7.リーシェ
船が港に着いた。
アリシアはふっと息を吐き、
甲板からゆっくりとタラップを下りる。
冷たい風が頬をかすめ、
灰色の空の下、見覚えのある港が広がっていた。
季節は冬の終わり、春がようやく訪れようとしているが、まだ寒さが厳しい。
港に降り立つと、足元からじわりと冷気が染みる。薄いケープ一枚では頼りなく、指先まで冷たくなっていた。
──やっぱり、まともな準備はさせてもらえなかった。
アリシアは自嘲気味に思う。
侍女も護衛もつけられず、荷物もほとんどなく、予備の防寒着すら用意されていない。
周囲にいる兵士たちは無言で整列し、
誰一人として歓迎の色はなく、
ただただ無表情なまま、
業務としての出迎えを遂行している。
冷え切った空気が、アリシアの心までじわりと凍らせるようだった。
そんな中、一人の女性が一歩前に踏み出す。
出迎えに立っていたのは、女官の──リーシェ。
金髪をきっちりとまとめており、端正な顔立ちで、その涼しげな青い瞳が、静かにアリシアを見つめていた。
感情の色が見えない瞳。
その佇まいも、表情も、以前と何一つ変わらない。
リーシェは深く一礼すると、淡々とした声で言った。
「ようこそお越しくださいました、ブレヴィス王国へ。私は王宮に仕える女官、リーシェと申します」
相変わらず、機械のような温度を感じさせない口調。
だが、アリシアの胸の奥には、過去の記憶がじわりと蘇る。
──彼女は、決して冷たく当たることも、優しく接することもなかった。
私が祖国で蔑まれた皇女であろうと、見捨てられた王妃であろうと、何の特別扱いもせずに接していた。
彼女の瞳には、侮蔑もなければ、憐れみもない。
疫病で動けなくなったときも、彼女はただ淡々と食事を運び、最低限の世話をした。
そこに感情はないように見えたが、それこそが彼女の「公平さ」だったのではないか。
リーシェは静かに言葉を続ける。
「お寒いことでしょう」
そう言うと、毛皮の外套を差し出す。
「防寒具が必要かと思い、準備いたしました」
その声は平坦で、
ただの業務報告のように聞こえる。
以前のアリシアは、彼女に対してただ冷たいだけに感じた。
けれど今は──違う。
彼女は一回目の人生で、何一つ気づかなかった。
ただ寒さに震え、冷遇されていることに憤りを感じるばかりで、差し出されたもの、与えてくれるものに目を向けることはなかった。
だが、今ならわかる。
リーシェは決して温かい言葉をかけてくれるわけでも寄り添ってくれるわけでもない。
けれど、彼女なりの気遣いがそこにあったのだ。
アリシアは外套を受け取り、静かに身にまとう。
「ありがとう」
その言葉は自然と口をついて出る。
防寒具が温かいだけではない気がした。
アリシアは小さく息を吐き、
口元にうっすらと微笑を浮かべた。
「出迎えありがとう。アリシアよ。これからよろしくね」
そう言うと、リーシェは無表情のまま、一礼した。
「長旅でお疲れでしょう。まずは御馬車へご案内いたします」
そう言って、静かに歩き出す。
──相変わらず。
けれど、以前と違い、彼女のその背中に少しの安心感を覚えた。
かつての私は、
彼女の態度に反感を覚えていた。
使用人に強く当たり、それを諫められるたびに、ますます苛立ちを募らせた。
だが、今ならわかる。
誰もが私の傍にいることを嫌がり、関わりを持つことを避ける中で、彼女は何度も私を諫め関わりをやめようとはしなかった。
冷たく無表情で寄り添うことはしないが、
きっと彼女なりの向き合い方なのだろう。
そして少なくとも、母が亡くなってから今まで出会った中で公平に色眼鏡無しにアリシアに接してくれた人物でもあった。
今回は、前とは違った彼女との関係を築いていけたら──
そんな思いを胸に抱きながら、アリシアはリーシェの背を見つめ、彼女のあとを歩き出した。