第四話 熱と苦味
レッスンを終え、木ノ崎は外の喫煙所でタバコを吸っていた。三月、春は近いが陽はまだ短く、暗くなると肌寒い。ガリガリの木ノ崎はコートのポケットに手を突っ込み、震えながらタバコを吸っていた。震えるほど寒くても外でタバコを吸う、木ノ崎はそういう生き物であった。
そうして煙を吹き出しながら通りを眺めていると、三人組の女子がやってくる。暗く、遠目でもわかるその姿。それは毎日のように見ているからでもあったが、やはり他とは違う佇まいを放っているからでもあった。
その姿を見ながら、木ノ崎は先程の舞台田との会話を思い出す。
(どうしたもんか……)
木ノ崎は悩む。へらへら笑って生きていれば、それでいいのだ。なら別に、どっちにせよへらへら笑って済ませばいい。しかし、それで、正しいか。それで、自分は自分を許せるのか。
何にしても、見てから決めればいい。見ればわかる。思考は無意味。目にうつるものが、そうして感じるものが全てだ。信じられるものは、それだけだ。
木ノ崎はタバコの火を消し、喫煙所を出た。
「――お疲れさん」
「あ、木ノ崎さん。どうしたんですか?」
と黒須野が答える。
「ちょっとそこでタバコ吸っててね。臭くて悪いね。ちゃんと口臭剤はぶっこんだからさ」
木ノ崎はそう言い、いつも通りにへらへら笑う。
「今帰りなんだね。最近はいつも三人で?」
「あー、はい。駅までは一緒なんで。そこからはバラバラですけど」
「へー。もっと時間にゆとりあれば終わった後にどっか行ったりできるんだろうけどね、まぁとりあえず二十日までは待ってね、悪いけど」
「いえ、それはもう当然ですから」
「そうだね。まーまだ始まったばっかだしね、先は長いから」
木ノ崎はそう言い、安積を見る。
「安積さんさ、この後時間ある?」
「え? ――うん、まぁ、少しは」
「そっか。悪いんだけどさ、ちょっと話あってね。そんな遅くならないようにするからちょっと付き合ってもらってもいいかな?」
「うん、大丈夫」
「悪いね。二人もごめんね、せっかく三人で帰ってるとこ」
「あ、いえ、大丈夫です。大事な話でしょうし。じゃあ、お先失礼します」
黒須野はそう言い、頭を下げ五十沢と共に駅の方へと歩いて行った。
「さて、やっぱ冷えるねぇ夜は。適当にどっか喫茶店でも入ろっか」
「うん。じゃあ、せっかくだから木ノ崎のおすすめのとことか」
「おすすめねぇ。まあ駅の近くによく行くとこあるけど、そこ全席喫煙可なんだよねぇ。僕は吸わないけどそれでもいい?」
「うん、平気」
「そっか。コーヒーもうまいしすごくいいとこなんだよね。僕にとっちゃタバコも吸えるしさ」
「それはでかいね、木ノ崎さんにとっては」
「そうなのよね。んじゃ寒い中ちょっと歩かせちゃうけど行こっか。もしあれなら僕のタバコ臭いコート貸すけど。大事な時期だから風邪なんか引かせると悪いしさ」
「大丈夫、私も着てるし。木ノ崎さんだってすごく寒そうじゃん」
「そうなんだよね、痩せてるから。シギさんみたいなお肉がほしいよ」
「ははは、笑える。でも木ノ崎さんのお腹が出てるのとか想像できないかな」
「ね。生まれてこの方ガリガリだからねぇ。七〇キロ以上が夢の世界よ。六〇だってないのにさ」
「それはヤバイね。ちゃんと食べてよ。木ノ崎さんが体壊しちゃみんな困るからさ」
「んなこたないよ。僕一人いなくなったって寸分違たがわず回るって。会社や社会ってのはそういうふうに出来てるからね。替えが効かないんじゃ会社としては失格よ。いつでも交換できる歯車で回さなきゃさ」
「うん、でもさ、そういうことじゃないから。私は困るよ、木ノ崎さんいなかったら」
