表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/50

第37話 忍び寄る狂信


 JDSの無機質な施設とはおよそかけ離れた、アンティーク調の家具で統一された豪華なリビング。壁には退廃的な雰囲気の抽象画が飾られ、床には俺の足音を完全に吸収する深紅の絨毯が敷かれている。薄暗い間接照明が、磨き上げられたマホガニーの家具を鈍く照らし出し、空気には高級な葉巻とアルコールの香りが微かに、しかし確かに漂っていた。

 大人のための、秘密の隠れ家。

 聞こえはいいが、その実態は嘘と欲望と死の匂いが染みついた、裏ギルドのリビングだ。俺はこの空気が嫌いだった。だが、俺という存在――『黒狐』は、この澱んだ空気の中でしか呼吸ができないことも知っていた。


 俺はその空間に、静かに足を踏み入れた。深紅の絨毯が、俺の存在そのものを吸い込んでいくようだ。一つのテーブルには、すでに三つの仮面が揃っていた。テーブルの奥、影が最も濃い場所に座るのは、カラスの仮面をつけた、レイヴン。その指は微動だにせず、まるで部屋の調度品の一部のように静まり返っている。その隣では、猫の仮面をつけた、キャットウォークが、退屈そうに長い脚を組み、磨き上げた爪先を眺めている。だが、その目は笑っていない。そして、俺の正面に座るのは、絶えず周囲を窺うように視線を動かす、ネズミの仮面をつけた情報屋。

 まるで俺一人を待ち構えていたかのような、重苦しい空気が漂っている。俺の到着によって、止まっていた舞台の幕が上がるのを、誰もが息を殺して待っているかのようだった。


 俺は無言でネズミの正面の席に腰を下ろすと、懐から小さなガラス瓶を取り出した。中身は、俺が精製した【EXTRA回復ポーション】。並の錬金術師が生涯をかけても辿り着けない、奇跡の産物だ。


「約束のブツだ」


 低い声でそれだけ告げ、磨き上げられたテーブルの上を滑らせる。ガラス瓶は音もなくネズミの手元に吸い寄せられた。




 ネズミはポーションを手に取ると、仮面の下で満足げに頷き、それを大事そうに懐にしまう。そして、この場にいる他の二人、レイヴンとキャットウォークがいることをまるで意に介さず、あるいは、わざと聞かせるように、低い声で「忠告」を始めた。


「気をつけな、黒狐。そのポーションの秘密を、『サンクチュアリ・インダストリーズ』が血眼になって探ってるらしいぜ」


 その名が出た瞬間、俺の思考が氷のように鋭く研ぎ澄まされる。隣に座るキャットウォークが、息を呑む気配がした。彼女の指先が、一瞬だけぴくりと動くのを視界の端で捉える。


(『サンクチュアリ・インダストリーズ』……表向きは、若きカリスマ経営者アラン・サンフォードが率いる再生医療分野の優良企業。難病を克服し、その経験から人類の救済を掲げる若き天才。メディアが作り上げた虚像だ。その実態は、先日俺たち『チェリーブロッサム』が戦闘したPMC『アークライト』を擁する、狂信者の集団。その潤沢な資金源は、世界中のカルト教団からの不透明な献金によって賄われている。奴らの真の目的は……神の御業の再現。あるいは、神そのものになろうとしているのかもしれない)


 俺の思考を肯定するかのように、ネズミは言葉を続けた。その声は、この豪奢な部屋には不釣り合いなほど、ザラついていた。


「連中は世界中で『奇跡』――つまりは、常人の理解を超えた特異なスキルを持つ人間を『生ける聖遺物』と呼び、保護か拉致か分からねえやり方で、手当たり次第に集めてる。表向きは人道支援や医療協力。だがその裏では、抵抗する者は容赦なく消される。連中にとって、自分たちの信仰にそぐわない人間は、存在しないのと同じだからな。最近じゃ、その手足として立川ダンジョンで活動してる誘拐屋を雇ったらしい、なんて噂もある」


 ネズミはそこで一度言葉を切り、テーブルの上のグラスに口をつけた。琥珀色の液体が揺れ、氷がカラン、と乾いた音を立てる。その一瞬の静寂が、これから語られる事実の重さを予告していた。

 そして、ネズミは俺の目を、仮面越しに真っ直ぐに見据え、決定的な事実を突きつけてきた。


「最近、裏社会で腕利きの回復術師や、ポーション精製に関わる錬金術師が何人も姿を消してる。事故や失踪として処理されてるが、偶然にしては数が多すぎる。……もう分かるだろ? 連中の次のターゲットは、先日の記者会見で『EXTRA回復ポーションの製作者』として、その顔と名前が世界中に知れ渡った、ただの女子高生――桐生院理桜だ」


