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第21話 EXTRA回復ポーション


 ダンジョン特有の湿った空気から、空調の効いたJDS立川支部のロビーへと戻ると、俺は現実世界に引き戻されたような感覚に陥った。隣を歩く桐生院さんは、俺が羽織らせた漆黒のコートをぎゅっと握りしめ、まだ少し青白い顔で俯いている。無理もない。つい先ほどまで、彼女は命の危機に晒され、その元凶となった男たちが目の前で命を落としたのだから。


「……ここで、いい。後は一人で帰れるわ」


 人通りの多いロビーの中央で、桐生院さんがぽつりと言った。俺はフードを目深に被ったまま、静かに頷く。


「あの……本当に、ありがとうございました。あなたがいなければ、私は……」


「気にするな」


 俺は声色を変え、短く答える。これ以上、彼女と関わるのは危険だ。俺の正体がバレるわけにはいかない。


「ポーションは……」


「必ず届ける。妹さんが入院している病院は?」


「立川総合病院です。最上階の特別病棟……でも、どうやって……」


「方法は、ある。必ず、今夜中に」


 俺の確信に満ちた言葉に、桐生院さんは何かを言いかけたが、やがて小さく頷いた。その瞳には、まだ拭いきれない不安と、それでも縋るしかない一縷の望みが揺らめいていた。


 俺は彼女に背を向け、雑踏の中へと紛れ込もうとした。その時、ダンジョンの奥から戻ってきたキャットウォークが、音もなく俺の隣に現れる。


「死体の処理は終わったわ。害魔獣のいい餌になったでしょう」


 淡々と告げる彼女に、俺は頷きを返す。桐生院さんは、突然現れたキャットウォークに驚き、少し身を引いた。


「黒狐、お嬢さんを送り届けたら、すぐにアジトに戻りなさい。レイヴンが待ってるわ」


「……わかった」


 キャットウォークはそれだけ言うと、まるで影が揺らめくように、再び人混みの中へと消えていった。


 桐生院さんと別れ、一人になった瞬間。

 張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。

 ずしり、と。自分の両手に、今まで感じたことのない重みがのしかかる。三つの命を奪った、この手のひらに。


 あの感触が、脳裏に焼き付いて離れない。

 非現実的な力で、鎧を透過し、生きた人間の心臓を掴み、握り潰した、あの感触。


 ドクン、ドクンと脈打っていた鼓動が、俺の手の中でぐにゃりと歪み、永遠に停止した、あの瞬間。


 ――うっ……!


 胃の奥から、強烈な吐き気がせり上がってきた。

 俺はロビーの喧騒から逃げるように、トイレへと駆け込んだ。個室のドアに鍵をかけるのももどかしく、便器に顔を突っ込む。


「おえぇぇ……! げほっ、ごほっ……!」


 胃液が、食道を焼く。涙と鼻水で、顔がぐちゃぐちゃになった。

 人を殺した。

 この手で、三人も。

 どんなクズだろうと、相手は人間だった。その事実が、今更ながらに現実の重みとなって、俺の全身を打ちのめす。


 助けたかった。桐生院さんを守りたかった。その一心だった。


 だが、そのために俺が選んだ手段は、紛れもない『殺人』だ。俺は、もうただの高校生ではいられない。引き返せない一線を、越えてしまったのだ。


 しばらくの間、俺は冷たいタイルの上で、虚ろな心を抱えたまま、動くことができなかった。




 どれくらい時間が経っただろうか。ようやく吐き気が収まった俺は、フラつく足で裏ギルドのアジトへと向かった。


 重厚なエレベーターの扉が開くと、そこはいつものように薄暗く、葉巻の煙が紫に揺蕩うリビングだった。ソファには、レイヴンが深々と腰掛け、俺の帰りを待っていた。


「……戻ったか、黒狐」


 レイヴンは俺の狐面の顔を見るなり、その鋭い目がわずかに細められた。


「初仕事で、現実の重みに打ちのめされたか」


「……」


 俺は何も答えられない。レイヴンは、そんな俺の様子を気にも留めず、テーブルに置かれた一枚のカードを指さした。それは、俺の探索者免許証だった。


「最終試験、合格ご苦労だった。今日からお前は、我々『裏ギルド』の正式な一員だ」


 その言葉とともに、免許証を手にするよう促される。


「免許証を確認してみろ」


 言われるがままに免許証を手に取ると、その表示に俺は息を呑んだ。


 【村雨 黒桜】

 ランク:中級

 ジョブ:暗殺者アサシン


 ランクが『初級』から『中級』に上がり、そしてジョブ欄が、確かに書き換わっている。JDSが管理する、国家発行の身分証。それを、裏の組織がこうも容易く改竄できるというのか。