「――ははは、そう言われちゃ気をつけるしかないねぇ。んじゃ早く中入ってあったまんないとね。席あいてればいいんだけど」
木ノ崎はそう言い、ポケットに手を突っ込んだまま駅へと向かった。
駅のすぐ近くの喫茶店「茶棟」。松の一枚板のカウンターと、その向こうの壁の棚に並ぶ数十種類ものカップが印象的な喫茶店だ。土曜の夕方過ぎということで席が空くのを待つ客もいるような状況であった。店内にはコーヒーの濃厚な臭いと、微かなタバコの煙の香が漂っている。
「待ってるね。他行く?」
「ううん、待つよ。木ノ崎さんがせっかくここがいいって連れて来てくれたんだからさ」
「あらそう。ハードル上がるねー。コーヒー好き?」
「んー、正直好きではないかな。あんまり飲む機会ないし。でもさ、こういうちゃんとしたとこのとかほとんど飲んだことないし、飲んでみたら違いわかるかもしれないから」
「そうだね。缶コーヒーやインスタントとは完全に別物だしね。まー子供のうちはそんな呑まないほうがいいしね、コーヒーはさ」
「みたいだね。木ノ崎さんは結構飲むよね」
「だね。僕はほとんどカフェイン中毒みたいなもんだからね。基本外回りだし、この時期は寒いからなおさら。最近なんか喫煙所も減ってきたからね、タバコ吸うために喫煙席ある喫茶店探してわざわざコーヒーも注文してって感じよ」
「はは、大変だね。早死なんかしないでね、タバコで」
「どうだろうねー。まーどっちにしたって人間死ぬときゃ死ぬからね。だったら好きなことしてって思うけど、タバコは人にも迷惑かけるからねぇ」
木ノ崎はそう言い、へらへら笑う。
「イス、座んなよ。一つ空いたからさ」
「大丈夫。木ノ崎さんこそ座りなよ。疲れてるでしょ」
「そう? まー僕のほうがおじさんだからねぇ。年々足腰にガタきて大変よ。でも毎日立ってるし歩きまわってるからね、そういうのは平気よ。タバコ吸ってるけど案外健康かもね」
「はは、かもね。じゃあ、一緒立ってるよ、私も。もうすぐだろうし」
「ならいいけど。――姿勢、いいよね」
「え? あぁ、まあね。一応意識してるから、こういう時も。姿勢は最初に教えられたし」
「偉いね、プロ意識だ」
「そうかな。仕事だしね。教えられたことはちゃんとやらないと失礼だし。木ノ崎さんも結構姿勢いいよね」
「まー立ち仕事だしね。それにほら、一応第一印象が大事な仕事だからさ、昔っから姿勢だけはちゃんとしなきゃなぁってね」
木ノ崎はそうへらへらと笑って言う。
「――あの」
突然、女性が二人に声をかける。
「あの、お話中申し訳ないんですけど、もしかして、『ハイティーン』に出てたモデルの方ですか……?」
と女性は安積に尋ねる。
「あ、えーっと、」
安積は確かめるように木ノ崎を見る。
「大丈夫よ、言っても」
「うん。えっと、そうです」
「あ、やっぱりそうですよね! 安積さんですよね?」
「あれ、名前って出てたっけ?」
と安積は木ノ崎を見る。
「ごめん、僕わかんないわ」
「あー、じゃあ。名前も出てたんですね」
「はい、出てました。それで覚えましたから」
「そうですか。名前まで」
「はい! その、初めて見た時からほんとすごい惹かれて、すごいキレイだなぁって、それでファンっていうか、でも生で見て写真よりヤバイってなりました!」
「あー、そうなんですか……ありがとうございます。そういうの、初めてなんで」
「ほんとですか? ならなおさら、がんばって声かけて良かったです! その、もしできたらサインとかいただくこととかはできますか……?」
「サイン……」
安積は呟くように言い、みたび木ノ崎の顔を見る。
