第8話 次なる階層
第一階層の主、ホブゴブリン。あれほどまでに絶望的な存在に思えた巨体を、今や俺は単独で、それも数分とかからずに狩れるようになった。無限の持久力を与えてくれた【EXTRA体力回復UP】と、ここぞという時の切り札【EXTRA剛力】。そして何より、俺の生命線である【現実逃避】スキル。これらの力が、臆病だった俺に確かな自信を与えてくれていた。
「よし……行くか」
第一階層の最奥、広場の隅で淡い光を放つ階段を見下ろし、俺はごくりと唾を呑んだ。未知なる領域、第二階層。ここから先は、俺にとって完全に未踏の地だ。どんな害魔獣が待ち構えているのか、どんな理不尽が牙を剥くのか、ネットで情報を集めてた。だが、不思議と恐怖はなかった。むしろ、自分の力がどこまで通用するのか試したいという、昂揚感の方が勝っていた。
俺は覚悟を決め、ひんやりとした石の階段を一段、また一段と踏みしめていく。
第二階層へ降り立った瞬間、俺は息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、言葉を失うほどに幻想的な光景だった。
空は、燃えるような赤と、夜の訪れを告げる紫が溶け合ったような、絶妙な茜色に染まっている。地平線の彼方まで続く広大な草原には、銀色に輝くススキのような植物が一面に生い茂り、物悲しい風が吹くたびに、さざ波のように揺れていた。永遠に夕暮れが続く世界。静かで、どこか切なく、胸を締め付けるほどに美しい。
「すげぇ……こんな場所があったのか……」
第一階層の、どこにでもあるような緑の草原とは全く違う、詩的な風景。しばし見惚れていた俺の耳に、ふと、乾いた草を踏みしめる微かな音が届いた。一つじゃない。四方八方から、無数の足音が急速に近づいてくる。
「ギギッ! ギギャアアアッ!」
静寂は、甲高い雄叫びによって唐突に引き裂かれた。
ハッと我に返った俺の視界に飛び込んできたのは、俺を中心にじりじりと包囲網を狭めてくる、五、六体のゴブリンの群れだった。第一階層で見てきた、何も考えずに突っ込んでくるだけの単独個体とは明らかに違う。その濁った瞳には明確な敵意と、統率された組織の意志のようなものが宿っていた。
「数が多いな……! しかも、連携してやがる!」
俺は即座に踵を返し、包囲が完成する前に走り出した。ただ闇雲に逃げるのではない。このまま囲まれれば、いくら俺でも数の暴力に押し潰される。敵の陣形を崩し、一体ずつ確実に仕留めるための、戦略的撤退だ。
背後から、ヒュンッ! ヒュンッ! と鋭く風を切る音が連続で響く。咄嗟に身を屈めると、俺がさっきまでいた場所の地面に、数本の矢が突き立った。振り返らずとも分かる。群れの中の一体、ゴブリンアーチャーの仕業だ。
「ちっ、遠距離攻撃まであるのかよ!」
悪態をつきながらも、俺は足を止めない。先頭を走るのは、錆びた剣を振りかざすゴブリンソードマン。そのすぐ後ろには、粗末な木の盾を構えたゴブリンガーディアンが控え、アーチャーの射線を確保しつつ、俺の反撃に備えている。見事なまでの三位一体の攻撃陣形。こいつら、ただの烏合の衆じゃない。明確な役割分担を持った、歴戦のパーティーだ。
レベルの違いを肌で感じながらも、俺の思考は冷静さを失っていなかった。【EXTRA体力回復UP】のおかげで、全力で走り続けても息はほとんど上がらない。この持久力こそが、今の俺の最大の武器だ。
俺は敵の群れを観察し続けた。どんなに統率の取れた群れでも、必ず綻びは生まれる。突出する個体、連携が乱れる一瞬、その千載一隅の好機を、俺は見逃さなかった。
ソードマンが功を焦ってか、一瞬だけガーディアンの援護範囲から前に出た。
「そこだ!」
俺は走りながら、意識を右腕に集中させる。
「――右手首から先だけ、現実逃避!」
スキルを発動。俺の身体からふっと分離した半透明の右手が、まるで意思を持った生き物のように宙を舞い、突出したソードマンの背後へと回り込む。ゴブリンは仲間を追いかける俺にしか意識が向いておらず、背後から忍び寄る「死の手」には全く気づいていない。
イメージは完璧。心臓部に存在する、魔力の源。その魔核を、寸分の狂いもなく掴み取り、力任せに引き抜いた。
『現実逃避』
魔核だけをスキル対象とし、ゴブリンの肉体という「現実」から切り離す。スキルを解除すると、俺の手には脈動する生暖かい魔核が握られていた。
「ギ……?」
ソードマンは、自分が何をされたのか理解できないまま、間の抜けた声を漏らし、前のめりに崩れ落ちた。
悲鳴を上げる間もない、あまりにも静かな死。その異常事態に、後続のゴブリンたちの足が一瞬だけ止まる。
だが、その一瞬の硬直が、俺にとっては命取りになった。
仲間が殺された怒りか、あるいは好機と見たのか。死角となっていた草むらから、一際小柄なゴブリンシーフが音もなく飛び出し、その手に握られた黒ずんだ短剣が、俺の左腕を深々と切り裂いた。
「ぐっ……あああっ!」
革鎧の隙間を的確に狙った一撃。焼けるような激痛が走り、腕からぶわりと鮮血が噴き出す。凄まじい痛みで足がもつれ、俺の動きが致命的に鈍った。
それを見逃すほど、残りのゴブリンは甘くない。仲間の死体を乗り越え、別のソードマンが雄叫びを上げながら、その錆びた剣を俺の心臓目掛けて突き出してきた。
まずい、死ぬ!
