第4話 初収入
午前中に開催された初心者講習会は、俺の精神を雑巾のように絞り上げる、過酷な苦行以外の何物でもなかった。
いや、正確に言えば、講習そのものは有益だった。問題は、その後に待っていた桐生院理桜さんによる個人指導――という名の、氷点下まで冷却された眼差しと言葉の刃による集中砲火が、俺の硝子細工のように脆いハートを情け容赦なく粉々に打ち砕いたのだ。
JDS支部のカフェテリア。俺たちの向かいの席では、他の新人たちが和気藹々とランチを楽しんでいるというのに、俺たちのテーブルだけはシベリアのような極寒の空気に包まれていた。
「いいこと、村雨君。あなたのスキルが、既存のカテゴリに分類されないユニークなものであることは認めるわ。でも、その代償が全裸では話にならないの」
カチャリ、と彼女は静かにティーカップをソーサーに戻した。その些細な音すら、俺には断頭台の刃が落ちる音に聞こえる。
「これは羞恥心の問題で言っているのではないわ。純粋なリスク管理の問題よ。ダンジョンという、いつどこから害魔獣が襲ってくるか分からない無法地帯で、完全に無防備な状態を晒すことが、どれだけ致命的な行為か理解してる?」
「……はい」
「戦闘スタイルもあまりに無計画。ただ叫んで、何の考えもなしに敵に突っ込むなんて、思考を放棄した猪と同じよ。もっと頭を使いなさい。自分のスキルをどうすれば最大限に活かせるのか。どうすればリスクを最小限に抑え、生存確率を上げられるのか。考えなさい。明日も生きていたいと思うのなら」
理路整然と、しかし一切の遠慮もオブラートもなく突き刺さる正論の槍。俺に反論の余地など微塵もなく、ただ項垂れて頷くことしかできなかった。
凹む。地の底、マリアナ海溝の最深部まで凹む。
だが、不思議と彼女に対する怒りや反発は湧いてこなかった。その涼やかな瞳の奥に宿る真剣な光が、本気で俺のような人間の身を案じてくれていることの、何よりの証左に思えたからだ。
そして午後。ズタボロにされた自尊心を抱え、俺は再びJDS立川支部のエントランスに立っていた。
目的は一つ、金を稼ぐこと。理桜さんの説教で心は疲弊しきっていても、腹は正直に空腹を訴えてくる。生きるためには、稼がなければならないのだ。
しかし、朝の喧騒は幻だったかのように消え去っていた。パーティーのポーター募集はとうに終わっており、エントランスにはまばらな探索者たちが談笑しているだけ。
クラスに入れなかった俺は、自動的にノークラス、つまりポーター扱いとなる。だが、その日雇いの仕事すらないとなれば、選択肢は一つしかない。
ソロで、ダンジョンに潜る。
初心者講習で顔を合わせた他の連中は、何人かで即席のパーティーを組んで意気揚々とダンジョンへ向かったようだ。
もちろん、「全裸スキル持ちの変人」と噂される俺に声がかかることなど、万に一つもなかった。
孤独という名の冷たい風が心を吹き抜けるが、ここで立ち止まるわけにはいかない。俺は覚悟を決め、立川ダンジョンの入り口である、巨大な桜の木の『うろ』へと向かった。
家を出る前、押し入れの奥深くで眠っていた装備を引っ張り出してきた。昔、探索者として少しだけ活動していたという、亡き祖父が遺した形見だ。使い込まれて少し色褪せた革鎧と、鞘に収まった無骨なナイフ。どちらも俺の体には少し大きく、どこか借り物めいて落ち着かない。だが、この古びた装備に触れていると、会ったこともない祖父の温もりが伝わってくるようで、不思議と心が奮い立った。
「じいちゃん、ちょっと借りるぜ」
