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第42話 完璧すぎるカウンセラー(朝霧詩織:SIDE)


 昼休み。

 立川第一高校の教室は、実にありふれた喧騒に満ちていた。無邪気で、愚かで、そして驚くほど扱いやすい子羊たちの群れ。私の仕事は、この群れの中から一匹の特別な子羊――桐生院理桜という『聖遺物』を、あるじであるアラン・サンフォード様の元へ導くこと。実に単純で、少し退屈な作業だ。


 担任教師に先導され、教室に足を踏み入れる。瞬間、すべての視線が私に突き刺さるのを感じた。羨望、好奇心、そして淡い劣情。彼らの単純な感情は、手に取るように読み取れる。私は、完璧に計算された角度で微笑み、慈愛に満ちた聖女の仮面を被り直した。


「みなさん、こんにちは。今日から皆さんの心のケアを担当させていただくことになりました、朝霧詩織です」


 鈴を転がすような、しかし聞く者の心に信頼を根付かせる芯のある声。これも訓練の賜物だ。私が微笑むと、クラスの雰囲気は一瞬で熱に浮かされたように華やぐ。ああ、なんて簡単なのでしょう。


「カウンセリングルームはいつでも開放していますから、どんな些細な悩みでも、気軽に話しに来てくださいね」


 私は事前にインプットされたデータをなぞるだけの、簡単な作業を始めた。


「鈴木くん。部活のレギュラー争い、焦る気持ちはわかるわ。でも、あなたの努力は必ず実を結ぶ」


「佐藤さん。志望校のこと、ご両親と少し意見が食い違っているのね。大丈夫、あなたの熱意が伝われば…」


 一人、また一人と、子羊たちの心に「理解者」という名の楔を打ち込んでいく。驚きが感嘆に変わり、やがて心酔へと変貌していく過程は、何度見ても滑稽で、そして心地が良い。


 そして、私は計画の核心へと歩を進めた。

 教室の隅で固まっている、四人の男女。あれが本丸と、それを守る番犬たちね。

 太陽のように無防備に笑う少年、黒鉄蓮桜。小悪魔を気取っているが、その実、承認欲求の塊である少女、鵺野心桜。そして、その中心で儚げに微笑む、我が主が渇望する『聖遺物』、桐生院理桜。実に脆そうで、壊し甲斐がありそうな、素晴らしい素材だわ。


 だが――私の視線は、残る一人の少年に吸い寄せられた。


 村雨黒桜。


 彼は、周囲の熱狂から一歩引いた場所で、静かにこちらを観察していた。他の生徒たちのような単純な感情が、その瞳からは読み取れない。まるで、私の聖女の仮面を見透かし、その奥にある本質を探っているかのような、冷徹な目。


(…一匹、妙に落ち着いた目をした狼が混じっているわね)


 面白い。少しだけ、退屈が紛れそうだわ。


 私は、あえてその狼に狙いを定めるように、彼らのテーブルへと近づいた。


「あなたが、村雨黒桜くんね。そして、黒鉄蓮桜くんに、鵺野心桜さん」


 そして、主役である桐生院理桜へと視線を移し、最大限の慈愛を込めた表情を作る。


「…あなたたちが、桐生院さんの大切なお友達ね。いつも彼女を支えてくれて、本当にありがとう」


 案の定、単純な二匹の番犬はすぐに尻尾を振った。桐生院理桜も、自分が特別扱いされたことに満更でもない様子。計画通りだ。

 だが、村雨黒桜だけは、笑顔で会釈を返しながらも、その瞳の奥の警戒を解いてはいなかった。

 ええ、いいわ。その猜疑心、私が一つ残らずへし折ってあげる。




 昼休みが終わる頃、私はカウンセリングルームで静かに紅茶を嗜んでいた。

 さて、あの一匹の狼はどう動くかしら。私の完璧な演技に混乱し、仲間内で疑心暗鬼に陥るか。あるいは、その冷静さを過信して、単独で接触してくるか。どちらに転んでも、私の手のひらの上だ。


 コン、コン。


 思ったよりも早かったわね。

 私はカップをソーサーに静かに置くと、再び完璧な聖女の仮面を被った。


「どうぞ、お入りなさい」


 扉を開けて入ってきたのは、やはり村雨黒桜だった。

 賢いのか、それとも愚かなのか。自ら罠に飛び込んでくるとは、随分と自信家らしい。

 私は、私のために用意されたこの舞台――獲物の警戒心を解きほぐすためだけに計算され尽くしたこの空間へ、彼を招き入れた。


「まあ、村雨くん。早速来てくれたのね、嬉しいわ。さあ、そこに座って」


 彼がソファに腰を下ろすのを確認しながら、私は彼の全身を観察する。隙のない佇まい、落ち着いた呼吸。やはり、ただの子羊ではない。だが、それがどうしたというのかしら。どんな猛獣であろうと、心の檻に入れてしまえば、ただのペットも同然だ。




「先生。実は最近、少し悩んでいて…ダンジョンでの集中力が、どうも続かなくて」


 ありきたりな悩みね。探りを入れているのが見え見えで、思わず笑みがこぼれそうになる。けれど、ここは彼の茶番に付き合ってあげましょう。


「そう…。それは、とても辛いわね。あなたは責任感が強いのね」


 私は、教科書通りの共感と肯定を並べ立てる。彼の警戒心を少しずつ、薄皮を剥ぐように削ぎ落していく。そして、本題へと誘導した。


「…例えば、桐生院さんのような、心の清らかな方に…」


 さあ、この餌にどう食いつく?

