感するのではなく、少し突き放すことで「この人に認められたい」という感情を芽生えさせる。
・玲奈の感情が揺れ動くような出来事を巧妙に作り出す。
フェーズ3
・玲奈の中で「黒上白がいなければダメだ」という認識を強固にする。
・玲奈の周囲の人間関係が変化し、俺が唯一の心の拠り所になるようにする。
・最終的に、玲奈が自ら俺のものになりたいと思うように仕向ける。
これらのステップを慎重に踏めば、玲奈を俺のものにすることは可能だ。
⸻
深く息を吐いた。
これは、単なる恋愛ではない。
俺は一度、玲奈を失った。大学生の俺は、愚かな選択を繰り返し、結局は何も得られなかった。
今度こそ、玲奈を俺のものにする。
そのためには、どんな手段も厭わない。
だが、かつてのように衝動に駆られてはならない。
慎重に、確実に。玲奈が自ら俺を求めるように導く。
──そのための「計画」は、今、完璧に立てた。
俺はゆっくりと瞼を閉じた。
明日から、俺の「二度目の人生」が始まる。
⸻
翌朝、俺は制服に袖を通し、久しぶりに高校の門をくぐった。
校舎の雰囲気。生徒たちの声。まるで「過去」がそのまま再現されているかのような感覚。
だが、俺はもう過去の俺ではない。
大学生として玲奈を失った俺が、今度こそ玲奈を手に入れるための高校生活が、ここから始まる。
俺は、何も知らない高校生の玲奈に微笑みかけた。
「おはよう、玲奈」
──これは、俺が玲奈を手に入れるための、二度目の人生だ。