第17話 桐生院理桜
私の名前は、桐生院理桜。
本来の姓を捨て、この名前を名乗るようになってから、もう二年という月日が流れた。
私が、多くの若者が夢や憧れを抱いて門を叩くダンジョンシーカーという危険な職業に身を投じた理由は、ただ一つだけ。
――たった一人の妹、萌音を、あの永い眠りから救い出すため。
二年前の、すべてを洗い流すかのような、激しい雨が降る日だった。
その日、私は塾の補講で、いつもより数時間、家に帰るのが遅くなった。もし、私がいつも通りに帰宅していれば。もし、あの車に私も乗っていたなら。そんな詮無い仮定が、今でも悪夢となって私を苛む。
家族が乗った車は、交差点で信号無視の大型トラックに側面から突っ込まれた。運転席の父と、後部座席の母は、即死だったと後から聞かされた。
そして、後部座席で母が咄嗟に庇うように抱きしめていた妹の萌音は、奇跡的に一命をとりとめた。けれど、彼女の魂はどこか遠い世界へ行ってしまったかのように、二度と目を覚ますことはなかった。
植物状態――医師から告げられたその無機質な宣告が、私の世界から光と色彩のすべてを奪い去った。
たった数時間で天涯孤独の身となった私を引き取ってくれたのは、母方の叔父だった。彼は優秀な医者であり、私を実の娘のように思い、自身の籍に入れてくれた。
そうして、私は「桐生院理桜」という、新しい名前を得た。
養父となった叔父は、自身の経営する病院の特別室に萌音を移し、考えうる最高の医療設備で彼女の命を繋ぎとめてくれた。そして、諦めることなく、萌音を救うためのあらゆる可能性を世界中から探してくれた。
その中で見つけ出した、蜘蛛の糸のように細く、儚い一条の光。それが、ダンジョンから稀に発見されるという奇跡の霊薬、【EXTRA回復ポーション】の存在だった。
あらゆる傷や病を癒し、失われたものさえ取り戻すと言われる伝説のポーション。それならば、萌音の閉ざされた意識の扉も、再び開くことができるかもしれない。
叔父は私財を惜しげもなく投じ、市場に出回る【回復ポーション】や、より高価で希少な【HIGH回復ポーション】を買い集め、萌音に投与し続けてくれた。けれど、萌音の白い頬に血の気が差すことはなく、その瞼が再び開かれることはなかった。
残された希望は、【EXTRA回復ポーション】だけ。
しかし、そのポーションは、富豪たちが競り合うのオークションにすら出品されることが滅多にない、まさに幻のアイテムだった。ただ待っているだけでは、手に入らない。萌音の命の灯火が、音もなく消えてしまう前に、見つけなければ。
――ならば、私が。この私の手で、探し出すしかない。
そう決意した私に、叔父は静かに反対した。だが、私の瞳に宿る光が、決して揺らぐことのない覚悟の色をしていることを悟ると、深くため息をつき、書斎の金庫から一つの箱を取り出してきた。
ビロードの布に包まれていたのは、淡い魔力の光を放つスキルクリスタルだった。
「これを持って行きなさい。理桜、お前まで失うわけにはいかないから」
それは【魔弾】。市場に出れば、小さな家が一つ買えるほどの価値を持つ、非常に高価で強力な攻撃スキル。私の覚悟は、養父にこれほどのものを差し出させるほどの、悲壮なものに見えたらしかった。
迷宮探索者資格試験の日。私は、養父が用意してくれた戦闘服に身を包み、会場の空気に気圧されないよう、固く唇を結んでいた。
私のスキル【魔弾】は、自身の魔力を原料に、銃弾を生成する能力。そして、その弾丸を撃ち出せば、レーザー光線のような凄まじい破壊力を発揮する。これさえあれば、試験など容易いはずだった。
試験は二人一組のパーティ形式で行われる。私がペアを組むことになったのは、私と同じくらいの歳の、どこかぼんやりとした雰囲気の男の子だった。
村雨、と言ったか。彼は、私が挨拶をしても気の抜けた返事をするだけで、緊張感というものがまるでないように見えた。
「――始め!」
