10.メアリー
リーシェの案内を受けて、
アリシアは石造りの廊下を進み、
重厚な扉が静かに開いて、
案内された部屋に足を踏み入れる。
「どうぞお入りください」
リーシェの淡々とした声が響く。
以前と変わらない部屋
派手さは一切なく、石壁に囲まれ、窓は小さく寒冷な地に相応しい実用的な造りだ。
厚手のカーテンが窓を覆い、
床には粗い毛織物の敷物が広がっている。
石の冷たさを和らげるための工夫だろう。
暖炉には薪がくすぶり、ゆらめく炎だけが、温もりをもたらしていた。
変わらない……
アリシアは小さく息を吐く。
暖炉の前に置かれたソファーに腰を下ろすと、控えていたメイドがトレイを持って近づいてきた。
カップから立ち上る白い湯気に、
紅茶のほのかな香りが混じる。
アリシアは黙ってカップを受け取り、一口含んだ。
喉を通る温かさに、少しだけ緊張が解けたような気がした。
「何かございましたら、こちらの者にお申し付けください」
リーシェの言葉で、アリシアは目を上げた。
彼女の横には、二人のメイドが控えていた。
……あの子は
アリシアの視線が、一人のメイドで止まる。
栗色の髪を丁寧にまとめ、
控えめな姿勢で立つその女性。
…メアリー
前回、アリシアに仕えていたメイドで、
リーシェと同じく、アリシアを変な目で見なかった人物だった。
けれど、アリシアは彼女に苛立ちをぶつけた。
孤独と不安、そして自分自身への怒りを、彼女に向けてしまったのだ。
辛く当たり、暴言を吐き、最後には紅茶を投げつけた——。
驚きと悲しみの色を浮かべた彼女の表情が、今でも脳裏に焼き付いている。
その日以来、彼女の姿を見かけることはなかった。
後悔してもしきれない。
胸の奥がひやりと冷たくなる。
だが、アリシアはリーシェの声で現実に引き戻される。
「王妃様、どうかなさいましたか?」
無表情な彼女の顔からは、
真意を読み取ることはできないが、
けげんそうな顔をしているように見えた。
「いいえ、何でもないわ」
アリシアはそっと紅茶を置き、メアリーに目を向ける。
「あなた、名前は?」
唐突な問いに、メアリーは一瞬驚いたように目を見開き、リーシェをちらりと見たが、すぐに慌てて名を名乗った。
「メ、メアリーと申します」
アリシアは彼女に微笑みかけ、そしてリーシェに言った。
「リーシェ、彼女を私の専属のメイドにしてちょうだい」
リーシェは今度こそ、明らかにけげんな顔をした。
わずかに眉を寄せ、疑問を隠さない。
「なぜ、そのように?」
「なんとなくよ。いいじゃない、どうせこれからお世話になるんでしょう?」
アリシアは涼しげに言い放つ。
リーシェはしばし考えるように黙ったが、やがて小さくうなずいた。
「分かりました。メアリー、頼みましたよ」
「は、はい……わかりました。王妃様、よろしくお願いいたします」
メアリーは慌てて頭を下げたが、
その姿を見ていたもう一人のメイドは、
彼女を哀れむような目で見ていた。
アリシアは静かにメアリーを見つめ、穏やかに声をかける。
「メアリー、これからよろしくお願いね」
顔を上げた彼女は、戸惑いながらも、笑顔を見せてくれた。
「はい、よろしくお願いいたします!」
横から見ていたリーシェが、控えめに咳払いをした。
「では、そういうことですので、よろしくお願いします。夕食までゆっくりおくつろぎください」
礼をして、メアリーともう一人のメイドを連れて部屋を出て行った。
静寂が訪れる。
暖炉の薪が、ぱち、ぱち、と小さく爆ぜた。
それが唯一の音だったが、
突然、無遠慮な声が部屋に響いた。
「へぇ、あいつがお前が虐げたメイドか」
いつの間にか暖炉の前にいたルトが、温まりながら、こちらを見ている。
……このカピバラ、私の心を抉ってくるわね
アリシアは目を細め、ルトを見返した。
「ええ、そうよ。私のしたことは許されるものじゃないわ」
紅茶を握りしめ、わずかに震える指を隠すように、ソファーに深く背中を預ける。
「だから、今回は絶対に彼女に優しくするって決めたの」
ルトは特に興味もなさそうに、目を細め暖炉にあたっている。
静けさが、身体に染み込んでいく。
アリシアは暖炉の炎のゆらめきを見つめる。
暖かさが広がるのと同時に、少しずつ、緊張がほどけていった。
アリシアは目を閉じる。
呼吸が深くなり、
——ぱちっ。
薪が爆ぜる音が、ゆるやかな眠気を誘い、気づけば、身体から力が抜けていた。
暖炉の火は、静かに、穏やかに、部屋を照らし続けていた。