第5話 覚醒の兆し
昨日の稼ぎは、24,000円。
両親と囲んだ焼き肉の味は、今も舌の上に鮮明に残っている。自分の力で、命と、そして社会的尊厳のすべてを賭して手に入れた初めての報酬。それは、ほんの少しの誇りが混じり合った、甘しょっぱい味がした。
駅前の、普段なら通り過ぎるだけだった高級焼き肉店の個室。緊張で強張る俺をよそに、父さんは黙々と、母さんは心配そうに、しかしどこか嬉しそうに肉を頬張っていた。
「黒桜、ちゃんと食べなさい。高いんだから」
「ああ、分かってるよ」
そう言って俺が差し出した特上カルビを、父さんはぶっきらぼうに受け取りながら、小さな声で
「……無茶だけは、するなよ」
と呟いた。それだけだった。でも、俺にはそれで十分だった。
あのままじゃダメだ。もっと強く、そしてスマートに稼げるようにならなければ。全裸になって雄叫びを上げて稼いだ金で食べる焼き肉は、嬉しいけれど、それ以上に情けなさが勝る。
「よし、行くか」
決意を新たに、俺、村雨黒桜は、亡き祖父が遺した少し大きめの革鎧を身に着け、腰のナイフの柄を強く握りしめた。
数時間後には、俺は再び立川ダンジョンの入り口、巨大な桜の木の前に立っていた。昨日とは違う。今日は、明確な目的意識がある。俺のスキル、【現実逃避】の可能性を、もっと深く探るんだ。
第一階層の草原に降り立つと、ひんやりとした空気が肌を撫でた。昨日よりも五感が冴え渡っているのが分かる。恐怖に支配されていた昨日とは違い、今日はわずかな自信が俺の背中を押してくれていた。
とぼとぼと、しかし周囲への警戒は怠らずに歩を進めていると、不意に前方から音が耳に届いた。
ペタ、ペタ、という湿った足音。そして、キーッ!という甲高い、鼓膜を不快に震わせる奇声。
音のした方を睨むと、そこにいたのは、緑色の醜悪な小鬼――ゴブリンだった。
一本の古びた棍棒を振り回しながら、一直線にこちらへ向かってきている。
スライムとは違う。明確な殺意と知性(たとえ低くとも)を感じさせる、人型の害魔獣。その濁った瞳が俺を捉えた瞬間、背筋に氷を滑り込ませたような悪寒が走った。
「ツっ……ゴブかよ……!」
恐怖が思考を鈍らせる。頭で考えるより先に、口が動いていた。昨日までの俺なら、悲鳴を上げて逃げ出していただろう。だが、今日の俺は違う。
「――現実逃避ッ!」
完全に距離を詰められて、あの棍棒で頭蓋を砕かれる光景が脳裏をよぎり、俺は即座にスキルを発動した。
いつも通りの浮遊感。肉体の感覚が薄れ、意識が体から抜け出す。そして、地面にはらりと落ちる、祖父の形見の装備一式。
眼下では、突然目の前から獲物が消えたことに困惑し、ゴブリンがキョロキョロと辺りを見回している。その隙は、ほんの僅か。
(やるしかない!)
俺は意識体のままゴブリンに急接近し、その胸の中心、心臓があるあたりに躊躇なく手を突っ込んだ。昨日、スライムで成功した方法だ。
目標は、体内の魔核。
ひんやりとした無機質なスライムとは違い、ゴブリンの体内は生暖かく、どくどくと脈打つ臓器の感触がダイレクトに伝わってきて、強烈な吐き気を催す。
だが、構わず奥を探ると、指先に硬い感触が当たった。これだ、魔核だ!
俺はそれを鷲掴みにする。
「よし、掴んだ!」
あとは、これを引き抜くだけだ。スライムの時のように、ボディから魔核を分離させれば――。
グッ、と力を込める。しかし、魔核はびくともしない。
「なっ……!?」
まるで岩に根を張った大樹のように、魔核はがっちりとその場に固定されていた。そうだ、スライムと違い、ゴブリンには強靭な肉体と骨格がある。魔核は肋骨に守られ、臓器や筋肉にがっちりと守られており、物理的に引き抜くことなど不可能だった。
どうする?
このままでは、魔力が尽きて現実世界に引き戻される。その時、目の前にいるのは武器を持ったゴブリン。そして俺は、丸腰の全裸。脳裏に浮かぶのは、無残に棍棒で殴り殺される自分の姿。最悪の結末しか思い浮かばない。
焦りが脳を焼き尽くす。MPゲージがみるみる減っていくのが感覚で分かる。
(クソ、どうすれば……! この魔核自体を、スライムの時みたいに肉体から抜けさせることができれば……! そうだ、この魔核も【現実逃避】できたりしたら……!)
