第9話 高校入学
永遠の夕暮れが支配する第二階層。その茜色に染まる広大な草原を、俺――村雨 黒桜は、一陣の風となって駆け抜けていた。
背後からは、統率の取れた動きで追撃してくる五体のゴブリン。弓を構えるアーチャー、錆びた剣を振りかざすソードマン、粗末な木の盾で身を守るガーディアン、そして幻影のような速さで左右から間合いを詰めてくるシーフとモンク。
数日前の俺ならば、この完璧な連携を持つ群れを前に、ただただ逃げ惑うことしかできなかっただろう。だが、今の俺は違う。
「――こっちだ、間抜け!」
死線を潜り抜けてきた者にしか出せない、凄みを込めて挑発する。急反転した俺の予測不能な動きに、先頭を走っていたソードマンの反応が一瞬遅れ、その体勢が僅かに泳いだ。
その千載一隅の隙を、今の俺が見逃すはずがない。
【EXTRA体術】によって身体の隅々にまで染み付いた最適化された動きが、俺の身体を滑るようにして敵の懐へと潜り込ませる。
左手で剣を振りかぶった相手の腕を内側から絡め取り、流れるような動作で関節を極めながら体勢を崩させ、がら空きになった脇腹の鎧の隙間へ、右手に逆手で握った祖父のナイフを深々と突き立てた。【EXTRA短剣術】の恩恵か、人体の急所と防具の弱点が、まるで光る点のように俺の目には見えていた。
「ギッ!?」
悲鳴にもならない断末魔を上げ、絶命するソードマン。俺はその体を投げ捨てるのではなく、自らの盾とするようにして、背後から放たれたアーチャーの矢を的確に防ぐ。一連の動作は、もはや思考を介さない。経験とスキルが俺の肉体を動かす、反射の領域だった。
死体を蹴り飛ばして後続との距離を取ると、今度はモンクとシーフが獣のような俊敏さで左右から同時に襲いかかってきた。速い。常人ならば目で追うことすら叶わないだろう。だが、その動きも今の俺の動体視力は、はっきりと捉えていた。
「遅い!」
腰を落とし、薙ぎ払うように放たれたモンクの鋭い裏拳を紙一重で回避。そのまま身体を独楽のように回転させ、その遠心力を利用して、死角から突き出されたシーフの短剣をナイフの柄で弾き返す。火花が散り、甲高い金属音が茜色の空に響き渡った。
体術と短剣術。二つの【EXTRA】スキルは、俺の戦闘能力を異次元のレベルへと引き上げていた。まるで、何十年も修練を積んだ武術の達人の動きが、完全に自分のものになったかのようだ。
そして、その超人的な動きを無限に続けられるのは、ひとえに【EXTRA体力回復UP】のおかげだった。心臓がどれだけ速く脈打っても、息一つ切れることはない。
それでも、数の暴力は依然として脅威だ。ガーディアンが盾を構えて猛然と突進し、俺の動きを物理的に阻害しようとする。その一瞬の隙を突いて、アーチャーが次弾を番えるのが見えた。
ここで時間をかけるのは得策じゃない。俺は温存していた奥の手を使うことにした。
「――EXTRA剛力、発動!」
心の中でスキル名を叫ぶと、全身の筋肉が爆発的に膨張する感覚に襲われる。骨がきしむほどの力が漲り、世界が沸騰したかのように視界が赤く染まった。
「オオオオオオッ!」
理性の箍が外れた獣のような雄叫びと共に地面を蹴る。まるで小型砲弾のように加速した俺の身体は、ガーディアンが構える粗末な木の盾を、その持ち主のゴブリンごと木っ端微塵に粉砕した。
凄まじい衝撃波と肉片の嵐に、残りのゴブリンたちが一瞬怯む。その硬直を見逃さず、俺はモンクの鳩尾に鉄槌のような拳を叩き込み、シーフの喉笛をナイフで掻き切り、最後に遠くで呆然と立ち尽くすアーチャーの眉間に、手にしたナイフを投げつけて正確に突き刺した。
静寂が戻った茜色の草原に、俺は一人立っていた。
