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第50話 水底の支配者


 昨夜の祝宴の熱気がまだ体の奥底に微かに残る、翌日の早朝。

 日の出前の冷たい空気が肌を刺す中、俺たちチェリーブロッサムの四人は、すでに立川ダンジョンのゲートを潜り抜けていた。

 周囲にはまだ監視員の姿もまばらで、俺たちを尾行しようとする鬱陶しい視線は、第1階層の草原に足を踏み入れた瞬間に、俺のスキルによって完全に置き去りにされた。


「行くぞ」


 俺が仲間の肩に手を置き、行き先を強く脳裏に描く。


【現実逃避】次元跳躍


 世界から音が消え、色彩が抜け落ち、俺たちの存在座標が現実のキャンバスから一時的に切り取られる。空間の連続性を完全に無視した、神をも恐れぬ理外の移動術式。

 無の空間を滑り落ちるような一瞬の浮遊感の後、視界が一気にひらけ、むせ返るような湿気と泥の匂いが肺に流れ込んできた。


 到着したのは、第13階層。

 朝の光が深い霧を透かして差し込み、どこまでも続く泥水と巨大な水生植物のシルエットを幻想的に浮かび上がらせている湿原エリアだ。


「相変わらず、一瞬だな。もう慣れたけどよ」


 蓮桜が首を鳴らしながら、足元の泥水に目を落とした。

 通常であれば、膝まで沈み込むような最悪の足場。しかし、昨日俺が精製し、全員で習得した【EXTRA水耐性】の恩恵により、泥水は俺たちの靴を汚すことすらできず、まるで薄いガラス板の上を歩いているかのような反発力を持って俺たちを支えていた。


「環境への耐性は完璧だ。だが、それに甘えるな」


 俺は朝靄の中に潜む気配を探りながら、静かに告げた。


「俺たちの次の標的は、第15階層の王、キングリザードマンだ。これまでの力任せの戦い方が通用する相手じゃない。圧倒的な質量と、それを微塵も感じさせない速度。奴を殺すには、単なる火力や防御力ではなく、魔力と動きの『精度』が必要になる」


「精度、か……」


「そうだ。蓮桜、お前は水の抵抗を無視できるようになったからといって、無駄な力で刀を振っている。流体を切り裂くのではなく、流体の動きを利用しろ。水に逆らうな、水を従えろ」


 俺の指摘を受け、蓮桜は刀を抜き放ち、ゆっくりと型の反復を始めた。

 最初は泥水の上で力任せに踏み込んでいたが、次第に足運びが滑らかになり、水面の波紋と調和するように刀の軌道が洗練されていく。彼特有の剛力に、柔らかな技術が宿り始めていた。


「心桜。お前の火は強力だが、この高湿度の環境下では空中の水分に熱を奪われ、着弾する前に威力が減衰している。魔力をただ放出するのではなく、極限まで圧縮しろ。目標に触れるその一瞬まで、熱を外に逃がすな」


「圧縮……。弾丸のように、ね。分かった、やってみる」


 心桜は桜の木の杖を構え、目を閉じて魔力の制御に集中し始めた。彼女の杖の先端に生み出された火球は、最初はぼんやりと広がっていたが、彼女の意識が研ぎ澄まされるにつれて、小さく、しかし直視できないほど高密度な赤熱の球体へと変わっていった。


 理桜はその後方で、二人の乱れた魔力波長を整えるように、微細な魔力操作の修練を行っている。

 俺は短剣を弄びながら、そんな彼らの動きのノイズを一つ一つ冷静に指摘し、削ぎ落としていった。

 教えられたことをただこなすのではなく、自らの頭で考え、修正し、進化していく。その過程を見るのは、自分の力が向上するのとはまた違う、奇妙なほど誇らしく、満たされる時間だった。