ほとんど祈りに近い、無茶苦茶な発想だった。だが、今の俺にはそれしか思いつかない。俺は掴んだ魔核に意識を全集中させ、強く、強くイメージした。
『お前も、現実から逃げろ!』
その瞬間、信じられないことが起きた。
スルッ……。
まるでバターが熱したフライパンの上を滑るかのように、俺の手に握られた魔核が、ゴブリンの肉体を透過して抜け出したのだ。抵抗は一切ない。掴んでいたはずの確かな質量は、フッと意識体と同じような、実体のない感覚へと変わっていた。
俺の手に握られているのは、確かにゴブリンの魔核。だがそれは、【現実逃避】され、物理的な存在ではなくなっていた。
「え……マジかよ……」
呆然とする俺の目の前で、生命の源である魔核を抜き取られたゴブリンは、まるで糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ち、ピクリとも動かなくなった。
成功した。俺のスキルは、自分自身だけでなく、触れた対象物にも効果を及ぼせるんだ。イメージすること。それが、このスキルの鍵なんだ!
興奮と発見に打ち震えているうちに、またしても急激な魔力枯渇が俺を襲った。【現実逃-避】が強制的に解除される。
「はぁ、はぁっ、はぁ……!」
現実に戻った途端、どっと疲労が押し寄せる。俺は荒い息をつきながら、急いで服を着込み、誰にも見られていないことを確認して、ようやく安堵のため息をついた。
ゴブリンの死骸の横には、俺が抜き取った魔核が転がっている。そして、魔核をナイフで切り裂くとポロン、ポロンと魔石と、昨日と同じく――スキルクリスタルが転がり出てきたのだ。
「ぅぉおおお!!! 2日連続のスキルクリスタルゲットーー!!!」
否が応でもテンションが上がる。こんな幸運ってあるのだろうか? 日頃の行いは至って普通、どちらかと言うと運の悪い方の人間なのだ。
幸運で済ませて良いのだろうか?
よくよく考えてみると、昨日も今日も害魔獣が生きているうちに魔核を取り出せた。それが、この幸運のトリガーになっているのではないか?
(もしかして、この方法がスキルクリスタルを害魔獣からドロップさせる条件なんじゃないか……?)
僕は、この推測を検証したいと思った。これが事実なら、これからの収入に大きく関わってくる。
魔力回復のため、休憩がてらダンジョンを出て、JDS立川支部のエントランスに戻ってきた。
初心者がスキルクリスタルをそう頻繁に手に入れられるものなのか? スマホを使って検索してみると、衝撃の事実が次々と明らかになった。スキルクリスタルのドロップ率は、雑魚モンスターからは0.1%以下。ほとんどは階層ボスを倒した後に出現する宝箱から入手するのが一般的らしい。
「よかった〜。これなら頻繁に持ち込んでも、ただ運がいい奴だと思われるだけで、怪しまれはしないよな!」
ブツブツ独り言を言っているのを、通りがかった受付嬢のお姉さんに見つかってしまった。クスッと笑われ、挨拶をされる。
「こんにちは〜。今日も探索ですか? まだ若いのによく頑張りますね」
「いや、今はちょっと休憩で……。あの……またスキルクリスタルの鑑定をお願いしたいのですど……」
「あら!? 今日もスキルクリスタルを手に入れられたのですか? 凄いです! 新人さんが2日連続でスキルクリスタルを発見するなんて、私がここで働き始めてから記憶にないですよ!」
驚きを隠せないお姉さんに案内され、カウンターでスキルクリスタルを提出する。今日もまだ昼前なので待っている探索者もいなく、鑑定はすぐに終わった。
「これは【体力回復UP】のスキルクリスタルですね。買い取り価格は一万円になります」
「安い!?」
思わず声が出てしまった。昨日の三万円と比べると、あまりにも安い。
「これはダンジョン低階層で比較的よく発見されるスキルクリスタルなので……。どうしても価格は下がってしまうんですよ……」
申し訳なさそうに言うお姉さんに、俺はペコペコ頭を下げて謝り、鑑定料500円を支払った。買い取りしてもらうかは少し考えさせてもらうことにした。
【体力回復UP】。効果は、少し疲れづらくなる、というものらしい。微妙だ。売っても一万円にしかならないし、かといって自分が使うほどのスキルでもないような……。
ロビーのソファでうんうん唸っていると、いつの間にかウトウトと眠ってしまっていた。だが、ほんの短い仮眠でも、消耗した魔力が回復していくのが分かった。
「考えても仕方ない。今日は後もう一回ダンジョンに潜って、仮説を検証してから帰るか」
今日二度目となる第一階層へ到着する。しばらく歩いていると、都合よく別のゴブリンを発見できた。休憩中なのか、岩に腰掛けて座り込んでいる。死角になる位置からゆっくりと近づく。
「現実逃避」
小声で唱え、また俺の身体は意識体へと変わる。もうすっかり慣れたものだ。素早く魔核を掴み、強く念じる。
『現実逃避』
【現実逃避】させた魔核をゴブリンの身体から抜き取ると、スイッチが切れたように、ゴブリンは崩れ落ちた。今回は魔力切れになる前に、現実に戻る。
「はぁ……よかった……上手くいった……。これで、スキルクリスタルがあれば……」
パパっと服を着て、魔核をナイフで裂くと、コロコロと魔石と、そして期待通りにスキルクリスタルが出てきたのだ!