「ある?」
「ない」
「だよねぇ。練習しとかないとね。それ以前に考えないとだけど」
「うん、だね。その、サインっていうサインはないから、ただ名前書くだけになるんですけど、それでいいなら」
「あ、はい! 全然オッケーです! もう何でも! 書いていただけるなら!」
「油性だけどサインペンならあるよ」
と木ノ崎がどこからともなく取り出す。
「さすが。用意いいね」
「そういう仕事だからね。あ、一応言っとくけど僕彼女のマネージャーね」
木ノ崎はそう言い、女性にへらへらと笑顔を向ける。
「あ、はい。油性で全然大丈夫です。ありがとうございます。それであの、できたらここに」
そう言って彼女が差し出したのは、スマホカバーだった。
「え、っと、ほんとにいいんですか?」
「はい。是非」
「はは……これはさすがにちょっと緊張」
安積は木ノ崎を見て笑い、スマホカバーに丁寧に名前を書いていく。
「――できた。これで、大丈夫ですか?」
「はい! 大丈夫どころか全然もう、最高です! ほんとありがとうございます!」
女性はそう言い、お辞儀をする。
「それで、あの、ほんとのほんとうにできたらで構わないんですけど、一緒に写真撮っていただくとかは、可能でしょうか……」
「あー……」
安積は再び、木ノ崎を見る。
「写真ねぇ……永盛さんはなんか言ってた?」
「ううん。こういうのは初めてだから。ただ話だけはしたかな。そういう事があった時はって」
「へえ。なんて?」
「永盛さんは、そういうのは私のイメージにはあんまり合わないから避けたほうがいいかもしれない、とかは言ってたかな」
「まぁねぇ……そもそも事務所的にどうなってたかだけど。安積さんはどうしたい?」
「私は……初めてだし、応えたい、かな」
「じゃあやろっか」
「いいの?」
「いいんじゃない? まーなんか言われたら僕が責任取るしさ。僕が許可したわけだし。そのへんもちゃんと決めとかないとだよねぇ」
「うん、そうだね。じゃあ、その、写真、大丈夫です」
「すみませんなんかほんと無理言っちゃって……ありがとうございます」
女性はそう言うと連れにスマホを渡し、安積と共に写真に収まる。安積の笑顔は、プロのものだった。不自然さなどどこにもない、いついかなる時もあるべき顔。女性は今一度お礼をし、最後に安積と握手をし、店員に呼ばれ席へと向かった。
安積は、笑って木ノ崎を見上げた。
「――すごいね、なんか」
「そうだね。ま、そういう世界よ」
「そっか……まぁ、そうなんだろうけどさ、初めてだったから」
「ほんとになかったの? 五ヶ月は経つよね」
「うん、初めて」
「へー。君顔いつもそのまんまなのにね。マスクとか眼鏡とかなしで」
「うん。でもそもそもそんな知ってる人いないんじゃないかな」
「んなことないと思うよ。あれ部数すごいし、君の顔なんか一度見たら記憶残るしね。まー勇気出ないんでしょ。確信がないとかさ。それよか学校ではどうなのよそういうの」
「まぁ、たまに言われるけど、学校は別だから」
「そうかもねぇ。で、どうだった? 初めてのこういうの」
「うん……なんていうか、繋がってるっていうかさ、ちゃんと地続きなんだな、っていうのは感じたかな」
「あー、そうね。今までだと特にそうかもね。現場で撮って載るだけだし。まーこれからは増えるよ、そういうのも」
「うん、だよね。……まぁ、一人だったら、どうなってたかわかんないけどさ、木ノ崎さん一緒だったから大丈夫だったよ」
「役に立てたなら良かったよ。しかし酷かったねぇ僕も。あんなマネージャーいないよね普通。なんもわかってないっていう」