合図と共に、私たちはダンジョンへと足を踏み入れた。
すぐに、一体のゴブリンが草むらの中から飛び出してくる。
「えっと… レディーファースト?」
私が銃を構えるより早く、村雨くんが弱々しく言う。
二体目のゴブリン。村雨くんは雄叫びを上げて飛び出していった。その動きは、まるで猪。あまりにも無策で、直線的。案の定、彼はゴブリンの目の前で盛大に転んだ。
「なっ……!?」
私が驚いたのは、彼の次の行動だった。
彼は突如、その場で全ての装備と服を脱ぎ捨て、全裸になり、ダンジョンの床に大の字で倒れ込んだのだ。
「な、な、な、何をしているの!?」
私の悲鳴に近い問いかけに、彼は答えない。ただ、無防備に倒れているだけ。
羞恥心よりも怒りが勝り、初心者講習会の後に、つい声を荒らげてしまった。
「あなた、馬鹿なの!? ダンジョンで全裸になって寝るなんて、自殺行為よ! スキルを使うなら、もっと状況を考えなさい! それに、敵の攻撃は避けるか、防具で受けるのが基本でしょう!?」
言ってしまってから、はっとした。私らしくない。他人に、ましてや初対面の相手に、こんなお節介を焼くなんて。
彼は少し気まずそうに、しかし真剣な目で私を見た。
「……悪かった。その通りだ、ありがとう」
素直な感謝の言葉に、私は何も言い返せなくなり、顔を背けるしかなかった。
試験は私の【魔弾】の圧倒的な火力で、何の問題もなく合格することができた。
春。
私は、地元の進学校の門をくぐった。入試でトップの成績を収めた私は、新入生代表として挨拶の大役を任されることになった。壇上から見渡す、多くの新入生たち。その中に、見知った顔を見つけた気がした。
入学式が終わり、担任の先生と自分の教室へ向かう。扉を開けると、そこにいた。
――村雨くん。
彼も、この学校の生徒だったのだ。彼がこちらに気づき、何か言いたげな顔をした瞬間、私の脳裏に、試験の時の彼の裸体がフラッシュバックした。
カーッと、顔に熱が集まるのが分かった。私は咄嗟に彼から視線を逸らし、聞こえないふりをして自分の席に着いた。最悪の再会だった。
それから、私は教室で、無意識に彼を目で追うようになっていた。
彼は、いつも二人の幼馴染らしき男女と楽しそうに話していた。屈託なく笑い、時にはふざけ合う。その光景は、あまりにも眩しくて、私の胸をチクリと刺した。
私とは、違う。
彼は、暖かい陽だまりの中にいる。一方の私は、萌音を救うという使命だけを胸に、薄暗いダンジョンに潜る日々。彼らと私が、同じ世界にいるはずがなかった。
私のダンジョンシーカー活動は、順調とは言えなかった。
ソロで活動するには、私のスキルは燃費が悪すぎた。パーティを組もうにも、心を許せる相手などいない。
そんな時、一つの転機が訪れる。私の【魔弾】の噂を聞きつけた、自衛隊の探索者パーティから協力依頼が舞い込んだのだ。
彼らは、より深層を目指すための火力を求めていた。そして、私が提示した条件――【EXTRA回復ポーション】を発見した場合の所有権――を、彼らは快く飲んでくれた。
ようやく、希望の光が見えた。これで、萌音を救えるかもしれない。
だが、その希望は、あまりにもあっけなく打ち砕かれた。
彼らのパーティは、立川ダンジョンの深層で不測の事態に遭遇し、誰一人として生きて帰ってくることはなかった。
再び、私は独りになった。
失意のどん底に突き落とされた私に、養父は、さらに残酷な現実を告げた。
「理桜……落ち着いて聞いてくれ。萌音ちゃんの容態が、あまり良くない。身体が、もう限界に近いのかもしれない……。もしかしたら、もう、先は長くない……」
頭が、真っ白になった。
時間がない。もう、一刻の猶予も。
焦りと絶望が、私の冷静な判断力を奪っていく。そんな時だった。ダンジョンで、三人の男たちに声をかけられたのは。
「よぉ、嬢ちゃん。その銃、いいスキルだな。俺たちと組まねえか?」
