第6話 【EXTRA体力回復UP】
ザワザワとした、不特定多数の人々の声。硬く、冷たい床の感触。そして、微かに鼻腔をくすぐる消毒液と鉄の匂い。
ゆっくりと瞼を開くと、視界に飛び込んできたのはJDS立川支部のエントランスの高い天井だった。どうやら俺は、ロビーのソファからずり落ち、床の上で大の字になっていたらしい。
「……また、やっちまったのか」
掠れた声で呟き、のろのろと上半身を起こす。頭がガンガンと痛み、全身が鉛のように重い。魔力枯渇の典型的な症状だ。
周囲を見渡せば、帰還したばかりらしい屈強な探索者たちが、カウンターに列をなしている。彼らは俺のことなど意にも介さず、仲間と今日の戦果を自慢し合ったり、受付嬢に軽口を叩いたりしていた。
気絶する新人など、この場所では日常茶飯事なのだろう。その無関心が、今はありがたかった。
だが、そんな肉体的な不調や、周囲の喧騒など、今の俺にとっては些細な問題だった。俺の頭の中は、意識を失う直前に見た、あの衝撃的な光景で埋め尽くされていたのだ。
【HIGH体力回復UP】
【体力回復UP】と【体力回復UP】。二つの同じスキルクリスタルが、俺のスキル【現実逃避】によって同化し、一つ上のランクのスキルクリスタルへと進化した、あの奇跡のような現象。 スキルクリスタルがくっつくなんて、聞いたことがない。
スマホでどれだけ検索しても、そんな情報はひとかけらも見つからなかった。
それでも、実際に俺の手元には【HIGH体力回復UP】というスキルクリスタルがある。あれは幻じゃない。ならば、確かめなければならない。今回だけの偶然だったのか、それとも【現実逃避】のスキルを使えば、いつでも再現可能なのか。
実験してみないことには、今日は気になって眠れそうにない。 俺は覚束ない足取りで立ち上がると、エントランスを後にし、本日三回目となるダンジョンアタックに臨んだ。
気絶して少し眠ったおかげか、魔力はいくらか回復している気がする。だが、一度スキルを使う度に魔力枯渇に陥るこの燃費の悪さは、致命的な欠陥だ。
「毎回これじゃ、話にならない……」
そう考えながらダンジョンに潜り、第一階層の草原を歩いていると、都合よく一体のゴブリンが彷徨いているのを見つけた。岩陰に身を隠し、息を殺して獲物を観察する。 その時、ふと思いついた。 身体全体で【現実逃-避】するから、魔力をごっそり持っていかれるんじゃないか?
それなら、身体の一部分、例えば手首から先だけを【現実逃避】することはできないだろうか。 このスキルはイメージが重要だ。適切なイメージさえできれば、身体の一部分だけを切り離してスキルを発動することも、可能なはずだ。
俺は呼吸を整え、自分の右手に意識を全集中させながら、心の中で強く、明確に唱えた。
『――右手首から先だけ、現実逃避』
痛みも、何の違和感もない。ただ、スッと右腕が軽くなる感覚があったかと思うと、俺の視界の端で、手首から先が綺麗に消え失せていた。そして、俺の意識の中には、半透明に透けた俺自身の右手が、ふわりと宙に浮いているのが見えた。
「……できた」
自分の手首から先が宙に浮いている光景は、客観的に見ればホラー以外の何物でもないだろう。だが、俺の心は歓喜に打ち震えていた。そして何より、魔力の消費が、全身で発動した時とは比較にならないほど少ない。体感で、十分の一程度だ。
これだ! これが、俺の新しい戦い方になる!
興奮を抑え、浮遊する右手首に意識を向ける。ゴブリンの背中に向けて移動するイメージを、脳内で描く。 イメージに応えるように、俺の右手は音もなく空中を滑り、真っ直ぐ吸い込まれるようにゴブリンの背中の中へと侵入した。生暖かい肉の感触を突き抜け、肋骨の隙間から心臓近くの魔核を正確に掴む。
『現実逃避』
魔核にスキルをかけ、肉体から透過させて引き抜くと、ゴブリンは声も上げずにその場にパタンと倒れた。【現実逃避】を解除すると、失われていた右手首が、何事もなかったかのように元の場所に戻ってくる。
「ふぅ……。この『部分現実逃避』は、かなり使えるぞ!」
魔力にも十分な余裕がある。これなら、連戦も可能だ。 俺は手早くゴブリンの死体から魔核を回収し、ナイフを突き立てて切り裂いた。中から魔石と、そしてやはり、キラリと輝くスキルクリスタルが転がり出てきた。 害魔獣が生きている内に魔核を取り出すと、スキルクリスタルを確定でドロップできる。俺の仮説は、もはや確信へと変わっていた。
早速、手に入れたスキルクリスタルに【現実逃避】をかけて鑑定する。頭の中に【体力回復UP】という情報が流れ込んできた。 次に、このクリスタルと、既に持っていた【HIGH体力回復UP】を近づけてみる。だが、二つのクリスタルはなんの反応も示さず、くっつく様子はなかった。
「んん……なんでだ? くっつくと思ったんだけどな……」
同じ系統のスキルでも、ランクが違うとダメなのかもしれない。だとすれば、合成の条件は
「同じ種類、かつ同じランクのスキルクリスタル」
であること。 俺がそんな風にブツブツと愚痴をこぼしていると、また一匹、別のゴブリンがこちらへ向かってくるのが見えた。
「ちょうどいい。今日の最後の獲物だ」
先ほどと同じように、右手首から先だけを【現実逃避】させる。まだゴブリンはこちらに気づいていない。 完璧な奇襲だ。俺は浮遊させた右手をゴブリンの胸目掛けて飛ばし、寸分の狂いもなく魔核を掴み取る。そして、スキルを発動して引き抜くと、ゴブリンはうつ伏せに倒れ込んだ。
魔核を割ると、案の定、中から【体力回復UP】のスキルクリスタルが現れた。 俺は二つの【体力回復UP】のスキルクリスタルを両手に持ち、【現実逃避】を発動させる。半透明になった二つのクリスタルを近づけると、今度は微かな引力を感じた。やはり、同じランク同士でなければダメらしい。 俺はイメージの赴くままに、二つをくっつけてみる。
【HIGH体力回復UP】
頭の中に、進化したスキルクリスタルの情報が響く。やはり、【体力回復UP】二つを同化させると、【HIGH体力回復UP】になるんだ。 法則は理解した。だが、そこで俺の探求心は止まらなかった。 ならば、【HIGH体力回復UP】を二つ同化させると、どうなるのか?
