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第7話 第一階層の主

 

 目の前で淡く、しかし力強い光を放つ【EXTRA体力回復UP】のスキルクリスタル。

 二つの【HIGH体力回復UP】が、俺のスキルによって一つに融合して生まれた、奇跡の産物。これを売れば、おそらく普通のサラリーマンの生涯年収に匹敵する大金が手に入るだろう。だが、俺の心は一瞬たりとも揺らがなかった。

 金で得られる安心は、所詮、砂上の楼閣だ。真の安心は、己の力で、この足で掴み取るものだ。特に、人の命が容易く散るダンジョンという世界においては。


 俺は覚悟を決め、そのクリスタルを躊躇なく口に放り込んだ。

 ひんやりとした水晶が舌の上で溶けていくような感覚。次の瞬間、身体の芯から、じんわりと温かいものが全身に広がっていった。それは燃え上がるような激しい熱ではなく、まるで温泉に浸かった時のような、体の奥の疲れまで解きほぐしていくような心地よい温かさだった。


「おぉ……」


 思わず安堵のため息が漏れる。細胞の一つ一つが、溜め込んでいた疲労物質を洗い流され、生まれ変わっていくような感覚。体中の倦怠感が嘘のように消え去り、代わりに静かで、しかし底なしの活力が満ちてくる。


「これが、【EXTRA体力回復UP】……」


 その効果を確かめるように、俺はエントランスの隅で腕立て伏せを始めた。

 100回、200回、500回……。

 腕の筋肉はさすがに張り、悲鳴を上げ始める。息もぜぇぜぇと乱れてくる。だが、決定的に違うことが一つあった。どれだけ身体を酷使しても、あの心臓を締め付けるような疲労感が一切訪れないのだ。息はすぐに整い、筋肉の張りも数秒休めば和らいでいく。まるで、身体に搭載された回復機能の性能が、異常なレベルで跳ね上がったかのようだった。


「すごい……これなら、どんな長期戦でも戦い抜ける!」


 魔力の回復速度が上がるわけでも、足が超人的に速くなるわけでもない。だが、この「決して疲れない身体」は、間違いなく俺の最大の武器になる。


 俺の脳裏に、一つの目標が明確な輪郭を持って浮かび上がっていた。第一階層の、最奥。そこに巣食うと言われる、階層のボスの討伐。今までの俺では、考えつくことすらなかった無謀な挑戦。だが、この無限の持久力を手に入れた今なら、勝機はある。




 翌日、俺は万全の状態で立川ダンジョンの前に立っていた。

 いつもと同じ、祖父の革鎧とナイフ。だが、その装備に身を包む俺自身の内面は、昨日とは比較にならないほどの自信に満ちていた。

 桜の木の『うろ』に手を差し入れ、第一階層の草原に降り立つ。ひんやりとした空気が心地いい。


「よし、行くか!」


 俺はダンジョンに入ると同時に、駆け出した。

 全力疾走ではない。息が切れないギリギリのペースを保ち、着実に、しかし休むことなく進み続ける。途中、ゴブリンの群れに遭遇しても、立ち止まらずにその横を駆け抜けていく。ゴブリンたちは一瞬こちらに気づくが、追いかける素振りも見せずに通り過ぎていく俺を、怪訝な顔で見送るだけだった。


 どれだけ走り続けたか。やがて視界が開け、広大な空間が姿を現した。第一階層の最奥。開けた広場の中央に、それは鎮座していた。

 通常のゴブリンの倍はあろうかという巨躯。醜悪な緑の肌は分厚い筋肉で覆われ、その上には歴戦の証である無数の傷跡が刻まれている。その手に握られているのは、もはや棍棒というより、丸太と呼ぶべき巨大な凶器。

 第一階層の主、ホブゴブリン。その濁った瞳が、侵入者である俺を捉えた。


「グルルルォォォ!!」


 地響きのような咆哮が、ダンジョンの空気を震わせる。以前の俺なら、その圧倒的な威圧感だけで腰を抜かし、逃げ出すことしかできなかっただろう。

 だが、今の俺は違う。


「お前が、ここのボスか」


 俺は静かにナイフを抜き、その切っ先をホブゴブリンに向けた。

 ホブゴブリンが巨大な棍棒を振りかぶる。その動きは凄まじく速く、風を切る轟音が響き渡る。俺は咄嗟に横へ飛び、それを回避した。棍棒が叩きつけられた地面が砕け散り、土煙が舞い上がる。


(速いし、重い……!)


 一撃でも食らえば、即死は免れない。だが、俺に焦りはなかった。【EXTRA体力回復UP】のおかげで、俺は回避に専念できる。どれだけ動き回っても、俺の体力は尽きないのだから。


「――右手首から先だけ、現実逃避」


 ホブゴブリンが次の一撃を繰り出す、その一瞬の隙を突いて、俺はスキルを発動させる。右手首から先だけが半透明の意識体となり、ホブゴブリンの懐へ、最短距離で飛び込んでいく。