誰に言うでもなく呟き、桜の木のうろにそっと手を差し入れる。グニャリとした奇妙な感触の後、ギュンッ!と全身が異空間に吸い込まれた。視界が乱れ、一瞬の浮遊感。次の瞬間、俺はダンジョン第一階層、見渡す限りの草原に放り出されていた。
「さーてと、まずは害魔獣探しといきますかねーっ!」
理桜さんに叱られて地の底まで沈んだ気分を振り払うように、俺はわざと大きな声を張り上げ、テンションを上げて歩き出した。広大な空とどこまでも続く緑の大地。一人きりの探索は心細いが、同時に誰にも邪魔されないという解放感もあった。
しばらく草原を歩き回っていると、ふと、前方の草むらが不自然に揺れているのに気が付いた。祖父のナイフを抜き放ち、警戒しながら近づく。そこにいたのは、ゼリーのように半透明で、ぽよぽよと絶えず形を変える奇妙な生命体だった。
スライム。
ダンジョン黎明期、多くの研究者がその生態に頭を悩ませた害魔獣。その不定形の体は物理的な攻撃を一切受け付けない。科学者たちは塩をかけ、洗剤を浴びせ、果ては火炎放射器まで持ち出して攻撃を試みたらしいが、どれも効果はなかったという。
唯一、スライムにダメージを与えられたのは、魔法攻撃だけだった。
しかし、魔法系のスキルを持つ探索者は希少だ。おまけに、苦労して倒したところで、後に残るのは使い道のないただの液体と、僅かな魔石だけ。完全に割に合わない。
結果として、スライムは「こちらから手を出さなければ無害な障害物」として、探索者たちからは徹底的に無視されるようになった。それが、この世界の常識だ。
俺もその常識に従い、回り道をしてやり過ごそうとした。だが、その時、ある可能性が雷のように脳裏を貫いた。
(俺のスキル、【現実逃避】って……もしかして、魔法のカテゴリに入るんじゃないか?)
物理法則を完全に無視して意識体になる。あれは、どう考えても物理現象ではない。だとしたら、この物理攻撃が効かないスライムに対して、何かできるかもしれない。
ダメで元々。試してみる価値はある。
俺はゆっくりとスライムににじり寄り、息を吸い込んで、静かにその名を唱えた。
「――現実逃避」
視界が歪み、肉体の感覚が希薄になっていく。服が体をすり抜ける奇妙な感触と共に、俺の意識はふわりと宙に浮いた。眼下には、俺が脱ぎ捨てた服と装備、そしてのんきに佇むスライム。……それから、生まれたままの姿で突っ立っている俺の肉体。
いや、今は肉体のことは忘れよう。集中だ。
さて、【現実逃避】は発動した。だが、理桜さんの言う通り、問題はここからどうするかだ。ただ眺めているだけでは何も始まらない。
俺は試しに、意識体の拳を握りしめ、スライムに向かって思い切り殴りかかった。
スッ……。
手応えは、皆無。俺の拳は、何の抵抗もなくスライムの体を通り抜けた。
「だよな……。そんな単純な話じゃないか」
予想通りの結果にため息をつく。だが、諦めるのはまだ早い。俺は腕をスライムの体内に突っ込んだまま、内部をかき回すように探ってみた。ひんやりとしたゼリーの中をまさぐるような、何とも言えない不気味な感触が腕を伝う。
すると、指先に何かがコツンと当たった。
(なんだ、これ?)
意識を集中させると、スライムの体の中心に、ビー玉くらいの大きさの、黒く硬い球体が浮かんでいるのが見えた。
害魔獣の心臓の役割を果たすと言われる、「魔核」。
これを壊せば、倒せるかもしれない。
俺はイメージした。この意識体の手で、あの魔核を掴み、握り潰すイメージを。強く、強く、念じる。
『掴め!』
その瞬間、俺の手に、確かに硬いものが握られる感触が走ったのだ。
「なっ……!?」
驚きに目を見開く。意識体でしかないはずの俺の手に、確かな質量と手応えがある。掴めた! 俺のスキルは、ただ透過するだけじゃなかったんだ!
