第二話 顔
和川高校。男女共学、普通科で偏差値はそこそこ高い、いわゆる進学校である公立校。駅からも程々の距離。学校が近づくにつれ人の数も多くなり、音も賑わいを増していく。
木ノ崎はいつも通りの黒いスーツ。十月とはいえ今日も最高気温は23度ということでジャケットは腕に抱えている。ワイシャツの袖をまくり、首もとにはネクタイ。それはある意味最低限の誠意でもあった。
木ノ崎は仕事の際はいついかなる時もスーツである。夏はジャケットは羽織らないとはいえ、基本は変わらない。結局それが一番。スーツであればどこでも溶け込め、最低限まっとうな人間だと示せ、警戒もされにくく、なにより楽。もとい私服などろくに持っていない。
慣れた様子で校門を通り、パンフレットをもらう。中には構内図や演目が書かれていた。さっと目を通すと顔を上げ、周囲を見ながら進んでいく。挙動に不審な点など一切ない。不審な様子など微塵も出さない。彼が「得物」を狙うスカウトだと、気付けるものは少ないだろう。
とはいえ、土曜ということもありスーツ姿は少し目立つ。そこは会社帰りの保護者を擬態。半休であがり子供の様子を見に来た、そんなふうにでも装えばいい。木ノ崎はまだ32であったが、くたびれた様子と様々な経験から作られたなんともいえない顔つきが年齢のはっきりわからない様子を生み出している。見る人が見れば二十代後半。別の人が見れば三十代後半。十もの歳の間を容易にたゆたう。
一通り外をぐるりと回る。出店などを見つつ、その広い視野は一度にいくつもの顔や仕草、佇まいを捉えている。最初の一瞬で、見ればわかる。だからジロジロと眺め怪しまれるようなことは一切ない。周囲の者もまた、自分たちの楽しさや高揚でいっぱいで木ノ崎のことなど気にかけない。木ノ崎は適当にやたら安い小さい缶のお茶を買い、探索を続けた。
*
一通り回ったが、めぼしい者は見つからない。生徒たちの格好は普段と少し違う。上から下まで制服ではなく、各々好きなTシャツやクラスTシャツのようなものを着ていたり、仮装をしている者もいる。もちろん普段通りの制服姿の者もいた。
一様に制服姿のほうが見つけやすい、というのはある。みな同じ格好であればそれだけ違いというものは際立つ。一目でそれがわかる。学校の良さ、制服の良さとはそういう点にもある。無論、それはあくまでスカウトにとっての視点だが。
木ノ崎は途中でもらったうちわで扇ぎ、お茶に口をつけるとパンフレットのマップを見る。外は一通り見たし中に入るか、と歩いていると前方から音楽が聞こえてくる。大きな建物、体育館の中。パンフレットを見ると、丁度バンド演奏が行われているところであった。
(生徒のバンドか、いいね。そういうのやる子はそれなりにこっち側だし)
木ノ崎は方向を変え、体育館へと向かった。
中は少し暗くなっていた。一方でステージの上は明るい。前の方は人が密集していたが、後ろはかなりゆとりがある。丁度良く、女子のバンドが演奏していた。
そして木ノ崎の目は、一瞬でそれに奪われた。
遠目でもわかる。あまりにも違う。異次元だ。佇まい、顔、所作。一部の者だけが放つ、絶対的なオーラ。ステージの上の照明は、いってみれば彼女のためだけに降り注がれている。いや、その照明以上に、彼女自身が強烈な光を放っていた。
木ノ崎の脚は、自然前へと進んでいた。その顔には、どこか狂気にも似た笑みがあった。
一歩一歩、近づく。笑う。笑うしかない。こんな人間が、こんなところにいるなんて。
確信する。答えはここにあった。彼女がそうだ。あの暑い夏の日、下郷しもごうが言っていた本物。見ればわかる。見るだけで、すべてが繋がる。
――ふと、強烈な既視感に襲われた。デジャヴ。その顔に、見覚えがある気がした。
いや、でも、あり得ない。彼女のような人間を見ていたら、忘れているわけがない。絶対にはっきり覚えている。それ以前に、絶対声をかけている。
木ノ崎は自分がスカウトした人間の顔を忘れることはない。卓越した記憶力から自ずとそうなるものではあったが、それ以前にスカウトとして当然の能力でもある。二度手間を避ける。二回目以降であろうと、親近感を抱かせる。なにより礼儀であり誠意。
だから彼女とは初対面。それは間違いないはずだ。スカウトはしていない。していない以上、どこかで見かけたはずもない。見かけていたとしても、忘れているなんてありえない。それは全て、揺るがない。
だというのに、何故これほどにも懐かしいのだろう。
