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第15話 修練


 金属と金属がぶつかり合う甲高い音が、俺の鼓膜を劈く。

 一瞬後、腹部にめり込む鈍い衝撃。息が詰まり、視界が明滅する。俺の身体は枯れ葉のように宙を舞い、冷たいコンクリートの壁に叩きつけられた。


「――がっ……はっ……!」


 肺から空気が強制的に絞り出され、地面に崩れ落ちる。朦朧とする意識の中、影が俺の上に落ちた。


「遅い。今の攻防、コンマ3秒は判断が遅れてる。実戦なら、あんたの心臓はとっくに私の短剣に貫かれてるわよ」


 冷え切った声の主は、黒猫の仮面をつけた女――キャットウォーク。

 ここは、JDS立川支部の地下5階、裏ギルド「アサシン」の訓練施設。

 カラスの仮面の男、レイヴンの差し出した手を取り、俺、村雨黒桜むらさめくろうがこの闇の世界に足を踏み入れてから、早くも一ヶ月が過ぎようとしていた。その日々は、言葉通り「修練」の一言に尽きた。


「……もう、一本……」


 俺は呻くように言い、口の中に溜まった鉄の味を吐き捨てた。

 全身の骨が軋み、内臓が悲鳴を上げている。だが、俺の狐面の下の目には、まだ光が宿っていた。


「まだやる気? 壊れたオモチャは、ただのガラクタよ」


 キャットウォークは嘲るように言うと、再び漆黒の短剣を構え、獣のような俊敏さで俺に襲いかかってきた。

 迫り来る刃。今度こそ、避けられない。

 俺は、迫る死のイメージを脳裏に焼き付けながら、最後の切り札を使った。


「――現実逃避」


 フッと、世界がモノクロームに変わる。

 キャットウォークの短剣が、俺の身体を通り抜ける。確かな手応えがあったはずの刃は、まるで幻を斬り裂いたかのように空を切り、彼女の体勢がわずかに崩れた。

 俺はその隙を見逃さない。半透明の身体のまま、彼女の懐へ一歩踏み込み、現実世界へ帰還すると同時にカウンターのナイフを繰り出す。


 だが――。


「同じ手に、二度も引っかかる馬鹿がどこにいるのよ」


 俺のナイフは、いとも容易く彼女のもう一方の短剣に弾かれる。そして、体勢を立て直した彼女の回し蹴りが、がら空きになった俺の側頭部を完璧に捉えた。

 再び、世界が暗転する。




 俺が意識を取り戻した時、そこにキャットウォークの姿はなかった。

 代わりに、壁際で腕を組んで一部始終を見ていたレイヴンが、静かに歩み寄ってくる。


「……どうやら、今日の訓練は終わりのようだな」


「……また、やられました」


 俺は身体を起こしながら、自嘲気味に呟いた。

 普通の人間なら、今の衝撃で数日は寝たきりだろう。だが、俺の身体はすでに【EXTRA体力回復UP】のスキルによって、驚異的な速度で修復を始めていた。骨の軋みも、内臓の痛みも、まるで嘘だったかのように引いていく。

 そして、何より強力なのは【現実逃避】の応用だ。


 致命的なダメージを受けた瞬間に【現実逃避】スキルを発動させ、攻撃を受けた身体のダメージを無かった事にする。そうすることで、俺の身体には傷一つ残らない。いわば、荒業。この使い方をしていなければ、俺の身体はとっくに限界を迎え、この地獄のような訓練に耐えることなど不可能だっただろう。


「お前のそのスキル、【現実逃避】だったか。確かに強力だ。あらゆる物理攻撃を無効化し、奇襲にも転用できる。だが、それに頼りすぎている」


 レイヴンの指摘は、キャットウォークのそれと同じだった。


「スキルはあくまで道具だ、黒狐。使い手が未熟では、宝の持ち腐れとなる。キャットは、お前の思考パターン、スキルの使い方、そのすべてをこの一ヶ月で見抜いている。だからお前は勝てない」


 分かっている。痛いほどに。

 俺が【現実逃避】を使うタイミング、その後の行動パターン。その全てが彼女に読まれている。俺の生命線であるはずのスキルは、彼女の前ではもはや有効な手札ではなくなりつつあった。