「驚いたか? 我々には、JDSの中枢に深く食い込んでいる協力者がいる。この程度の情報操作は、造作もないことだ」


 裏ギルド。その底知れない力の一端を垣間見て、俺は改めて、自分が足を踏み入れた世界の深さを思い知った。


「お前の初仕事の報酬300万円チャージ済みだ」


 裏ギルドも現金ではなく、直接免許証にチャージされるシステムらしい。合理的だが、どこか生々しさがなく、まるでゲームのスコアのようだ。


「……」


 300万円。大金だ。だが、今の俺には、その数字がただの汚れたデータにしか見えなかった。


「……黒狐、一つ覚えておけ。我々の仕事は、掃除だ。法では裁けぬ、この世のゴミを、人知れず片付ける。お前が殺したのは、人間ではない。社会に巣食う害魔獣だ。ゴブリンと変わらん。そこに、罪悪感を抱く必要などない」


 レイヴンの言葉は、冷たく、だが不思議な説得力を持っていた。それは、幾多の修羅場を潜り抜けてきた男の、揺るぎない哲学なのだろう。


「……失礼します」


 俺は一礼し、アジトを後にした。罪悪感は、まだ消えない。だが、俺にはやらなければならないことがあった。




 自宅に戻り、自室のドアを開ける。見慣れた自分の部屋のはずなのに、どこか違う世界の出来事のように感じられた。

 俺は、クローゼ-ットの奥深く、服の山の下に隠していた箱を取り出した。中に入っているのは、淡い金色の光を放つ小瓶。


 【EXTRA回復ポーション】。


 これは、ダンジョンで手に入れた、いくつもの平凡な【回復ポーション】。それを、俺は、スキル【現実逃避】を使って一つに『合成』したのだ。


 スキルを発動し、現実の物理法則から切り離された空間で、複数のポーションを混ぜ合わせ、その存在の本質を練り上げていく。それはまるで、無から有を生み出す錬金術に近い作業だった。そして必然の産物として生まれたのが、この奇跡の霊薬だった。


 これさえあれば、桐生院さんの妹は助かる。


 俺の犯した罪が、これで贖われるわけではない。だが、このポーションを届けることが、今の俺にできる唯一のことだった。


 俺は黒狐の装備――黒いコートと狐の面を身に着けると、誰にも見つからないよう、夜の闇に紛れて家を抜け出した。


 病院まで走るつもりだったが、一刻も早く届けたいという焦りが、俺に新たなスキルの使い方を閃かせた。


(――【現実逃避】)


 俺の身体が、世界から切り離された幻影と化す。重力からも、空気抵抗からも、あらゆる物理法則から解放された俺は、地面を蹴った。

 それは、跳躍ではなかった。


 飛翔だった。


 夜の住宅街の上を、まるで鳥のように、いや、鳥よりも自由に滑空していく。眼下を流れていく街の灯りが、非現実的な光景を彩っていた。

 すぐに、立川総合病院の大きな建物が見えてくる。俺は【EXTRA気配察知】を使い、院内から桐生院さんの気配を探った。


 あった。最上階の、角部屋。


 俺は高度を上げ、目標の病室の窓へと一直線に向かう。そして、鍵のかかった窓ガラスを、音もなく、すり抜けた。




 清潔な個室の中央には、様々な医療機器に繋がれたベッドがあり、そこに小学生くらいの女の子が、人形のように目を閉じて眠っていた。その顔色は青白く、呼吸も浅い。桐生院さんの妹、萌音もねちゃんだ。