「や、やったーー!!!」
やっぱり、生きているうちに魔核を取り出せば、スキルクリスタルを確定でゲットできるんだ。
原理は分からないが、出来てしまったのだから、これはそういうものなのだろう。もしかしたら、ベテランの探索者なら何か知っていることがあるかもしれない。
すぐに駆除が終わってしまい、今回は魔力も余っている。俺はまたエントランスに戻り、受付のお姉さんの元へ向かい鑑定してもらう。
「あの……お客様……。このスキルクリスタルは、先程と同じ【体力回復UP】なのですけど……。何かのイタズラ、でしょうか?」
ニコニコしながらも、その目は全く笑っていない。お姉さんの静かな迫力に、俺はタジタジになってしまう。
「えっ? そ、そうなんでしゅか? す、すみませんでしたーー!!!」
勢いよく謝罪をして、俺は受付カウンターから逃げるように遠ざかった。完全に頭のおかしい奴だと思われたに違いない。
それにしても、【体力回復UP】が二つもあっても仕方ない。一個は売るしかないだろう。
再び受付に戻るのも気まずいので、休憩がてら、スキルの練習をすることにした。いつまでも全裸で戦ってはいられないのだから。
エントランスの隅、人目につかない場所で、先程ゲットしたばかりのスキルクリスタルを手のひらの上で眺めてみる。
『現実逃避』
声には出さず、心の中で唱えてみた。すると、スキルは問題なく発動した。スキルクリスタルは現実を離れ、俺の意識体と同じ、半透明の存在へと変わる。
俺は自分以外の物質でも【現実逃避】を使える。魔核を取り出すこともできたのだから、この検証は分かりきっていたことだ。だが、驚いたのは、その次の瞬間だった。【現実逃避】させたスキルクリスタルの情報が、脳内に直接流れ込んできたのだ。
【体力回復UP】
さっき鑑定してもらったから知っているだけだろう、と思うかもしれない。だが、この感覚は違う。まるで、辞書を引くのではなく、その単語の意味が最初から頭にインストールされているような、不思議な感覚だった。
試しに、持っていた祖父のナイフに【現実逃避】を使ってみる。すると、頭の中に、
『魔鉄のナイフ:魔力を帯びた鉄から鍛えられたナイフ。通常の鉄より頑丈で、害魔獣に対して僅かながら特効性を持つ』
という、詳細な情報が浮かび上がったのだ。
もう一つの【体力回復UP】のスキルクリスタルにも試してみる。やはり、同じ情報が浮かび上がる。
これは間違いなく、鑑定もどきが出来るということだ。鑑定料500円が浮く!
一人で興奮している俺の目の前には、スキルクリスタル二つとナイフがふわりと浮いている。だが、通りがかった人は誰も、それを気に留めない。【現実逃避】した物体は、俺にしか見えないらしい。
「うん、この【現実逃避】って、上手く使えばかなり有望なスキルかもよ!?」
楽しくなって、現実から離脱している二つのスキルクリスタルを動かして遊んでいると、それらが重なり合った時、また奇妙な感覚が頭の中に走った。
あれ? 何だ、今のは? これって……くっつくのか!?
二つのスキルクリスタルが重なり、混ざり合い、一つのより輝きの強いクリスタルになるイメージを、頭の中で描いてみる。
あっ! 出来ちゃった……!?
【HIGH体力回復UP】
より強力になったスキルの情報が頭の中に浮かび上がった、その瞬間。
俺の脳は許容量を超えた情報処理にショートし、ブツン、と意識の電源が落ちた。そのまま俺は、魔力切れでその場に崩れ落ちたのだった。