中級探索者パーティ『ハイエナ』。リーダーの犬飼と名乗る男は、下卑た笑いを浮かべていた。
断るつもりだった。こんな男たちと、組む気など毛頭ない。
だが、彼らは、悪魔のような囁きを私の耳に吹き込んだ。
「俺たちは、立川ダンジョンの19階層まで行ったことがある。そこには、過去に一度だけ、【EXTRA回復ポーション】が出たっていう、曰く付きの宝箱があるんだぜ?」
その言葉に、私は縋ってしまった。
藁にも、蛇にも、悪魔にだって。
「……条件があります。【EXTRA回復ポーション】が出た場合、所有権は私に譲っていただきます」
「ああ、いいぜ! その代わり、嬢ちゃんのそのスキルで、存分に戦ってくれよ」
こうして、私は彼らのパーティに加わった。
普段の私なら、こんな胡散臭い話に乗るはずがない。だが、萌音の命が尽きかけているという焦りが、私を狂わせていた。
最初は、何の問題もなかった。
彼らは私の【魔弾】の威力に舌を巻き、おだて、称賛した。
だが、ダンジョンの階層が進み、周囲から他の探索者の姿が消えたあたりから、彼らの態度は豹変した。
ダンジョンが、開けた草原タイプから、狭く入り組んだ坑道タイプへと変わった6階層。人目がなくなったその場所で、彼らは本性を現し始めた。
「理桜ちゃんの身体、細いのにいいもん持ってんじゃねえか」
「まじでまじで。その装備の下、どうなってんだろな?」
犬飼、猿渡、雉沼。三人の男たちの粘つくような視線が、私の全身を這い回る。
時には、すれ違いざまに肩や腰に手が触れる。それは明らかに意図的なもので、私はその度に身を固くした。
気持ちが悪い。吐き気がする。
だが、私は耐えた。【EXTRA回復ポーション】のため。萌音のため。それだけを、呪文のように心の中で繰り返した。
そして、運命の7階層。
「休憩しよう」
という犬飼の提案で、私たちは小さな小部屋に入った。
私が水筒に口をつけようとした、その時だった。背後から、猿渡と雉沼に、屈強な腕で羽交い締めにされた。
「きゃっ……!? な、何をするんですか!」
「へへっ、もう我慢できねえよ」
「大人しくしろよ、嬢ちゃん」
抵抗も虚しく、私は地面に押さえつけられる。頑丈な探索者装備が、まるで紙のように引き剥がされ、その下の服が、ビリビリと音を立てて破かれていく。
冷たい空気が、剥き出しになった肌を撫でた。
「やめて……! 離して……!」
恐怖と屈辱に、涙が溢れ出す。
私の前にしゃがみこんだリーダーの犬飼は、そんな私を見て、心の底から楽しそうに、下卑た笑みを浮かべた。
「はっ、馬鹿な女。顔だけしか取り柄のない素人のオメーなんかと、本気でパーティを組むと思ったか? その体だけが目的だよ、体だけがな!」
絶望。
その一言が、私の心を完全に支配した。
ああ、そうか。私は、騙されたんだ。最初から、これが目的だったんだ。
ただ、萌音を助けたかっただけなのに。ただ、もう一度、妹の笑顔が見たかっただけなのに。
なんで、私がこんな目に……。
ふと、脳裏に村雨くんの顔が浮かんだ。彼に、偉そうに説教なんてしたから、罰が当たったのかな。
そんな、馬鹿みたいなことを考えていた。
犬飼が、私の上に覆いかぶさろうと、その汚い手を伸ばしてくる。
もう、おしまいだ。
私が、そう覚悟して、ぎゅっと目を瞑った、その瞬間。
――犬飼の背後に、影が立った。
それは、音もなく、気配もなく、まるで闇そのものが人の形をとったかのように、そこにいた。
全身を黒い装備で固め、その顔には、一対の鋭い眼光を覗かせる、漆黒の狐の仮面。
狐面の男は、何も言わなかった。
ただ、無言のまま、私に覆いかぶさろうとしていた犬飼の顔面を、拳で殴り飛ばした。
ゴッ、という鈍い音と共に、犬飼の巨体がくの字に折れ曲がり、壁まで吹き飛んでいく。
何が起きたのか理解できない猿渡と雉沼が、呆然と、その闖入者を見つめていた。
そして私もまた、目の前で起きたあまりに唐突な出来事に、ただ涙を流すことしかできなかった。