 ベッドの傍らの椅子には、桐生院さんが座り、その隣には、医者であろう白衣を着た男性が、心配そうに彼女の肩に手を置いていた。

 俺は、部屋の隅の闇の中で、静かに現実逃避を解除した。


「――約束のものを、届けに来た」


 俺の声に、二人が弾かれたように振り返る。

 音もなく、気配もなく、突如として現れた黒いコートと狐面の男。その異様な姿に、医者の男性が即座に桐生院さんを庇うように立ち塞がった。


「き、君は一体何者だ! どうやってここに……!」


「お父さん、待って! この方は……」


 桐生院さんが、男性――彼女の養父を制する。


「この方が、ダンジョンで私を助けてくれた、命の恩人です」


「命の恩人……?」


 養父は、訝しげな目を俺に向けた。

 命の恩人、か。その言葉が、少し照れ臭く、そして同時に胸に突き刺さる。人を殺したこの俺が、命の恩人とは、随分と皮肉なものだ。


 俺は感傷を振り払うように、懐から【EXTRA回復ポーション】を取り出した。

 小瓶が放つ神々しいまでの金色の光に、桐生院さんと養父が息を呑む。


「これを」


 俺が差し出すと、桐生院さんは、震える手でそれを受け取った。


「……本当に……これが……」


「理桜、それは一体……」


「お父さん、これを、これを早く萌音に!」


 桐生院さんの切羽詰まった声に、養父は一瞬躊躇したが、やがて覚悟を決めたように頷いた。彼は医者として、非科学的なものを信じることはできないのだろうか。だが、娘の必死な願いと、目の前の小瓶が放つ尋常ならざるオーラに、賭けてみる気になったようだ。


 養父は、萌音さんの点滴の管に、注射器でゆっくりとポーションを注入していく。

 金色の液体が、透明なチューブの中を流れ、萌音さんの小さな身体へと入っていく。


 部屋に、緊張した沈黙が流れる。

 そして、効果は、すぐに現れた。


 それまで死んだように青白かった萌音さんの頬に、ふわりと、血の気が差した。


 ぴく、と、か細い指先が動く。


 そして2年もの間、固く閉じられていた瞼が、ゆっくりと、持ち上がった。


「……ん……」


 くぐもった声が、静かな病室に響く。

 虚ろだった瞳に、徐々に焦点が合っていく。そして、ベッドの傍らで涙を浮かべて自分を見つめる、姉の姿を捉えた。


「……お、ねぇ……ちゃん?」


 その、か細く、しかし確かな一言を聞いた瞬間。

 桐生院さんの心のダムが、決壊した。


「も、もね……! 萌音っ……!」


 彼女は、妹の小さな身体に覆いかぶさるようにして、声を上げて泣きじゃくった。それはもう、学校で見せる孤高の姿など微塵もない、ただ妹の生還を喜ぶ、一人の少女の姿だった。

 その光景を、俺は部屋の隅から、ただ静かに見つめていた。


 ああ、よかった。


 心から、そう思った。

 俺が犯した罪は消えない。この手についた血の感触も、忘れることはないだろう。

 だが、この光景は、俺が人を殺してまで、守りたかったものだ。


 これで、よかったのだ。


 俺の心に巣食っていた罪悪感が、姉妹の涙によって、少しだけ洗い流されていくような気がした。俺は、救われたのだ。


 俺は、もうここにいる必要はない。

 静かに【現実逃避】を使い、誰にも気づかれることなく、その場から姿を消した。




 次の日。

 学校の教室は、いつもと変わらない日常の空気に満ちていた。

 俺は、昨夜の出来事がまるで夢だったかのように感じながら、自分の席に座ろうとした。


 教室の隅では、桐生院さんが、いつものように一人で静かに本を読んでいる。その姿は昨日までと何も変わらない。だが、彼女の周りを包む空気は、どこか氷が解けたように、柔らかくなっている気がした。

 俺がそんなことを考えていると、不意に、彼女が本から顔を上げた。


 そして、俺と、目が合った。


 俺は咄嗟に目を逸らそうとしたが、できなかった。

 彼女は、静かに立ち上がると、まっすぐに、俺の席へと歩いてきた。

 クラス中の視線が、彼女と俺に集まる。あの、孤高の桐生院理桜が、村雨黒桜に、何の用だ? 全員がそう思っているだろう。


 そして、俺の目の前で立ち止まった彼女は――


 これまで見たこともないような、太陽のような、満開の花のような、最高の笑顔で、俺に言った。


「おはよう! 村雨くん!」


 その声は、鈴が鳴るように明るく、澄んでいた。

 彼女にどんな心境の変化があったのか、俺には分からない。俺の正体に気づいているのか、いないのかも。

 ただ、一つだけ確かなことがある。


 ――ああ、本当に、助けられてよかった。


 俺は、少しだけ頬を赤らめながら、ぎこちなく、彼女に挨拶を返した。


「……お、おはよう、桐生院さん」


 俺たちの、新しい日常が、静かに始まった瞬間だった。


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