俺はゴクリと唾を飲み込み、手元にある二つの【HIGH体力回復UP】に意識を集中させた。 二つのクリスタルを【現実逃避】させ、ゆっくりと近づけていく。すると、今度は先ほどとは比較にならない、強力な磁石が引き合うような抵抗と引力が、俺の意識を揺さぶった。 そのまま二つのスキルクリスタルをくっつけると、グググッ、と体内の魔力が掃除機に吸い込まれるかのように、凄まじい勢いで吸い上げられていくのが分かった。
「う、ぐっ……!」
息が詰まり、視界が明滅する。強烈な立ちくらみに襲われ、その場に膝をついた。だが、俺は最後の力を振り絞り、合成のイメージを維持し続けた。 やがて、二つのクリスタルは眩い光を放ちながら完全に一つに溶け合い、俺の手の中に収まった。それは、これまで見てきたどのスキルクリスタルよりも美しく、そして尋常ではない力を秘めているのが、素人の俺にも分かった。 完成したスキルクリスタルに、最後の魔力を振り絞って鑑定の意識を向ける。
【EXTRA体力回復UP】
その文字が脳内に浮かび上がった瞬間、俺の意識はブラックアウトした。 まずい。ダンジョンの中で気絶したら、最悪、他の害魔獣に喰われる……。 薄れゆく意識の中、俺は必死で地面を這い、ダンジョンの入り口を目指した。そして、エントランスの冷たい床に転がり込んだところで、完全に気を失ったのだった。
ザワザワとした喧騒の中、俺は再び目を覚ました。 今日の仕事を終えた探索者たちが、エントランスに溢れている。どうやら、またしても随分と長い時間、気を失っていたらしい。 自分が何をしていたのか、霞のかかった頭で必死に思い出す。
「そうだ! スキルクリスタルがくっついて、【EXTRA体力回復UP】に……!」
突然大声を出した俺の方を、周囲の探索者たちが訝しげな顔で見つめてくる。しまった、声に出ていた。俺は慌てて口を噤み、何でもないというように顔を伏せた。とにかく落ち着け、俺!
ポケットを探ると、硬く、そして温かい感触があった。取り出して見ると、そこには先ほど合成したばかりの、淡い光を放つスキルクリスタルがあった。 これをどうするか。 鑑定もしていない未知のスキルだ。受付に持っていけば、とんでもない値段がつくだろう。それこそ、父さんや母さんが一生働いても稼げないような大金が手に入るかもしれない。そうすれば、もう二人に心配をかけることもなくなる。
売るか?
そう思いながらスキルクリスタルをじっと眺めていると、クリスタルが俺の思考に応えるかのように、ひときわ強く、温かい光を放った。その光が、俺の身体にじんわりと染み込んでくる。 適性がある。俺は、このスキルを使える。
使うか? 売るか?
もちろん、答えは決まっていた。 一攫千金。それは確かに魅力的だ。だが、その金で両親は本当に安心するだろうか? 息子がいつ死ぬか分からない危険な場所で、まぐれ当たりで手に入れた金。そんなもので心の底から喜べるはずがない。 それよりも、俺自身がこの危険なダンジョンで確実に生き残れるだけの力を身につけること。着実に強くなり、「もう心配いらないよ」と胸を張って言えるようになること。それこそが、本当の意味で両親を安心させることに繋がるはずだ。 今日だけで、二度もダンジョンで気を失った。もしエントランスまで辿り着けなかったら、俺は今頃ゴブリンの餌になっていただろう。生存こそが最優先事項だ。力こそが、安定した未来と、家族の安心に繋がる。
「決めた」
俺は【EXTRA体力回復UP】のスキルクリスタルを、強く、強く握りしめた。 これは売らない。俺が使う。 未来の俺への、最高の投資だ。 その決意を胸に、俺は今度こそ、自分の足でしっかりと立ち上がった。