思考よりも早く、本能が叫んでいた。
咄嗟に、俺はありったけの魔力を注ぎ込み、全身での【現実逃避】を発動させた。
『現実逃避ッ!』
世界から色が抜け、音が遠のく。俺の身体は世界から切り離され、半透明の意識体へと変貌した。ゴブリンソードマンの剣は、まるで幻を斬りつけたかのように、俺の身体を空しく通り過ぎていく。
周囲でゴブリンたちが、突然目の前から消えた俺に戸惑い、混乱し、わめき散らしている。その光景を、俺は絶対的な安全圏からぼんやりと眺めていた。
ふと、自分の腕に視線を落とす。意識体となった腕には、先ほどシーフに切りつけられたはずの深い傷が、生々しく残っていた。痛みはない。意識体には痛覚がないからだ。だが、このまま現実に戻れば、この傷も、そこから流れ続ける血も、紛れもない「現実」となるだろう。そうなれば、失血死は免れない。
(詰んだか……? いや、待てよ……?)
絶望しかけたその時、俺の頭に一つの突拍子もない考えがよぎった。
【現実逃避】は、俺という存在を、この世界の物理法則から完全に切り離すスキルだ。俺は今、物理的な干渉を一切受けない、いわば概念だけの存在になっている。ならば、この意識体の状態にある俺にとって、この「傷」もまた、確定した現実ではないのではないか?
俺は強く、強くイメージした。傷が塞がり、裂けた皮膚が繋がり、血が止まり、元の綺麗な腕に戻るイメージを。この傷は幻だ、存在しない、これは俺が受け入れるべき現実じゃない、と。
すると、信じられない現象が起きた。
半透明の腕にあったはずの生々しい傷が、まるで映像のノイズが消えるように、すぅっと輪郭を失い、薄れていく。そして数秒後には、完全に消え去っていた。
確信した俺は、ゴブリンたちがまだ混乱している隙にスキルを解除した。
ぐにゃり、と世界が歪む感覚と共に、現実世界に引き戻される。いつものように、身に着けていた革鎧やナイフは全てその場にドサリと落ち、俺は茜色の草原の真ん中で、見事なまでに丸裸になっていた。だが、そんな羞恥心など、今はどうでもよかった。
俺は自分の左腕を見た。そこには、傷一つない、綺麗な肌があるだけだった。
「治ってる……マジかよ……!」
【現実逃避】に、自己治癒の能力があったとは。いや、これは厳密には治癒ではない。傷を負ったという「現実」そのものを、スキルによって「逃避」し、書き換えたのだ。
とんでもない発見だった。これさえあれば、魔力さえ残っていれば、俺は実質的に不死身なのではないか?