 だからこそ、俺はこの地獄の訓練に耐えているのだ。スキルに頼らない、純粋な戦闘技術を、この身体に叩き込むために。


 この一ヶ月、俺の生活は一変した。

 JDSの地下に広がるこの巨大な訓練施設は、外界とは完全に隔絶された世界だった。入り組んだ市街地を模したエリア、高低差の激しい障害物コース、暗闇での索敵訓練を行うための漆黒の空間。ありとあらゆる状況を想定した「戦場」が、ここには用意されていた。


 午前中は、徹底的なフィジカルトレーニング。常識外れの負荷をかけた筋力トレーニングに始まり、ワイヤーを使って壁を駆け上り、細い足場を飛び移るパルクールまがいの機動訓練。

 午後は、キャットウォークとの対人戦闘訓練。ナイフ術、体術、そして殺気の隠し方。彼女は一切の手加減をしなかった。何度も意識を刈り取られ、骨を折られ、その度に俺は【現実逃避】で致命傷を回避し、【EXTRA体力回復UP】で立ち上がった。


 俺は、まさにスポンジが水を吸うように、暗殺者としての技術を吸収していった。

 だが、その代償は、決して小さくはなかった。




「――おい、黒桜くろう。またぼーっとしてるぞ。目の下にクマはあるし、魂が半分抜けてるぜ」


 昼休み、教室の自分の席で窓の外を眺めていると、親友の黒鉄蓮桜くろがねれおが心配そうに声をかけてきた。


「ああ……まあな。最近、ちょっと考え事してて」


 俺は曖昧に笑って誤魔わかす。本当のことは、口が裂けても言えない。

 俺、村雨黒桜は、表向きはどこにでもいる平凡な高校生だ。


「もう、黒桜ったら。ちゃんと食べないとダメだよ? はい、これ、唐揚げあげる」


 蓮桜の隣から、幼馴染の鵺野心桜ぬえのこころが、弁当箱から好物の唐揚げを俺のパンの上にちょこんと乗せてくれる。その優しさが、今の俺には少しだけ、痛かった。


 彼らと過ごす、このありふれた日常。

 他愛のない会話、教室の喧騒、窓から差し込む穏やかな陽光。そのすべてが、地下の訓練施設での殺伐とした時間とは、あまりにもかけ離れていた。

 この退屈な世界を抜け出したい。その一心で力を求めたはずなのに、今の俺は、この世界の誰にも言えない秘密を抱え、闇に身を浸している。


「……黒桜、最近、ちょっと雰囲気変わったよね」


 ふと、心桜が真剣な表情で俺の顔を覗き込んできた。


「なんていうか……危なっかしい、感じ? 時々、すごく遠いところを見てるみたい」


「そ、そうか? 気のせいだろ」


 ドキリとした。彼女の勘の鋭さには、昔から敵わない。

 【現実逃避】のおかげで、身体に傷は残らない。だから、怪我について嘘をつく必要はなくなった。だが、心に刻まれた疲労と殺伐とした空気は、隠しきれるものではないらしい。


「気のせいじゃないよ。前はもっと、なんていうか……ぼんやりしてたけど、今はもっと、ピリピリしてる。針の先に立ってるみたいな、そんな感じ」


 心桜の言葉が、俺の現状を的確に言い当てていた。

 俺は慌てて話題を変えようとするが、蓮桜と心桜は納得いかない顔をしていた。だが、それ以上は追及してこなかった。その気遣いが、かえって俺の胸を重く締め付けた。


 強くなることと、大切な日常から遠ざかっていくことは、同じ意味なのかもしれない。

 俺は一体、どこへ向かっているんだ?