興奮に打ち震えていると、魔核を掴まれたスライムが、苦しむように体を激しく揺らし始めた。ぽよんぽよんと跳ね回り、移動しようともがく。
だが、俺は必死に魔核を掴んだまま、その場に留まり続けた。すると、信じられない光景が目の前で繰り広げられた。
俺が掴んでいる魔核はその位置から動かず、スライムの液体でできたボディだけが、ずるりと前方へ移動していく。まるで、中身だけを取り出されたゼリーのように。
そして、魔核が完全にボディから分離した瞬間、スライムの体は形を保てなくなり、どろりと溶けてただの水たまりになってしまった。
俺の手に残ったのは、硬くて冷たいスライムの魔核。
それと同時に、全身から力が抜けていくのを感じた。MP切れだ。意識が急速に現実世界へと引き戻される。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
気づくと、俺は草原の上に膝をついていた。全身から汗が噴き出し、息が荒い。恐る恐る、握りしめていた手を開く。そこには、紛れもなく、黒い魔核が鎮座していた。
倒せた。俺が、俺自身の力で。誰もが無視してきたスライムを、この役立たずだと思っていたスキルで倒すことができたんだ。
込み上げてくる達成感と興奮に、俺はもはや自分を抑えることができなかった。
「う、うぉおおおおおおおおっ!!! やったぞーーーーっ!!!」
天に向かって、力の限り叫んだ。俺にもできる。俺だって、探索者としてやっていけるんだ!
その時だった。
「ねぇ、ちょっと……あの子、ヤバくない……? 裸で何か叫んでるんですけど……」
「バカ、見るな! 触るな! 関わるな! 無視して行くぞ!」
遠くから聞こえてきたひそひそ話に、俺はハッと我に返った。視線を向けると、少し離れた場所で、三人組のパーティーがドン引きした顔でこちらを見ている。
そして、俺は自分の姿を思い出した。
……全裸だ。
歓喜の絶頂から、羞恥のどん底へ。俺は悲鳴を上げそうになるのを必死にこらえ、落ちていた服と装備をかき集めると、その場から逃げるように走り去った。
「はぁ、はぁ……また見られた……。また変な噂が広まる……」
岩陰に隠れ、ぜえぜえと息を切らしながら、俺は急いで服を着た。羞恥心で死にそうだったが、それ以上に、手の中にある勝利の証が俺の心を奮い立たせた。
祖父のナイフを取り出し、硬い魔核の表面に突き立てる。パキン、と小気味よい音を立てて殻が割れ、中から赤く輝く小さな魔石が転がり出た。
そして――なんと、その隣に、手のひらサイズの水晶のようなものもコロンと現れたのだ。
「う、ぅぉおおお!!! スキルクリスタル!」
またしても、俺は叫んでしまった。狩りを続けて経験を積むどころではない。すぐにでもこれを換金して、今日の勝利を祝いたい。俺は脱兎のごとくダンジョンの入り口へと引き返し、JDS支部へと向かった。
まだ正午を過ぎたばかりで、帰還する探索者はほとんどいない。換金カウンターの番号札を取ると、待つ間もなくすぐに俺の番号が呼ばれた。カウンターにいたのは、免許試験の日にいた、あの優しい笑顔の受付嬢さんだった。
「こちらへ、どうぞー」
「こ、こんにちは! これを、換金お願いしましゅ!」
勢い余って噛んでしまったが、もはや気にしてはいられない。
「はい、スライムの魔石と、スキルクリスタルですね。スキルクリスタルの鑑定には手数料として500円掛かりますが、いかが致しますか?」
ニッコリと微笑んでくれるお姉さん。俺はこれからのバラ色の生活を妄想するのに夢中で、彼女の話をほとんど聞いていなかった。
「お客様? スキルクリスタルの鑑定は、なさいますか?」
「あっ、はい! もちろんお願いします!」
「畏まりました。それでは、鑑定が出来次第お呼びしますので、少々お待ちください」