木ノ崎はそう言ってへらへら笑う。
「はは、そうだね、うん。マネージャーじゃないもんねほんとは。嘘っていうほどでもないけど」
「そうなのよねぇ。かと言ってホントのことは言えないし。まー実際ほとんど変わんないから別にマネージャー名乗ってていいんだけどさ」
「うん。でももう少ししたら堂々肩書名乗れるんじゃない?」
「いやーそれこそダメでしょ。というか肩書はあくまでないに等しいからね。無関係のただのスカウトだし」
「あー、うん、そっか……」
「そうよ。席空いたみたいだね」
木ノ崎はそう言い、安積と共に席へ向かった。
「……コーヒー、全然わかんないんだけどおすすめとかある?」
「おすすめねぇ……まぁ大雑把に言えば苦味と酸味どっちかになるけど」
「酸味? コーヒーって苦いだけじゃないの?」
「んー、ぶっちゃけ僕はもう苦いとか思わないけどさ、ただ味として苦味が強いか酸味が強いかっていうのはわかるかな。酸味が強いのなんて僕なんかはもう全然苦いとか感じないし」
「へぇ。コーヒーって苦いだけだと思ってた。じゃあせっかくだし酸味強いやつの方がいいかな。どれがいい?」
「んー……あ、なんか丁度ゲイシャあるみたいだしせっかくだからそれにしたら?」
「ゲイシャ? 日本のコーヒー?」
「はは、鉄板だね。名前はゲイシャだけど日本の芸者とは全く関係ないのよ。場所は、パナマって書いてあるね」
「へー。おすすめなの?」
「まーおすすめといえばそうだけど、単純に希少だしね。フルシーズン置いてあるってもんじゃないし。めちゃくちゃうまいと僕は思うよ。いろんな賞で一位とってるしね」
「そうなんだ。でもというかだから他より結構高いんだね」
「って言っても数百円だからね。興味あるならこっちで出すから遠慮なく頼みなよ。経費で落とせるかもしれないしさ」
「そっか……うん、じゃあそれにする」
「ケーキとかいる? 夕食前だけどさ」
「うん、夕飯前だから大丈夫」
「了解」
木ノ崎は店員を呼び、注文を告げる。
「タバコ、吸いたかったら吸っていいよ」
「いや、吸わないよ。それは絶対」
「そっか……それで、なんか話あるって」
「あー、そういえばそうだったね……なんだっけ」
木ノ崎はそう言い、へらっと笑う。
「はは、なにそれ」
「いやぁ、忘れたってわけじゃないけどさ、まぁ、別にいいかなぁていうか、半分解決した気もするしね」
「そっか……」
「うん。まー……合宿の後からさ、京手さんとか、色々あったでしょ君も。まーちょっと話とこっかなとか思って」
「あー……尾瀬遥、さんもさ、木ノ崎さんなんだよね、スカウト」
「そうよ」
「……似てる? 私」
「まー、多少はね。でも正直全然別よ」
「そっか……まぁ、私も正直全然知らないんだけどね、尾瀬さん」
「ははは、そうかもね。でも勉強になることは確かだよ。あの人は本物のプロだから」
「プロ、か……」
「そ。あらゆる意味でね。こと演技に関しちゃ鬼よ。演じることと騙すこと」
「……騙すっていうのもさ、プロの仕事?」
「まあね。ただ言葉のチョイスとか、そこに何を見るかだけどさ。言い換えれば『見たいものを見せる』よ。見せたいものを見せるでもあるけど。騙すだの演技っていうのはそういうこと。京手さんが言ってた魅せる、魅了の方の魅せるだね。それも同じ。演出。それは別に悪いことじゃないよ。嘘だけど、嘘じゃない。ようするにさ、フィクションなのよ。理想のフィクション。俳優にせよアイドルにせよさ、それの体現。物語をなぞるわけ」
木ノ崎はそう言い、ニッと笑う。