戦闘時間は、わずか数十秒。スキルを発動させたことで魔力はごっそりと消耗したが、疲労感は全くない。【EXTRA剛力】の強烈な反動も、無限の体力回復力がすぐに帳消しにしてくれる。
これが、俺が試行錯誤の末に確立した新しい戦い方だった。【EXTRA体力回復UP】による無尽蔵のスタミナをベースに、【EXTRA体術】と【EXTRA短剣術】で敵を華麗に捌き、いざとなれば【EXTRA剛力】の圧倒的なパワーで戦況を覆す。
そして、万が一防ぎきれない攻撃で深手を負った時だけ、最後の切り札として【現実逃避】で傷そのものを消し去る。
この戦法を確立して以来、俺は【現実逃避】による魔核抜きを封印していた。あの方法は確かに効率的だが、魔力消費が激しすぎる。それに、何より戦闘の度に全裸になるのは、精神衛生上よろしくない。あの気まずい記憶が蘇るからだ。
スキルクリスタルこそ手に入らなくなったが、ゴブリンを一体一体確実に屠ることで、魔石は着実に貯まっていく。この数日で、俺は100体以上のゴブリンを狩っただろうか。換金所へ持っていくと、一日の稼ぎはコンスタントに3万円を超えるようになっていた。
高校生の小遣いとしては、破格すぎる金額だ。俺は、この力で自分の人生を変えられると、確かな手応えを感じていた。
そんなダンジョンでの非日常に没頭していたら、あっという間にその日はやってきた。
カレンダーに大きく赤丸がつけられた、四月七日。高校の入学式。
クローゼ-ットの奥から引っ張り出してきた、真新しい制服。まだ糊が効いていて、少し窮屈なそれに袖を通すと、何とも言えない不思議な気分になった。
つい昨日まで、血と泥に汚れた革鎧を身にまとい、ゴブリンの断末魔を聞いていたというのに。今日から俺は、ごく普通の高校一年生になる。
鏡に映る自分の姿は、どこにでもいる、少し眠たそうな顔をした少年だ。ダンジョンでの過酷な戦闘で極限まで引き締まった身体も、ぶかぶかのブレザーの下では分からない。俺が毎日のように死線を彷徨っている探索者だなんて、誰も想像しないだろう。
「この二重生活、うまくやっていけるのか……?」
一抹の不安を胸に、俺は玄関のドアを開けた。桜が満開の通学路は、同じ制服を着た生徒たちで賑わっている。誰もが、これからの新しい生活に胸をときめかせているように見えた。その光景が、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。
「よぉ、黒桜! おはよ!」
背後から、やけに溌剌とした声が飛んできた。振り返ると、そこにいたのは太陽みたいな笑顔を浮かべた、がっしりとした体格の少年だった。
黒鉄 蓮桜。幼稚園からの腐れ縁で、俺の一番の親友だ。中学では剣道部で全国大会にまで行った、絵に描いたようなスポーツマン。
「蓮桜か。おはよ。朝から元気だな」
「当たり前だろ! 今日から俺たちも高校生だぜ? なんかワクワクしねぇか?」
「まあ、そうだな」
俺が曖昧に笑うと、蓮桜は不思議そうな顔で俺の顔をぐいと覗き込んできた。
「なんかお前、雰囲気変わったか? 春休みの間に、背ぇ伸びた?」
「さあ? どうだろ」
「それに、なんか……目が据わってるっていうか……。夜更かしでもしてんのか? それとも、ヤバいバイトでも始めたとか」
鋭い奴だ。ダンジョンに潜っていることは、この親友にも言っていない。言えるはずもなかった。
俺が言葉に詰まっていると、今度は快活な声と共に、誰かが俺の背中をバシンと叩いた。
「おはよー、二人とも! 黒桜、あんたまた夜更かししたでしょ! 目の下にクマできてるよ!」
振り返ると、そこには快活な笑顔を浮かべたショートカットの少女がいた。
鵺野 心桜。彼女もまた、幼稚園からの幼馴染だ。蓮桜とは対照的に小柄だが、その元気の良さは男顔負け。思ったことはズバズバ言うタイプだが、根は優しくて面倒見がいい。