 特訓を続けながら湿原を奥へと進むと、やがて霧の向こうに巨大なシルエットが浮かび上がってきた。

 泥水の上に突き出した、苔むした古代遺跡の祭壇。

 その中央に鎮座しているのが、第13階層の主、シャーマンリザードマンだ。


 通常のリザードマンよりも一回り小さく、痩せ細っているが、その身には禍々しい呪術の装飾を纏い、手には頭蓋骨をあしらった不気味な骨の杖を握っている。

 知能が高く、魔法を操る厄介な個体。


「グルルルル……!!」


 俺たちの侵入に気づいたシャーマンリザードマンが、爬虫類特有の濁った瞳を細め、威嚇の声を上げた。

 奴が骨の杖を天に掲げると、周囲の泥水が不自然に盛り上がり、無数の水の球体へと変貌する。

 水魔法、ウォーターボール。

 一つ一つがボーリングの球ほどの質量を持ち、それが散弾銃のように俺たちに向かって殺到してきた。


「来るぞ!」


 蓮桜が身構えるが、俺は静かに制した。


「避けるな。そのまま歩け」


「えっ? お、おう!」


 俺たちは一歩も退かず、降り注ぐ水の弾丸に向かって真っ直ぐに歩みを進めた。


 ドゴォォォォンッ!!


 激しい水音と共に、無数のウォーターボールが俺たちの体に直撃する。

 普通の探索者であれば、骨を砕かれ、内臓を破裂させられるほどの衝撃。

 だが、俺たちを覆う【EXTRA水耐性】の概念装甲は、その物理的破壊力と水属性の魔力を完全に無へと帰した。


 パンッ、パンッ、と軽い音を立てて、凶悪な水魔法がただの水飛沫となって弾け飛ぶ。

 俺たちの服の裾一つ濡らすことなく、衝撃すらも完全に殺し尽くしていた。


「……ギ、ギェ……?」


 シャーマンリザードマンの動きが止まった。

 その醜悪な顔に、明らかな動揺が浮かんでいる。爬虫類特有の瞬膜がパチパチとせわしなく瞬き、理解不能な現象に対する本能的な恐怖が奴を支配し始めていた。


 必殺の魔法を雨あられと浴びせているのに、無傷の人間たちが平然とした顔で歩み寄ってくる。奴から見れば、俺たちの方こそが理不尽な怪物に見えたことだろう。


「どうした? お前の水遊びはそれでおしまいか?」


 俺が冷たい声で挑発すると、ボスはパニックに陥ったように、さらに巨大なウォーターボールを生成しようと杖を振り回した。


「遅えよ」


 ボスの詠唱が完了するよりも早く、蓮桜が動いた。

 特訓の成果だ。泥水という最悪の足場を、まるで舗装されたアスファルトの上であるかのように爆走する。足裏で水を掴み、抵抗を推進力へと変換する無駄のない踏み込み。

 一瞬で祭壇に飛び乗った蓮桜は、魔鉄製の刀を滑らかな軌道で振り抜いた。


「シィッ!」


 鋭い呼気と共に放たれた一閃。

 力任せの斬撃ではない。水流のように柔らかく、しかし鋼のように重い一撃が、シャーマンリザードマンが構えた骨の杖を、その硬い鱗に覆われた両腕ごと呆気なく両断した。


「ギァァァァァァッ!?」


 武器と腕を同時に失い、絶叫を上げて体勢を崩すボス。

 その背後という絶対的な死角に、俺はすでに音もなく立ち回っていた。


「チェックメイトだ」


 俺は、無防備に晒されたボスの背中に向かって、右腕を真っ直ぐに突き出した。


【現実逃避】


 世界から、俺の右腕の物理的な接触判定が消失する。

 分厚い爬虫類の皮も、強靭な筋肉の繊維も、硬い骨格も、俺の腕の前では存在しないも同然だった。

 ぬるり、と。

 何の実感も伴わないまま、俺の腕はボスの体内へと深く沈み込み、その胸の奥底でドクドクと脈打つ、熱を帯びた球体へと到達した。

 魔核。魔物の生命の源泉にして、この世界に存在するためのアンカー。


「……いただくぞ」


 俺は指先でその魔核をしっかりと掴み、魔核の存在座標ごと現実から切り離した。

 物理的な損傷を一切与えることなく、ただ純粋な「命の核」だけを空間ごと抜き去る。


 ビクンッ、と。

 シャーマンリザードマンの巨体が大きく跳ねた。

 断末魔の叫びすら上げることはできない。自分が死んだという事実を認識する脳の信号すら間に合わず、命の源を失った怪物は、パシャリという水音と共に光の粒子となって泥水の中へ溶けていった。