今日の晩ご飯は、奮発して焼き肉か、それとも回らない寿司か。そんな幸せな悩みに身をよじっていると、思ったよりも早く呼び出しがかかった。
「お待たせいたしました。こちらのスキルクリスタルは【物理耐性】のスキルになります。ただいま、このスキルは品薄状態が続いていますので、買い取り金額は三万円になっております」
「はい?」
「三万円になります」
「さんびゃくえん?」
「いえ、三万円です」
ポカーンと固まっていると、受付のお姉さんがニッコリ笑いながら、可愛らしく首を傾げた。
「【物理耐性】は、擦り傷や軽い打撲といった軽微なダメージを無効化してくれる便利なスキルですよ。大きな怪我は防げませんが、探索中の小さなストレスがなくなるだけでも随分と違います。珍しいスキルクリスタルなので、ご自分でお使いになられますか? まずは適性があるかどうか、触って確かめてみてはいかがでしょう?」
「あっ、はい……そうですね……そうします……」
促されるまま、カウンターに置かれたスキルクリスタルにそっと触れる。もし適性があれば、クリスタルが光を放ち、俺の体にスキルが宿るはずだ。
だが――。 クリスタルはうんともすんとも言わず、ただの冷たい石のままだ。何度か触ってみたが、結果は同じだった。
(……だよな。そんなにうまくいくわけないか)
少しだけがっかりしたが、すぐに気持ちを切り替えた。
「これ! 買い取りでお願いします!」
「よろしいのですか? やはり適性は……」
「はい! 売ります!」
俺のきっぱりとした態度に、受付嬢さんは「承知いたしました」と頷くと、端末を操作し始めた。
「それでは、スライムの魔石の買い取り額が500円。スキルクリスタル【物理耐性】の買い取り額が30,000円。合計で30,500円となります。そこから、スキルクリスタルの鑑定手数料500円を差し引かせていただきまして、30,000円ですね。こちらから所得税20%を引かせていただいた24,000円を、お客様の免許証口座にお振込みいたします」
税金。忘れていた。だが、それでも24,000円という大金が手に入るのだ。俺は自分の免許証に電子マネーがチャージされるのを感慨深く見つめた。 労働って、なんて素晴らしいんだろう。
JDS支部を出た俺は、少しだけ震える指でスマートフォンを取り出し、実家に電話をかけた。俺がダンジョンシーカーになることに対して、父さんは猛反対し、母さんはただ心配そうに眉を寄せるばかりだった。最近、食卓にはいつも気まずい空気が流れていた。だが、今日だけは、どうしても伝えたかった。
「……もしもし、俺だけど。今日、晩飯、焼き肉でも行かないか? 俺のおごりで」
電話の向こうで母さんが息を呑むのが分かった。隣にいるであろう父さんの、訝しげな声も聞こえる。しかし、俺は続けた。
「探索者として、初めて稼いだ金なんだ」
その言葉が、決定打だったらしい。
その夜、俺たちは駅前の少し高級な焼き肉店の個室にいた。分厚い特上カルビが網の上で香ばしい音を立てる。普段は小言ばかりの母さんも、とろけるような肉の味に「……美味しい」と目を細めている。
最後まで仏頂面だった父さんも、俺が差し出した肉を黙って受け取り、ビールを呷るペースがいつもより少しだけ早かった。
会計で、俺は誇らしい気持ちで初収入がチャージされた探索者免許証を提示した。一万円以上の金額が引かれたが、少しも惜しいとは思わなかった。
店を出て、夜風に当たりながら三人で並んで歩く。会話は少ない。だけど、家を出る時のような張り詰めた空気は、そこにはなかった。 これで、少しは認めてくれただろうか。俺が選んだこの道を。
今日の収入は、俺の人生で初めて、自分自身の力で稼いだ、かけがえのない価値を持つものだった。
これは、俺が勝ち取った、小さな、しかし確かな『現実』だったのだ。