 そんな自問自答を繰り返しながら、俺は心桜がくれた温かい唐揚げを、ゆっくりと口に運んだ。




 放課後、俺は再び地下の戦場に戻っていた。

 今日の午後の訓練は、市街地エリアでの模擬戦闘。俺がターゲット役のレイヴンを捕捉し、無力化するというシナリオだ。


「いいか、黒狐。我々の仕事は、ただ敵を殺すことではない。いかに気取られず、いかに効率的に目的を達成するか。その過程こそが重要だ」


 訓練開始前、レイヴンはそう言った。

 キャットウォークは、建物の屋上から監視役として俺たちの動きを見ている。


 訓練が始まると、俺はすぐに身を隠した。

 五感を研ぎ澄ます。風の流れ、物音、影の動き。あらゆる情報を拾い上げる。

 だが、レイヴンの痕跡は、どこにもない。キャットウォークの気配遮断スキルも異常だったが、レイヴンのそれも次元が違う。まるで、最初からこの空間に存在していないかのようだ。


(五感じゃダメだ……スキルを使うしかない!)


 俺は意識を集中させ、【EXTRA気配察知】を発動させた。

 脳内に、訓練施設の三次元マップが構築される。屋上にいるキャットウォークの気配は、希薄ながらも光点として認識できるようになった。

 だが、レイヴンの気配は、やはりどこにもない。


(いや……待て)


 マップをさらに詳細にスキャンしていくと、奇妙な点に気づいた。

 ある一点の空間だけ、周囲よりも情報が「薄い」のだ。気配がないのではない。気配という概念そのものが、その一点だけごっそりと抜け落ちているような、強烈な違和感。それは、彼のスキルが空間に与えた「痕跡」。気配の残滓。


(……いた!)


 その「歪み」は、ゆっくりと移動している。俺はすぐさま壁を蹴り、配管を足がかりにして一気に3階の窓枠まで駆け上がる。キャットウォークにしごかれた機動訓練の賜物だ。

 窓から内部に侵入し、音を殺して廊下を進む。「歪み」は、一つの部屋の前で静止していた。

 ドアの前で深く息を吸い、一気に蹴破って内部に突入する。


 部屋の中央に立つ、カラスの仮面の男。


「見つけた!」


 俺は最短距離で肉薄し、ナイフを喉元に突きつける。


 だが、その刃がレイヴンに届く寸前、彼の身体が陽炎のように揺らぎ、俺のナイフは空を切った。


「残像だと!?」


「詰めが甘いな、黒狐」


 背後から、冷たい声。

 振り返る間もなく、首筋に強い衝撃を受け、俺の意識はブラックアウトした。


 次に気づいた時、俺はまた地面に倒れていた。


「気配を殺し、痕跡を読み、相手の裏をかく。その基本は身についてきた。だが、お前には決定的に欠けているものがある」


 レイヴンが、俺を見下ろしながら言う。


「それは、『覚悟』だ」


「覚悟……?」


「そうだ。人を殺す覚悟、そして、人に殺される覚悟。お前はまだ、どこかでこれを『訓練』だと思っている。その甘さが、お前の動きを鈍らせる」


 屋上から、キャットウォークが音もなく降りてきた。


「こいつには、まだ無理よ。所詮は、平和な世界で生きてきたお坊ちゃん。本当の意味で、引き金を引くことはできない」


 彼女の言葉が、俺の核心を突く。

 そうだ。俺は、まだ人を殺したことがない。殺されかけたことは何度もあるが、それはどこかゲームの延長線上のような感覚だった。【現実逃避】があれば、死なない。その驕りが、俺の心のどこかに巣食っていた。


 その時だった。

 レイヴンは、俺とキャットウォークを交互に見ると、静かに、しかし有無を言わせぬ響きを持った声で告げた。


「よくやった、黒狐。お前の成長は、我々の期待以上だ」


 突然の称賛に、俺もキャットウォークも戸惑う。


「だが、お前が本当に我々の一員として立つに値するかどうかは、これから決まる」


 訓練施設の空気が、一瞬で張り詰めた。

 レイヴンのカラスの仮面の奥で、底光りするような瞳が俺を射抜く。


「これより、お前の最終試験を執り行う」


 最終試験。

 その言葉の重みが、ずしりと俺の肩にのしかかる。

 ゴクリと、喉が鳴った。一ヶ月に及ぶ地獄の修練は、すべてこの瞬間のための序章に過ぎなかったのだ。

 俺の本当の戦いが、今、始まろうとしていた。



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