 生きたまま核を奪う、理不尽極まりない神業。

 後に残されたのは、俺の手の中で淡く青い光を放つ、美しいスキルクリスタルだった。

 確定ドロップ。


「おっしゃ! 完璧な連携だったな、クロ!」


「ああ。お前の動きも、さっきよりずっと洗練されていた」


 刀を鞘に納める蓮桜に短く応えながら、俺は手の中のクリスタルを光に透かして見た。

 水魔法、【ウォーターボール】のクリスタル。


「心桜、こっちへ来い」


「私? なあに、クロ」


 俺の呼びかけに応え、杖を抱えた心桜が小走りで祭壇へと上がってきた。

 俺は手の中のクリスタルを見せながら告げた。


「お前は火の魔法に特化しているが、火を極めるなら、相反する水を知る必要がある。極限の熱をコントロールするには、極限の冷たさと流動性を理解しろ」


「水魔法を、私が……?」


「ああ。だが、中途半端なスキルを覚えさせる気はない。少しここで待ってろ」


 俺はそう言うと、仲間たちの肩に手を置いた。

 ボスのリポップ条件は、一度違う階層へ移動して戻ってくることだ。通常ならば延々と階段を上り下りしなければならない面倒な作業だが、俺たちには関係ない。


「飛ぶぞ」


【現実逃避】次元跳躍


 一瞬で第12階層へと飛び、すぐさま第13階層の祭壇へと跳躍して戻る。

 空間が歪み、先ほど倒したはずのシャーマンリザードマンが再び姿を現した。

 現れた瞬間に蓮桜が足を斬り飛ばし、俺が背後から魔核を抜き取る。ただの残酷な作業だ。

 跳躍、帰還、瞬殺。

 それを一回、二回、三回と繰り返す。悲鳴を上げる間もなく処理されていくボスから、俺はさらに三つのクリスタルをもぎ取った。


 手元に揃った四つの【ウォーターボール】のクリスタル。

 俺はそれらを両手で包み込み、【現実逃避】による強制合成を発動させた。


 ギリギリギリッ……!!


 空間が悲鳴を上げ、反発し合う魔力が俺の手の中で荒れ狂う。

 だが、俺のEXTRA魔力操作がそれを力でねじ伏せ、一つの強大な概念へと圧縮していく。

 目も眩むような閃光が弾け、後には深海のように蒼く輝く一つの巨大なクリスタルが残された。


【EXTRAウォーターボール】


「食え」


 俺が手渡すと、心桜はゴクリと唾を飲み込み、それを口に含んで噛み砕いた。

 瞬間。

 心桜の体を包んでいた、彼女特有の炎のような赤い魔力のオーラが激しく揺らぎ始めた。

 赤い炎の中に、澄み切った蒼い水流が混ざり込んでいく。反発し合う二つの属性が、彼女の卓越した魔力操作と、俺が授けたEXTRAスキルの力によって次第に融和し、やがて美しくも恐ろしい紫色のオーラとなって彼女の全身を包み込んだ。


「……すごい」


 心桜が自分の両手を見つめ、震える声で呟いた。


「私の中に、燃え盛る火と、静かな海が一緒にあるみたい。……魔力の流れが、今までよりずっとハッキリと感じられる」


「火の熱量と、水の精密さ。その二つが合わされば、お前の魔法はもはや誰にも防げない」


「うんっ! これで火も水も、私の思い通りだよ!」


 心桜が杖を振り上げると、彼女の周囲に灼熱の火球と、透き通るような水球が同時に浮かび上がり、意志を持つように彼女の周りを旋回した。

 それを見ていた蓮桜が


「うわ、心桜怒らせたらマジで骨も残らなそうだな……」


 と身震いし、理桜が


「心桜、とても綺麗よ」


 と優しく微笑んだ。


 全員が、確かな成長を実感している。

 力任せだった戦い方は削ぎ落とされ、洗練された技術と、それを支える圧倒的なEXTRAスキルの暴力が完璧に噛み合い始めていた。


「よし。今日の収穫はこれで十分だ。帰るぞ」


 俺がそう告げると、三人は力強く頷いた。

 ふと見上げれば、俺たちが特訓と周回に費やした時間で、霧はすっかり晴れ渡っていた。

 完全に昇りきった朝の光が、見渡す限りの湿原を黄金色に照らし出している。その光景は、水底の支配者を討ち果たした俺たちを祝福しているかのようだった。


 第15階層の王、キングリザードマン。

 奴に挑むための資格は、もう完全に手に入れた。


 俺は夜明けの湿原を背にし、頼もしき仲間たちと共に、帰還のための次元跳躍へと意識を向けた。

 その顔には、隠しきれない凶悪な笑みが浮かんでいた。


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