 分厚い胸筋に手を突き入れ、肋骨の隙間から魔核を探り当て、掴む。


『現実逃避』


 魔核にスキルをかけ、肉体から引き抜く。スキルを解除すると、俺の手にはずしりと重い魔核が握られていた。

 ホブゴブリンは、自分が何をされたのかも理解できないまま、その巨体をゆっくりと地面に崩れ落としていく。

 戦闘後、息は少し上がっていたが、疲労感は全くない。しかし、体内の魔力は確実に消費されていた。


「やっぱり、体力と魔力は別物なんだな……」


 改めて、自分のスキルの特性を認識する。この力に驕ってはいけない。魔力管理こそが、今後の俺の生命線になるだろう。


 ホブゴブリンの巨体が完全に沈黙する。それと同時に、俺の目の前に、ポンッという軽い音を立てて豪奢な装飾が施された宝箱が出現した。


「これが……ボス討伐の報酬……」


 恐る恐る宝箱を開けると、中には赤い液体で満たされた小瓶が一つ、静かに輝いていた。【回復ポーション】だ。

 そして、ホブゴブリンの死体から回収した魔核を割ると、中からは一際大きな魔石と、一つのスキルクリスタルが転がり出てきた。


『現実逃避』で鑑定する。


【剛力】:使用者の筋力を一時的に増強する。


 適性はある。アクティブスキルか。ここぞという時に使えば、強力な武器になりそうだ。

 その時、俺の頭にある考えが閃いた。


(このスキルクリスタルも、合成できるんじゃないか?)


【体力回復UP】が【EXTRA】まで進化したのだ。この【剛力】も、同じように強化できるはずだ。

 一つの考えが浮かぶと、もう止まらない。俺は、この第一階層の主を、スキルクリスタルが手に入るまで狩り続けることに決めた。




 それから、俺の地道な、しかし確実な周回作業が始まった。

 広場の奥にある第二階層への階段を一度潜り、再び第一階層に戻ってくると、広場には新たなホブゴブリンがリポップしている。


 俺は一体倒すごとに、必ず休憩を挟んだ。魔力を回復させるためだ。幸い、【EXTRA体力回復UP】のおかげで、ただ座って呼吸を整えているだけで、魔力回復に集中できた。

 その様子を、遠巻きに見ていた他の探索者たちがいた。


「おい、またあの新人だ……」


「あいつ、さっきもホブゴブリンと戦ってなかったか? 信じられねぇタフさだな」


「一撃離脱を繰り返してるみたいだが……決め手に欠けるのかね。それでも、あの階層主と何度も渡り合える持久力は異常だぞ」


 彼らの目には、俺が「圧倒的な力でボスを瞬殺する怪物」ではなく、「異常なまでのタフネスで格上の敵に何度も挑み続ける、粘り強い新人」と映っているようだった。その方が都合がいい。目立ちすぎるのは、まだ早い。


 二体目、三体目、四体目……。

 俺は淡々と、しかし確実にホブゴブリンを狩り続けた。戦闘時間は、一体につき数分。回避に専念し、魔力を温存しながら、一瞬の隙を突いて仕留める。その完璧なルーティンワークを繰り返し、ついに四つ目の【剛力】スキルクリスタルが手に入った。


 俺は広場の隅に座り込み、戦利品を並べる。

【剛力】のスキルクリスタルが四つ、【回復ポーション】が四つ。


 まずは【剛力】からだ。

 二つの【剛力】を【現実逃避】で合成し、【HIGH剛力】を生成する。これを二回繰り返し、二つの【HIGH剛力】を作り出した。

 そして、最後に二つの【HIGH剛力】を合成する。凄まじい魔力の消費に歯を食いしばりながら、俺は一つのクリスタルを練り上げた。


【EXTRA剛力】:使用者の筋力を一時的に、大幅に増強する。


「よし……!」


 効果は「一時的」のままだが、増強の幅が格段に上がっているはずだ。これは強力な切り札になる。

 俺は迷わず、完成したばかりの【EXTRA剛力】を口に放り込んだ。

 身体に変化はない。だが、俺は自分の内に、新たな力が宿ったのを確かに感じていた。いつでも、意のままに引き出せる、爆発的な力が。


 試しに、心の中で強く念じる。


『EXTRA剛力、発動!』


 その瞬間、鎧の下で、全身の筋肉が爆発的に隆起した。骨がきしむほどのパワーが漲り、視界が赤く染まるような錯覚に陥る。地面に落ちていた人の頭ほどの岩を片手で軽々と持ち上げ、指で握りつぶす。岩は、まるで粘土のように脆く砕け散った。

 数秒後、力の奔流は静かに収まり、筋肉も元に戻った。


「すげぇ……。けど、魔力の消費も半端じゃないな」


 これはまさに、短期決戦用の切り札だ。乱発はできない。

 続いて、四つの【回復ポーション】を合成していく。【回復ポーション】二つで【HIGH回復ポーション】が生成され、二つの【HIGH回復ポーション】を合成することで、一つの特別なポーションが完成した。


【EXTRA回復ポーション】:あらゆる傷、状態異常を瞬時に全回復させる。死者蘇生の効果はない。


 もはや、伝説級のアイテムだ。これを売れば、間違いなく国中の富豪や権力者が血眼になって買い求めるだろう。だが、俺は静かに首を振った。

 こんなものを市場に出せば、悪目立ちするどころの話ではない。


「これは……家に隠しておこう」


 最後の切り札は、誰にも知られず、懐に忍ばせておくものだ。

 俺は二つの大きな力を手に入れた。無限の持久力と、一撃必殺の切り札。

 しかし、魔力消費という根本的な課題は解決していない。力への過信は禁物だと、自分に言い聞かせる。


 俺は第二階層へと続く階段を見据え、決意を新たに、その一歩を踏み出した。


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