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第29話 女狐の微笑み


 慣性から解放された身体が、ふわりと地面に吸い寄せられる。コンクリートの硬い感触が、スニーカーのソールを通して足裏に伝わった。俺のスキル【現実逃避】による――空中飛行――からの着地は、いつも静かだ。


 迷宮探索者協会・立川支部の巨大なビルの裏手。ゴミ収集用のコンテナが並び、近隣の飲食店の排気ダクトが油の匂いを漂わせる、人目につかないアスファルトの路地。夕焼けの名残がビルの隙間から差し込み、俺たちの影を長く引き伸ばしていた。


「……着いたぞ」


 短く告げると、背後で蓮桜と心桜が音もなく着地する。慣れたものだ。問題は、もう一人。


「く、黒狐様……! まさか、あの喧騒の校舎から、協会まで一足飛びとは……! なんという御力……!」


 腕の中に抱えていた理桜が、まだ夢見心地といった表情で、紅潮した頬のまま俺を見上げていた。その瞳には、恐怖よりも純粋な興奮と、俺に対する絶対的な崇拝の色が浮かんでいる。そろそろ降ろしたいのだが、彼女が俺のコートをぎゅっと掴んで離さない。


「理桜、もう大丈夫だ」


「は、はい! 申し訳ありません!」


 我に返ったように慌てて俺の腕から離れる理桜。その足元が少しふらついたのを、心桜がすかさず支えた。


「もー、理桜ちゃん、しっかりして! これからが本番なんだから!」


「ごめん、心桜……。少し、舞い上がってしまって……」


 俺は漆黒の狐面に手をやり、その位置を微調整する。非日常的な空中散歩から、冷徹な交渉の場へ。意識のギアを、強制的に切り替える必要があった。


「仕事だ。全員、気を引き締めろ」


 俺の言葉に、三人の表情が引き締まる。そうだ、これが今の俺たちの戦場だ。




 通されたのは、協会の最上階。支部長室に隣接する、賓客用の応接室だった。

 床には、足音を吸い込むような深紅の絨毯。磨き上げられたマホガニーの重厚なローテーブルを挟み、身体が沈み込むほどに柔らかい本革張りのソファが対面に置かれている。壁一面の防弾ガラスの向こうには、立川の街並みが夕暮れの光に染まり、宝石箱のように煌めいていた。部屋全体が、革の匂いと、微かなアロマの香り、そして空調の低い唸りで満たされている。ここは、力を手にした者たちが、世界のルールを静かに書き換えるための場所だ。


「お待ちしておりましたわ、『チェリーブロッサム』の皆様。そして……リーダーの『黒狐』さん」


 声の主は、窓を背にして立つ一人の女性だった。


 間宮栞。迷宮探索者協会、立川支部長。


 年齢は三十代前半だろうか。寸分の隙もなく着こなしたダークスーツは、彼女のしなやかな肢体を強調し、緩やかにウェーブのかかった黒髪が、その知的な美貌を際立たせている。その唇には常に優雅な笑みが浮かんでいるが、切れ長の瞳だけは、一切笑っていなかった。まるで、獲物の価値を冷静に見定める肉食獣のような、冷たい光を宿していた。


 俺は名乗らず、無言で頷き、促されるままにソファへと深く腰掛ける。理桜が緊張した面持ちで俺の隣に座り、その背筋はピンと伸びていた。蓮桜と心桜は、俺たちの背後に音もなく控え、部屋の隅々まで警戒を怠らない。


 間宮栞は、俺たちの正面に優雅な仕草で腰を下ろした。秘書が運んできたコーヒーの湯気が、テーブルの上で静かに立ち上る。


「まずは、先日の記者会見、拝見いたしました。実に素晴らしい対応でしたわ。おかげで、協会への問い合わせも鳴り止まなくて、嬉しい悲鳴を上げておりますの」


 世間話のような口調だが、その目は俺たち一人一人の反応を探るように動いている。


「本日は、その『嬉しい悲鳴』の正体を、皆様にお見せしたくてお呼びいたしましたのよ」


 そう言うと、彼女はテーブルに置かれていたタブレットを、指先で滑らかにスライドさせた。俺たちの前に向けられた画面が、まばゆい光を放つ。


 そこに映し出されていたのは、殺到する依頼のリストだった。

 差出人の欄には、国内外の大手製薬会社、有名大学病院、果ては中東の王族や欧州の貴族の名前まで並んでいる。そして、その横に提示された報酬額は、俺たちの常識を麻痺させるのに十分すぎるものだった。


「うわっ……! 支部長、これ、ゼロの数、間違ってません? いくつあるのよ、これ……」


 俺の背後から、心桜が思わずといった体で声を漏らした。彼女が操作するタブレットにも、同じデータが転送されているのだろう。


「全部受けたら、小国くらい買えちゃいそう……どころじゃないよ、これ……」


 間宮栞は、心桜の反応に満足したように、くすりと笑みを深める。


「ええ。今や皆さんのポーションは、ただの薬品ではありませんわ。人の命の値段を決め、時には国家間のパワーバランスさえも揺るがしかねない、国際的な『戦略物資』になりつつありますのよ」


 彼女の言葉は、この甘美な依頼リストが、同時にどれほど危険なものであるかを暗に示していた。


 その時だった。

 間宮栞の視線が、真っ直ぐに俺の仮面に突き刺さった。優雅な笑みはそのままに、彼女の瞳が、一瞬だけ深い翠色の輝きを放った。空気が、コンマ数秒だけ凍りつく。

 ――来たな。


 元上級探索者、間宮栞。彼女の固有スキルは【HIGH鑑定】である事は有名だ。対象のステータス、スキル、装備、果ては隠された真名さえも見抜くとされる、最上級の情報収集スキルだ。この交渉の場で、俺という正体不明のリーダーの情報を抜き取り、主導権を握ろうとするのは当然の手順だろう。