もちろん、首を刎ねられるような即死攻撃を食らえばイメージする暇もないだろうし、魔力切れになればあっけなく死ぬだろう。それでも、この発見は俺に絶大な安心感と、戦術の幅をもたらしてくれた。
それにしても、ここ数日の戦闘でかなり魔力総量が上がっている気がする。
MP切れを起こしていないのがその証拠だろう。
「さて、と……第二ラウンドだ、クソッタレども!」
俺は素早く装備を拾って身に着けると、新たな安全策を得たことで、より大胆に、そして効率的にゴブリンの群れを狩り始めた。
連携攻撃を食らって怪我をしても、すぐに【現実逃避】して回復する。その度に全裸になるという、探索者として致命的すぎる欠点はあるが、命には代えられない。幸い、今のところ他の探索者の姿は見えない。
ゴブリンアーチャーから【弓術】を、ソードマンから【剣術】を、ガーディアンから【盾術】のスキルクリスタルを手に入れたが、『現実逃避』で鑑定した結果は無情にも「適性なし」の表示。
「やっぱり、そう簡単にはいかないか……」
まあ、売ればそれなりの金にはなるだろう。気を取り直して探索を続けていると、新たな群れに遭遇した。その中には、これまでのゴブリンとは明らかに動きの質が違う個体が二体混じっていた。
一体は、無駄のないしなやかな動きで拳を構えるゴブリンモンク。もう一体は、幻影かと見紛うほどの素早い動きでこちらの視覚を攪乱してくるゴブリンシーフ。
俺は慎重に立ち回り、何度も傷を負いながらも【現実逃避】による回復を繰り返し、粘り強く二体を仕留めることに成功した。そして、手に入れた二つのスキルクリスタルを鑑定する。
【体術】:素手による戦闘技術を恒久的に向上させる。
【短剣術】:短剣の扱いを恒久的に向上させる。
――適性、あり!
「やった!」
思わずガッツポーズが出た。この二つは、祖父の形見であるナイフを主武器とし、いざという時は素手でも戦わざるを得ない俺の戦闘スタイルに、完璧に合致している。パッシブスキル、つまり習得すれば永続的に効果を発揮するタイプだ。これを手に入れられれば、俺の力は飛躍的に向上する。
俺は決めた。この【体術】と【短剣術】を、他のスキルと同様に【EXTRA】まで強化する。
そこから、俺の過酷な周回作業が始まった。第二階層のゴブリンは強く、連携も比べ物にならないほど厄介だ。何度も深手を負い、その度に【現実逃避】による治癒と全裸を繰り返した。魔力が尽きれば第一階層の安全な場所まで戻って回復し、再びあの茜色の草原へと舞い戻る。
その戦いは、一日では終わらなかった。
二日、三日と、俺はひたすらにゴブリンモンクとゴブリンシーフを探し、狩り続けた。食事はダンジョンに持ち込んだ保存食で済ませ、精神も肉体も、限界寸前まで酷使し続けた。
そして、三日目の夕暮れ時。茜色の空が、いつもより深く、濃く見えた。
ついに、それぞれ四つずつのスキルクリスタルが、俺の手の中に揃った。
俺は疲労困憊の身体を引きずり、大きな岩陰で最後の合成作業に取り掛かった。
二つの【体術】を一つに。さらに二つを一つに。そうして生まれた二つの【HIGH体術】を、最後の魔力を振り絞って合成する。同じ工程を、【短剣術】でも繰り返す。
眩い光が俺の手の中で弾け、二つの特別な輝きを放つスキルクリスタルが完成した。
【EXTRA体術】と【EXTRA短剣術】。
俺は二つのクリスタルを、三日間の死闘で震える手で、ゆっくりと口に放り込んだ。
ひんやりとしたクリスタルが舌の上で溶けていく。
次の瞬間、身体の奥底から、これまで経験したことのない感覚が湧き上がってきた。
それは、【体力回復UP】のような温かさでも、【剛力】のような爆発的な力の奔流でもない。まるで、何十年も修練を積んだ達人の技術と経験が、膨大な情報となって直接脳と身体の細胞一つ一つに刻み込まれていくような、超常的な感覚だった。
立ち上がり、いつものように祖父のナイフを構えてみる。
すると、どうだろう。驚くほどしっくりと手に馴染み、まるで自分の腕の延長のように感じられた。これまで何度も振るってきたはずのナイフが、全く別のものに思える。
何気なく素振りをすれば、空気を切り裂く音が違う。以前とは比較にならないほど鋭く、速く、そして一切の無駄がない動きになっているのが、自分でもはっきりと分かった。
「これが……【EXTRA】の戦闘技術スキル……」
茜色の空の下、俺は静かに笑った。
新たな力を手に入れた今、この第二階層も、もはや俺の庭となるのも遠くないだろう。
果てしなき戦いは、まだ始まったばかりだ。そして、俺が強くなるたびに、この全裸になるという宿命もまた、より過酷になっていくのかもしれない。そんな一抹の不安を胸に、俺は次なる獲物を求めて、夕暮れの草原へと再び足を踏み出した。