「心桜か。おはよう。別に夜更かしはしてないって」
「嘘だー。その目は絶対してるね。蓮桜も、あんまり黒桜をからかうな!」
「俺は事実を言っただけだっての」
心桜は俺と蓮桜の間に割って入ると、俺の顔をじっと見つめ、ふむ、と一つ頷いた。
「まあ、制服は似合ってるから許す! あんた、そういうカチっとした格好も案外いけるね!」
「そ、そうか? ありがとう」
ストレートな物言いに、どう返していいか分からなくなる。こういう裏表のないところが、心桜の魅力だった。
そんな他愛のない会話をしながら、俺たちは真新しい校門をくぐった。掲示板でクラスを確認すると、ありがたいことに、俺たち三人は同じ一年B組だった。
体育館で行われた入学式は、想像通り退屈の極みだった。校長や来賓の長ったらしい祝辞を聞きながら、俺はぼんやりと、今日の夜は第二階層のさらに奥を探索してみようか、なんてことを考えていた。
だが、その退屈な時間は、ある人物の登場によって唐突に打ち破られることになる。
「――新入生代表、桐生院 理桜」
凛とした声で名前が呼ばれ、壇上に一人の女子生徒がゆっくりと歩み出た。
その姿を見た瞬間、俺の心臓がドクン、と大きく嫌な音を立てて跳ねた。
腰まで届くほど長い、濡れたような艶のある黒髪。光を吸い込むようなその黒が、透き通るように白い肌を一層際立たせている。そして、意志の強さを感じさせる涼やかな目元。まるで精巧に作られた人形のように整った顔立ち。背筋をピンと伸ばした立ち姿は、同い年とは思えないほどの気品と、近寄りがたい威厳に満ちていた。
間違いない。探索者試験で、俺と即席のペアを組んだ、あの少女。
桐生院 理桜さんだ。
彼女が壇上の中央に立ち、マイクの前に立つ。その瞬間、ざわついていた体育館が水を打ったように静まり返り、全ての視線が、彼女一人に注がれていた。
「春の暖かな日差しが、私たちの新たな門出を祝福してくれているような、この良き日に……」
淀みなく紡がれる、知的で美しい言葉。その落ち着き払った態度と、聞き惚れるほどに綺麗な声は、彼女がただ者ではないことを雄弁に物語っていた。頭も良いのかよ、と俺は心の中で毒づく。探索者としてのあの圧倒的な実力だけでも規格外なのに、おまけに成績優秀、眉目秀麗とは。神は二物も三物も与えるらしい。
俺は、壇上の彼女から目が離せなかった。
脳裏に、あの日の記憶が鮮明に蘇る。
追い詰められた俺が、起死回生を狙って使った【現実逃避】。その結果、スキルが解除された俺は、彼女の目の前で無様にも丸裸を晒した。あの時の、彼女の涼やかな瞳が一瞬だけ驚きに見開かれたのを、俺は忘れていない。
さらに、試験後の初心者講習会が終わった後。俺は彼女に呼び出された。
『村雨くん、だったかしら』
そう切り出した彼女は、有無を言わさぬ厳しい口調で俺にこう言ったのだ。
『いいこと、村雨君。あなたのスキルが、既存のカテゴリに分類されないユニークなものであることは認めるわ。でも、その代償が全裸では話にならないの。これは羞恥心の問題で言っているのではないわ。戦闘スタイルもあまりに無計画。ただ叫んで、何の考えもなしに敵に突っ込むなんて、思考を放棄した猪と同じよ。もっと頭を使いなさい』
それは紛れもなく説教だった。だが、その厳しい言葉の奥に、俺は彼女なりの不器用な優しさというか、心配のようなものを感じ取っていた。だからこそ、余計に気まずい。
気づいてくれるだろうか。あの試験の時の、役立たずで、無様な姿を晒した相方のことを。
淡い期待と、それ以上の羞恥心を胸に、俺は彼女の視線を探した。だが、彼女の涼やかな瞳が、俺のいる新入生の列に向けられることは、一度もなかった。
彼女はまっすぐに前を見据え、時折、来賓席の方に視線を送るだけで、俺たちその他大勢の生徒など、まるで存在しないかのように堂々とスピーチを続けている。