 だが、俺は動じない。内心で、静かに呟く。


(残念だが、この【鑑定阻害の狐面】は、ただの飾りじゃない)


 ダンジョンの宝箱から手に入れた、アーティファクト。その効果は、あらゆる情報干渉系スキルからの完全な防護。いわば、俺という存在を世界から隠すための、絶対的な盾だ。


 俺の予想通り、間宮栞の完璧な笑顔が、ほんのわずかに、しかし明確に凍りついた。その細められた眉が、微かにひそめられる。俺はその変化を見逃さなかった。おそらく、彼女の視界には今、『ERROR: 対象の情報取得に失敗しました』あるいは『SYSTEM: 鑑定がブロックされました』といった無機質なメッセージが表示されているはずだ。


 彼女は、俺の顔(仮面だが)から視線を外し、カップに口をつけた。その一連の動作で、完璧に動揺を隠してみせる。さすがは百戦錬磨の支部長だ。だが、俺は確信した。この交渉のテーブルで、俺は初めて彼女の意表を突くことに成功したのだと。


 俺は、沈黙を破って静かに口を開いた。


「お話は、それだけでございますか、支部長」


 あえて、丁寧すぎるほどの言葉を選ぶ。それは、相手の土俵には乗らないという、明確な意思表示だ。


「残念ですが、これらの依頼は全てお断りさせていただきます」


 その言葉に、理桜は驚くことなく、ただ深く頷いた。心桜と蓮桜も、当然といった表情で控えている。俺たちの意志は、ここに来る前から一つだった。


 間宮栞は、驚いたふうを装って小首を傾げた。


「あら……それはまた、思い切ったご決断ですこと。理由をお聞かせ願えます? これだけの富と名声を、なぜお捨てになるのかしら」


「我々の理念は『管理された奇跡』。無秩序な拡散は、ポーションの品質と安全性を著しく損ない、結果として多くの悲劇を生むことになります」


 俺は淡々と続ける。


「我々のパートナーは、その理念を共有し、厳格な倫理観をもって運用できる立川総合病院のみ。この方針に、変更の余地はありません」


 俺の言葉を引き継ぐように、理桜が凛とした声で続けた。


「EXTRA回復ポーションは、諸刃の剣です。その強力すぎる再生能力は、誤った使い方をすれば、人体に深刻な副作用をもたらす危険性もございます。その力を正しく扱える倫理観なき場所に、お渡しすることはできません」


 俺たちの明確な拒絶に、間宮栞はしばらくの間、ただ黙ってコーヒーカップを見つめていた。やがて、彼女はふっと息を吐き、再びあの完璧な笑みを顔に貼り付けた。鑑定失敗の動揺は、もはや一片も見られない。


「……わかりましたわ。皆さんのご意思、協会としては尊重いたします」


 彼女はゆっくりと立ち上がり、窓辺へと歩み寄る。立川の街の夜景を背に、そのシルエットが浮かび上がった。


「ただし……一つだけ、忠告させていただけますかしら」


 その声は、先ほどよりも一段低く、冷たい響きを帯びていた。


「これだけの価値を持つものを、協会という『ルール』の内側で管理されることを拒むのであれば……協会という『ルール』の外にいる者たちが、あなた方を放っておくかしら? 私たちの手が届かないところで、皆さんに災いが降りかからないと、いいのですけれど」


 それは、忠告の皮を被った、明確な脅しだった。協会という庇護を失えば、お前たちはハイエナの群れに食い荒らされるぞ、と。


 その言葉に、俺の背後で沈黙を守っていた蓮桜が、初めて低い声で口を開いた。


「……脅しか?」


 間宮栞は、ゆっくりとこちらに振り返る。その顔には、やはりあの優雅な笑みが浮かんでいた。


「いいえ、忠告ですわ。……今のところは、ね」




 重厚な応接室の扉が、音もなく背後で閉まる。俺たちは無言のまま、大理石の廊下を歩き、エレベーターホールへと向かった。下り専用のエレベーターに乗り込むと、密室になった空間で、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。


「あの女狐! 絶対、クロの正体を探ろうとしてたよね! 笑顔の裏で、目がギラギラしてたもん! マジむかつくー!」


 最初に口火を切ったのは、心桜だった。彼女は壁に背を預け、心底うんざりしたという顔で天井を仰いだ。


「ああ。だが、あの【HIGH鑑定】でも、この仮面は抜けなかったようだ」


「やっぱり! あの女、一瞬だけ固まってたもんね。ざまーみろってんだ!」


 心桜は快哉を叫ぶが、俺の内心は晴れない。


 ふと、隣に立つ理桜の視線に気づく。彼女は、俺の横顔(仮面だが)を、熱のこもった瞳でうっとりと見つめていた。


「黒狐様……あの方を相手に、一歩も引かずに……。我々の理念を、堂々と……。本当に、素敵でした……!」


 その声は、ほとんど吐息に近かった。


 俺は理桜の熱い視線から逃れるように、エレベーターの階数表示に目を向けながら、内心で呟く。


(鑑定無効化は想定通り。だが、あの女の最後の言葉……『協会の外』か)


 大手製薬会社、海外の王族、そして、それらの依頼の裏に蠢く、もっと得体の知れない組織。協会という盾を自ら手放した俺たちに、これから牙を剥いてくるであろう、無数の敵。

 面倒なことになりそうだ。いや、面倒なことしか、もう残っていないのかもしれない。


 静かに下降していくエレベーターの中で、俺はこれから始まるであろう、本当の戦いの予感に、静かに身を固くしていた。


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