 その言葉が、俺の鼓膜を通り抜け、脳に達した瞬間、テーブルの下で俺の拳が、軋むほど固く握りしめられた。指の関節が白くなる。俺の身体から、自分でも気づかないうちに、殺気が漏れ出ていたのだろう。隣のキャットウォークが、そっと俺の腕に手を置いた。その柔らかな感触が、俺をかろうじて現実につなぎとめる。

 彼女を表舞台に立たせたのは、危険を分散させるための策だった。だが、それが結果として、最も厄介で、最も悪質な狂信者集団の目に留まることになってしまったのだ。皮肉にもほどがある。俺の選択が、彼女をより大きな危険に晒してしまった。その事実が、鉛のように重く胃の腑に沈んだ。




 リビングに、張り詰めた沈黙が落ちる。葉巻の煙だけが、間接照明の光を受けて、ゆらりと宙を舞っていた。誰もが、俺の次の言葉を待っている。

 だが、その静寂を破ったのは、俺ではなかった。それまで腕を組んで黙って話を聞いていた、カラスの面の男だった。


「仕事だ」


 レイヴンの声は、まるでネズミの話の続きであるかのように、自然に響いた。彼は、この状況すらも計算していたかのように、分厚いファイルをテーブルの上に滑らせた。


「ネズミの話は、この依頼の前菜としては上出来だったな」


 冷たい声には、何の感情も含まれていない。

 俺はファイルに手を伸ばし、ゆっくりと開いた。中には、数人の男女の顔写真と、詳細な経歴が記載されている。


「ターゲットは、立川ダンジョンを根城にする、誘拐専門のシーカーパーティー『グレイブディガー(墓荒らし)』。リーダーは元某国特殊部隊所属の男で、残忍な手口で知られている。そいつらはダンジョン内で目標を無力化した後、特殊な結界が施された大型のバックパックに詰め込んで運び出すという手口を使っている。今回の依頼は、そのパーティーの殲滅だ」


 情報と依頼が、目の前で完璧に、一つの線として繋がった。

 これは偶然などではない。必然だ。


 ネズミがレイヴンの言葉を補足するように口を挟む。


「そのバックパックってのが厄介でな。一度中に入れられたら、外部からの魔力探知は完全にシャットアウトされる。内部からの物理的破壊も、結界のせいでほぼ不可能。生きたまま棺桶に放り込まれるようなもんだ。連中はそうやって、何人もの『奇跡』を闇に葬ってきた」


 俺は静かに問い返した。声が、自分でも驚くほど冷えているのが分かった。


「依頼主は?」


「不明だ。だが、報酬は破格。前金だけで、お前が一年間遊んで暮らせるだけの額がすでに振り込まれている。裏に、相当な大物がいるのは間違いない。サンクチュアリのやり方を快く思わない連中だろうな」


 レイヴンの言葉で、俺は全てを確信する。

 この依頼は、サンクチュアリの動きを察知した、別の何者かによって仕組まれたものだ。俺という駒を使って、奴らの計画を妨害しようとしている。俺は、巨大な組織同士の暗闘の、最前線に立たされようとしている。




 依頼主の正体も、その真意も、今はどうでもいい。

 理由がどうであれ、この依頼は、サンクチュアリの手駒である誘拐犯を排除し、理桜に伸びる魔の手を直接叩き折る、絶好の機会だ。俺が断るという選択肢は、最初から存在しなかった。


「あらあら、これは即決するしかない状況ってわけね。守るべきお姫様が、悪い魔法使いに狙われてるんだもの」


 隣から聞こえてきたキャットウォークの声には、いつもの軽薄さは微塵もなかった。彼女もまた、事態の深刻さと、そして俺の覚悟を、正確に理解している。


 俺はファイルを閉じると、黙って席を立った。

 その瞳には、もはやクラスメイトたちに見せる、高校生・村雨黒桜の甘さは一片もなかった。あるのはただ、冷徹な暗殺者『黒狐』としての、凍てつくような覚悟だけだった。


「……その仕事、受ける」


 俺の短い返事には、理桜を、そして俺たちの日常を、あの狂信者たちの汚れた手から絶対に守り抜くという、鋼の決意が込められていた。

 その言葉を聞いて、レイヴンは満足げに頷き、ネズミは安堵したように息を吐き、キャットウォークはただ黙って、心配そうに俺を見つめていた。

 背中に突き刺さる三対の視線を感じながら、俺は部屋を後にする。闇へと続く階段を上りながら、強く思う。

 守るべき光があるからこそ、俺は何度でもこの闇に身を投じる。

 たとえ、その先に待つのが地獄だとしても。


 見えない巨大な敵との戦いの火蓋が、今、この豪奢な隠れ家で、静かに切って落とされた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