「京手さんが言うことももっともよ。不純だとか手段だの目的とかそのへん。正しいし間違ってない。けどそれだけじゃないからね。誰も彼もがそういうふうにできるわけじゃないってね。むしろ逆よ。京手さんみたいなのが特別、っていうより圧倒的少数派なだけ。まーだからハンパなく強いんだけどさ」
「……うん、そうだね。あの人はちょっと、すごいかな」
「そう思う?」
「うん。実際見てわかったけど、今までで一番すごいと思う」
「はは、君が言うんじゃ相当だろうね。ま、ゆえに頂点にいんのよ。まだまだ行くよ。彼女の目指す先は世界の王だからね。キング」
木ノ崎はそう言い、へらへら笑う。
「まー、誰も彼女にはなれないよ。その逆に彼女も他の誰にもなれないけどさ。だからまぁ、君は君の思う道を行きなよ、とりあえずは。まだ始まったばっかりなんだしさ、正しいことも今の自分と違うならとりあえず進んでみてさ、それで違ったら引き返せばいいだけだしね。まだ若いんだし始まったばっかなんだからさ」
注文したコーヒーがテーブルの上に置かれる。まだ湯気のたつそれを、ゆっくり口に運ぶ。
「――うん、苦いっていうのはほとんどないね。インスタントとかとは全然違う感じ」
「そうだね。カフェイン以外は別物よ。僕みたいなカフェイン中毒はインスタントだろうとなんだろうとカフェインならいいって感じだけどさ、もはや」
「はは、それ体に悪そうだね」
安積は今一度コーヒーを口に運ぶ。
「……うん、おいしい」
「そう? なら良かった」
「うん。――木ノ崎さんはさ、私の道っていうか、目的、間違ってると思う?」
「……ま、正直言うと君の道とか目的知らないからね。だからなんとも言いようがないけどさ、別に間違ってたっていいじゃない」
木ノ崎はそう言い、笑う。
「さっきも言ったけどさ、間違ってたらやり直せばいいだけよ。引き返して、別の道行くだけ。間違ってみないと間違ってるかどうかもわからないじゃないの。その分のフォローはさ、僕ら大人がいくらでもするんだから」
「そっか――でもさ、木ノ崎さんは、いつかいなくなるんだよね」
「……そうだね。んな無責任なくせに偉そうなこと言ってちゃダメだよねぇ。僕ら大人がなんてさ。自分はやらないくせにね」
木ノ崎はそう言い、自嘲気味にへらへら笑う。それに対し、安積は真っ直ぐに木ノ崎を見て言う。
「じゃあさ、やればいいじゃん」
「……やらないかなぁ。やれないでもあるけど、やっぱやらないだね、僕は。まー色々あるけどさ、しょせんそういう人間ってことよ」
「……私たちが売れたら、そういう話もなくなる?」
「……正直に言うね。むしろその逆。売れれば売れるほど、僕は絶対に離れるよ」
「そっか……そんな気はしてたけどね」
安積はそう言い、どこか安堵したような笑みを浮かべた。
「私は、木ノ崎さんにいてほしいから」
安積はそう言い、すっと、何かが抜けるように微笑む。
「それとは別に、みんなのためにもいたほうがいいって思うしね」
「……そりゃどうもね」
「うん、まぁ、それだけ」
そう言い、安積はコーヒーを口に含む。その目にもはや、迷いの類はない。木ノ崎はそれを見てから、ちらりと横を見る。その先で、誰かの煙草の煙が宙に揺らいでいる。無性にタバコが吸いたくなる。吸ってしまおうか、と思う。別に構わない。吸っていけない理由なんて、どこにもない。
木ノ崎は今一度、正面の安積を見る。その顔を。瞬間的に、一人の少女の顔が頭をよぎる。小学生の、幼い顔。その、ビー玉のような澄んだ瞳。
木ノ崎はカップを摘み、あらゆるものをどす黒い苦味とともに飲み込んだ。
何が正しいかは、未だにわからない。
そんなもの一生、わかる気がしなかった。