 あなたのその脆い絆に、最初の亀裂を入れてあげる。


「彼女は、とても純粋で、強い心を持っているわ。あなたの抱える悩みや弱さも、きっと彼女になら、静かに受け止めてくれるはずよ」


 彼は一度、私の言葉を吟味するように黙り込んだ。そして、予想通り、私の誘導に乗るフリをした。


「なるほど…。理桜に、ですか。確かに、彼女なら俺の弱い部分も受け入れてくれるかもしれませんね」


 私の目元が、満足そうに和らぐ。これも計算のうちだ。油断させるための、小さな隙。

 だが、彼の次の言葉が、私の完璧な計算を、コンマ数秒だけ停止させた。


「でも…俺一人の悩みなんかより、先生こそ、お疲れじゃないですか?」


 …え?


「だって、すごいじゃないですか。着任初日で、クラス全員の名前どころか、抱えている悩みまで完璧に把握しているなんて。全校生徒の心を、たった一人で背負うなんて、並大抵の仕事じゃない」


 彼は、無邪気な生徒を装ったまま、私という存在の異常性を、的確に指摘してきた。


「それって、何か、特別なスキルでもお持ちなんですか?」


 ――ピシッ。


 私の内側で、完璧に作り上げていた仮面に、小さな亀裂が入る音がした。

 しまった。油断した。この少年は、私が想定していたよりも遥かに鋭い。私の能力の核心に、初手で触れてくるなんて。

 一瞬、全身の血が凍りつくような感覚。表情筋が強張り、慈愛に満ちていたはずの瞳から感情が抜け落ちるのが自分でも分かった。

 けれど、私はプロだ。コンマ数秒後には、完璧な仮面を貼り直し、氷のような笑みを浮かべていた。

 もう、慈愛を装う必要はない。目の前のこの少年は、もはや「子羊」でも「番犬」でもない。

 私の計画における、排除すべき最大の『障害物ノイズ』だわ。


「ふふっ、ありがとう、村雨くん。心配してくれるのね」


 私の声は、先ほどまでと変わらない。けれど、その響きには、明確な敵意と宣告を込めた。


「でも、特別な力なんてないわ。ただ、皆さんの力になりたいという、その純粋な気持ちが、私を強くしてくれるのよ」


 互いに笑顔のまま、視線が交錯する。

 ええ、そうよ。あなたと私は、敵同士。この静かな部屋は、今、私たちの戦場になったのよ。




「…そうですか。すごいですね、先生は」


 彼が当たり障りのない言葉を残して去っていく背中を、私は静かに見送った。

 扉が閉まり、一人になった瞬間、私は張り詰めていた息を吐き出し、ソファの背もたれに深く体を預けた。やれやれ、少し汗をかいてしまったわ。A級ダンジョンから生還した探索者を相手にするより、よほど骨が折れる。


 私は聖女の仮面を投げ捨て、氷のように冷たい素の自分に戻る。手元のタブレットで、彼の個人情報をもう一度確認した。


『村雨 黒桜』


 面白い。実に面白いじゃない。

 私の計画では、まず周囲の羊たちを完全に手懐け、外堀を埋めてから、本丸である『聖遺物』に接近するはずだった。まさか、初日に、しかも子羊だと思っていた少年が、私の喉元に牙を突き立ててくるとは。


「けれど…」


 私の口元が、ゆっくりと愉悦の形に歪んでいく。


「計画に支障はない。むしろ、ただ子羊を導くだけの退屈な仕事が、少しは面白くなってきたじゃない…」


 面白いゲームには、手応えのある障害物が必要だもの。

 正面からこの狼を崩すのは得策ではない。ならば、まず、彼の守る群れの中で、一番脆そうで、一番効果的な駒から堕としていきましょう。

 私はタブレットの画面をスワイプし、次なる標的の顔写真を呼び出した。

 そこに映し出されていたのは――太陽のように無邪気に笑う、黒鉄蓮桜の顔だった。


 太陽のように明るく、誰からも好かれる子。そういう子はね、一度心に影を落とされた時の絶望も、誰より深いのよ。

 さあ、新しいゲームの始まりだわ。

 その不気味な高揚感だけが、静まり返ったカウンセリングルームに、甘く満ちていた。


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