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第30話 静かなる包囲網


 迷宮探索者協会・立川支部の十六階。カードキーと生体認証をクリアした先にある、俺たち『チェリーブロッサム』専用のパーティールーム。そのだだっ広い空間に足を踏み入れた、俺達の新たな拠点――。


 部屋はまだ、がらんとしていた。運び込まれたのは、部屋の規模に不釣り合いな革張りのソファとローテーブルだけ。生活感の欠片もない殺風景な空間が、壁一面の巨大な窓から見える立川のきらびやかな夜景を、まるで別世界の絵画のように際立たせていた。機能的ではあるが、まだ俺たちの匂いがしない、借り物の城だ。


「ねえ、クロ。敵のど真ん中に引っ越すなんて、正気? しかも家具これだけって……キャンプに来たんじゃないんだけど」


 ソファに寝転がり、スマホをいじっていた心桜が、天井に向かってぼやいた。その声が、やけに広く響く。


「普通さー、アジトってのはもっとこう、人目につかない場所に作るもんじゃないの?」


 俺は窓の外に広がる街を見下ろしながら、その問いに答える。俺のスキル、【EXTRA気配察知】が、ビルの内外に張り巡らされた無数の監視の目と、警備員たちの殺気を常にスキャンしている。


「間宮支部長が言った通りだ。『協会の外』の連中が最も手出ししにくい場所は、皮肉にも『協会の中』だ。協会に登録された探索者が、協会の建物内で襲撃される。そんなスキャンダルを、あの女狐が許すはずがない」


 ここは檻だ。だが同時に、今の俺たちにとっては最高の盾になる。その説明を聞いていた理桜が、凛とした表情で俺に向き直った。


「私が囮になることで、黒狐様のご計画が少しでも円滑に進むのでしたら、喜んでお引き受けいたします。私が『EXTRA回復ポーション』の生成者――世間がそう誤解している限り、全ての敵意はまず私に集中するはずです」


 その言葉に、俺は仮面の下で唇を噛んだ。彼女は分かっている。自分が危険な偽りの標的であることを。そして、その役割を自ら買って出てくれている。ポーションの真の生成者は、この俺だ。だが、その事実は俺たちの最大の切り札。敵が理桜という偽りのターゲットに集中している間に、俺たちは水面下で動くことができる。


 そんな理桜の覚悟を、軽やかな声が和らげた。


「心配すんなって理桜! 俺がっちりガードするからさ!」


 トレーニングウェア姿の蓮桜が、理桜の肩をポンと軽く叩き、ニカッと歯を見せて笑う。


「不審者はもれなく脳天に面打ち決めてやるよ!」


「ふふ、ありがとう、蓮桜。頼りにしているわ」


 蓮桜の屈託のない明るさが、部屋の緊張をわずかに溶かす。そうだ、俺たちは一人じゃない。この結束こそが、俺たちの最大の武器だった。




 翌日からの日常は、奇妙な二重構造をしていた。

 表向きは、いつもの学校生活。教室の窓から差し込む陽光、教師の退屈な授業、休み時間に飛び交うクラスメイトたちの他愛ない笑い声。全てが、昨日までと何も変わらない、偽りの平穏に満ていた。


 だが、その裏側で、俺の【EXTRA気配察知】は、常に複数の無機質な『視線』を感知していた。

 校門の向かいにある雑居ビルの屋上。軽薄な笑みを浮かべ、双眼鏡を構える男。

 校庭を見下ろすマンションの一室。カーテンの隙間から、望遠レンズの先端が鈍い光を放っている。

 学校周辺をゆっくりと周回する、黒塗りのセダンと、ありふれた宅配業者を装ったバン。その車内に潜む、複数の敵意ある気配。


 静かなる包囲網。それは、蜘蛛の巣のように、じわじわと、しかし確実に俺たちの日常に張り巡らされていた。


 理桜は、その無数の視線を自覚しながらも、普段通りに振る舞っていた。休み時間には友人たちと談笑し、授業では真剣な眼差しで黒板を見つめる。その背中には、恐怖に怯える少女の姿はない。自らが囮であるという覚悟を決めた者の、凛とした強さだけがあった。


 蓮桜もまた、プロフェッショナルだった。


「おーい、黒鉄ー! 次の体育、バスケだってよ! 3on3やろうぜ!」


「おう! 望むところだ!」


 バスケ部の連中たちと快活に笑い合いながらも、その視線は一瞬、校門の向かいに停車している不審なバンの窓に向けられていた。ほんの一瞬だけ宿った、猛禽類のような鋭い眼光。その変化に気づくのは、おそらく俺だけだろう。彼は、理桜の完璧な護衛であると同時に、周囲の生徒たちに違和感を与えないための、最高のカモフラージュでもあった。


 俺、村雨黒桜としては、彼ら二人から少し離れた席で、静かに本を読んでいるだけだ。だが、その意識は常に全方位に展開されている。敵の視線、距離、人数、そして殺意の強弱。全ての情報をリアルタイムで脳内にマッピングし、万が一の際のシミュレーションを、脳内で幾度となく繰り返していた。




 放課後、俺たちは人混みに紛れて学校を抜け出し、最短ルートで協会ビルへと戻った。がらんとしたパーティールームで、それぞれがソファや床に思い思いの格好で座り、持ち寄ったタブレットを広げる。