こちらのことを気づいているのか、いないのか。あるいは、覚えてはいるが、あえて視線を合わせないのか。
やがて、完璧なスピーチが終わり、体育館は割れんばかりの拍手に包まれた。彼女は優雅に一礼すると、何事もなかったかのように自分の席へと戻っていく。その完璧な横顔は、近寄りがたいほどの美しさと、全てを拒絶するような氷の壁を湛えていた。
結局、入学式が終わるまで、俺と彼女の目が合うことは一度もなかった。
入学式が終わり、俺たちは指定された教室、一年B組へと向かった。自分の席を見つけて座ると、蓮桜が早速興奮気味に話しかけてきた。
「おい、黒桜、見たか!? 新入生代表の桐生院って子! まるでモデルみてぇな超絶美人じゃねぇか!?」
「ああ、見てたよ」
「しかも、俺たちと同じB組だぜ! 神様ありがとう! マジでテンション上がるわー!」
蓮桜が教室名簿を指さしてはしゃいでいる。確かに、そこには俺たちの名前と並んで「桐生院 理桜」の文字があった。
俺が複雑な気持ちでいると、心桜がニヤニヤしながら俺の肩を肘で突いてきた。
「へぇー、黒桜があんな美人さんのこと、じーっと見てるなんて珍しいじゃん。もしかして知り合い?」
「え? いや、まあ……ちょっとだけな」
「なになに、詳しく聞かせなさいよ! あんたがあんな子と接点あるなんて、超意外なんだけど!」
元気な幼馴染の遠慮のない追及に、どう答えようか迷っていると、教室のドアが開き、担任らしき若い女性教師が入ってきた。そして、そのすぐ後ろから、あの漆黒の長い髪が、教室に入ってくる。
桐生院さんだ。
教室中が一瞬にして静まり返り、全ての視線が彼女に集まる。男子は憧憬の眼差しで、女子は嫉嫉と好奇の入り混じった視線で。しかし、彼女はそんな視線を一切意に介さず、涼しい顔で指定された席――窓際の一番後ろの席へと向かっていく。
その途中、彼女は俺の席の真横を通り過ぎた。
俺は、思わず息を止めた。心臓がうるさい。
すれ違う、ほんの一瞬。彼女の視線が、ほんのわずかに俺の方を向いた、ような気がした。だが、それも気のせいだったのかもしれない。彼女の涼やかな瞳は何も映さず、感情の欠片も見せず、すぐに前へと戻された。
全裸を見られた気まずさと、説教された記憶が蘇り、俺は声をかけることもできず、ただ固まっていた。
彼女は席に着くと、鞄からハードカバーの本を取り出し、静かにページをめくり始めた。まるで、周囲の世界から自分だけの結界を張り、誰も立ち入らせないという意思表示のようだ。
「……なんだよ、感じ悪いな。ツンとしやがって」
隣で蓮桜が、ぼそりと呟いた。
俺は何も答えられなかった。
探索者試験の時、彼女は俺のスキルを見て何かを察した。そして、その使い方を叱責した。俺という存在は、彼女にとって「未熟で危険な初心者」であり、記憶の片隅にも残っていないのかもしれない。
どちらにせよ、彼女と俺とでは住む世界が違う。それは、ダンジョンでも、この学校という日常でも、変わらない事実なのだろう。
「――じゃあ、これからホームルームを始めまーす! みんな、一年間よろしくね!」
担任の明るい声が、教室に響き渡る。
こうして、俺の高校生活が始まった。
昼は普通の高校生として、何も知らない幼馴染たちと他愛のない日々を過ごす。そして夜は、孤独な探索者として、命を懸けてダンジョンに挑む。
二つの世界、二つの顔。
桐生院 理桜という存在は、その決して交わるはずのなかった二つの世界が、すぐ隣り合わせにあるのだと、俺に突きつけているのかもしれない。
俺は窓の外の満開の桜を眺めながら、これから始まるであろう波乱に満ちた日々に、漠然とした不安と、それ以上の奇妙な高揚感を覚えていた。