「クロ、やっぱり来たよ。ネットの方」


 心桜が、自分のタブレットの画面を俺に向けながら言った。


「ハッキングとか、そういう派手なもんじゃないけど、もっと陰湿なやつ。理桜ちゃんのSNSとか、何年も前に書いてたブログとか、徹底的に洗われてる。友達の友達のアカウントまで辿って、交友関係を洗い出そうとしてるみたい。気持ち悪いネットストーカーみたいだね」


 画面には、理桜の過去の投稿や、友人たちがタグ付けした写真などがリストアップされている。どれも公開情報だが、それらを丹念に繋ぎ合わせれば、個人のプロファイルが浮かび上がってくる。


 俺は頷く。


「デジタルの方の防壁は、俺の『協力者』に任せてある。だが、一度ネットの海に放たれた情報は、完全には消せない」


「その『協力者』さんから、さっき定時連絡が来てるよ」


 心桜は指先でスワイプし、暗号化されたチャットアプリの画面を見せる。


「『複数の組織から、桐生院理桜及び関係者の個人情報に対するブルートフォースアタック及びフィッシングの試みが確認された。全てブロック済み。ただし、公開情報からのプロファイリングは進行中と見られる』だってさ」


 心桜は感心したように息を吐く。


「……ねえ、クロの『協力者』って何者? これだけの攻撃を全部弾くなんて、国家レベルのセキュリティ担当か、伝説級のハッカーでも雇ってるの?」


「……さあな」


 俺は短く答えるに留めた。俺の背後関係は、まだこのチームにさえ明かす時ではない。心桜は俺の謎めいた人脈を探る情報分析・連絡役として、今や欠かせない存在だった。




 俺たちはローテーブルを囲み、緊急の対策会議を開いた。タブレットには、俺が察知した物理的な監視ポイントと、心桜がまとめたネット上の調査状況がマッピングされている。


「物理的な監視は、少なくとも三つのグループが確認されている。デジタルからの侵攻も、複数の発信源からだ。連中はまだ、俺たちの正体も、ポーションの生成方法も掴めていない。だから、手始めに一番弱いと踏んだ『女子高生』の理桜を攫い、全てを吐かせようとしている。それが最も手っ取り早いと判断したんだろう」


 俺の冷静な分析に、蓮桜が拳を握りしめる。


「クソ……。理桜をナメやがって」


 その時、理桜がまっすぐに俺の仮面を見つめ、静かに、しかしはっきりとした口調で言った。


「黒狐様。私は大丈夫です」


 その瞳には、恐怖も迷いもなかった。あるのは、俺に対する絶対的な信頼だけだ。


「黒狐様がいらっしゃる限り、蓮桜と心桜がいてくれる限り、私は絶対に安全だと信じています。ですから……どうか、私を最大限に利用してください。この状況は、敵を炙り出す絶好の機会でもあるはずです」


 彼女は、自ら危険な囮役を続けることを、改めて志願してくれた。その覚悟と、俺への揺るぎない信頼……。俺は、それに応えなければならない。何があっても、この少女だけは守り抜く。それが、リーダーである俺の、絶対的な責務だ。

 俺は、深く頷いた。


「……わかった。だが、決して無茶はするな。お前の身に何かあれば、作戦そのものが失敗だ」


「はい。肝に銘じます」


 理桜は、どこか嬉しそうに微笑んだ。




 その夜、俺は一人、ソファに深く身を沈め、タブレットから監視カメラの映像をチェックしていた。これも、俺の『協力者』が協会のシステムに割り込んで送ってきている、極秘のデータだ。理桜たちは、それぞれの個室で休息を取っている。静寂が支配する部屋に、空調の低い唸りだけが響いていた。


 その時だった。

 ブブッ、と短いバイブ音が、俺の私用端末から鳴った。『協力者』が構築した何重ものデジタル防壁を、完全に潜り抜けて届いた、暗号化されたメッセージ。敵の中に、相当な技術を持つ者がいることを示していた。


 俺は眉をひそめ、メッセージを開く。

 添付されていたファイルを開くと、そこには、今日の昼休みに撮影されたであろう、一枚の写真が収められていた。

 学校の屋上。友人たちと弁当を広げ、屈託のない、無邪気な笑顔で笑い合っている理桜の姿。それは、超望遠レンズで撮影された、恐ろしく高解像度の写真だった。彼女の髪の一本一本、その瞳に宿る光までが、鮮明に写し出されている。


 そして、本文には一言だけ、こう記されていた。


「『奇跡』を生み出す聖女様は、我々が丁重にお迎えします。賢明なご判断を」


 静かなる宣戦布告。

 敵が、理桜を完全にターゲットとして誤認していることを再確認すると同時に、腹の底から、冷たい炎のような怒りが湧き上がってくるのを感じた。


(俺を信じて危険に身を晒す覚悟を決めた少女を、弄ぶように監視し、脅しの道具に使うだと……?)


 許さない。

 お前たちは、決して触れてはならないものに、その汚れた手を伸ばしたんだ。


 俺は静かにスマホを握りしめる。その指先は、怒りでかすかに震えていた。

 俺は『協力者』とのチャットアプリを開き、短いメッセージを送る。


> [黒狐]:敵の尻尾を掴んだ。このメッセージの発信源を特定しろ。こちらからも動く。準備しておけ。


 送信ボタンを押した瞬間、窓の外に広がる巨大な都市の灯りが、まるでこれから始まる狩りを祝福するかのように、不気味に瞬いた気がした。

 静かなる反撃の狼煙が、今、上がった。



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