見た気がする。この顔を、知っている。はっきり思い出せない。まるで夢で見た誰かの顔のように。もしかすると本当にそうなのかもしれない。夢の中で、彼女の顔を、見たことがあるのかもしれない。
一瞬ふと、ある少女の顔がよぎった。
――いや、ありえない。ありえないことはないけど、そんなことは……
木ノ崎は思わずかぶりを振る。あの時に見えた顔、そんな気もする。というより、現状それ以外では考えられない。ほとんど夢での邂逅と同じそれ。ならば。
少なくとも、この目で見たことがないことだけは、間違いなかった。
(――まさか、ね……)
木ノ崎は一度視線をそらし、うつむくと目を閉じる。
激しい音の中で、真っ暗な世界がやってくる。その中で、思考を、彼女たちの顔を、頭から追い出す。この目だ。この目だけで見ろ。それがスカウトだ。それが自分だ、と。
ゆっくり息を吐く。二人の顔――記憶の中にある少女と女子の二人の顔は、暗闇の視界から完全に消えていた。木ノ崎は顔を上げ、まばゆいステージの上に、その目で見えてる世界に視線を戻した。
ステージの上には三人の女子。ギターを弾き歌を歌う女子と、ドラムを叩く女子。そして彼女。異次元の存在たる彼女が、ベースを弾いている。
演奏は中程度。高校生三人でこれくらいできてれば御の字というレベル。ギターにボーカル、ドラムも十分うまいが、ベースはさほど。おそらく即席の手伝い。けれども、そんなことは彼女にとっては意味を成さない。演奏の腕など、彼女の力には、何の影響も与えない。
(顔が、いいね)
はっきり見えるほど近づいた木ノ崎は、そう思う。顔というのは生まれ持った容貌、カワイイだの美人だの、そういう話ではない。無論そういう次元でも彼女の顔はあまりにも完璧に整い、化け物じみた美をそなえていたが、そういう表層的な話ではない。
顔には人生が出る。生き方が出る。信条、信念、運命が出る。
そして何より、見方が出る。その人にとって世界の見え方、世界観。その目で世界をどう見ているのか。それはそのままその人間が目指す未来であり、夢であり、理想である。
それはすなわち、運命である。
世の中には人生の先を運命づけられた人間がいる。
勝利を、闘争を、成功を、名声を、運命づけられた人間がいる。
そしてそれは、否応なしに顔に現れる。一目でわかる。約束された勝利。今後どういう過程を辿ろうとも、その人間の未来に闘争と勝利が約束されている。運命づけられている。そこから逃れることはできない。そういうことが顔には出る。なによりそれはその人の夢であり、欲望であり、理想であるから。顔が人を作るのではなく、顔が理想を作るのでもない。
見据えた理想が、そういう顔を作るのだ。
木ノ崎にはそれがわかる。十中八九間違いない、という次元でわかる。その顔を通し、その人間の未来が見える。それはその顔によって、強い理想によって決定づけられているものだから。木ノ崎のスカウトとしての能力の一つがそれだった。何故彼が必ずといって大成する者だけを選べるのか。まるで未来が見えているかのように。
答えは簡単。実際に見えているからだ。対象の顔を通して。
自分のスカウトの対象だけではない。よその事務所の新人を見てもひと目で分かる。「あぁ、この顔はすぐに大成するね」と。生半可な成功じゃない。ただの人気じゃない。この顔だと、役者としてかなり上のところに行くだろう、などと。
それは芸能人だけに当てはまるものではなく、スポーツ選手なども非常にわかりやすい。例えば「若手有望選手」も見ればわかる。その時点で才能は証明されているが、その先の成功までは保証されていない。ケガもあるし、伸び悩みもある。ライバルの台頭もある。どれだけ子供の頃すごくても、成功するとは限らない。
そんな中でも見ただけでわかる選手もいる。昔、テレビで偶然見かけた少女。すさまじい才能の一五歳。一五歳でオリンピックの代表候補――実際その年代表になる。加えて別競技でもトップレベル。将来的にどっちを選ぶかまだわからない、そういった子供。
最初見た時、木ノ崎は笑った。思わず、勝手に、笑みが漏れる。「ハハッ、こりゃすごい」と。はっきりわかる。とんでもない顔だ。いつになるかは知らないけど、オリンピックで金メダルとるね、絶対、と。
その顔は芸能人とは違う。整っているだとかカワイイだとか美人だとか、そういうわかりやすいものではない。そういう基準で見ると当てはまらない。けれどもそこには別の種類の美がある。闘争の美。勝利の美。純粋の美。理想の美。
燃え上がる炎に感じずにはいられない美。
いい顔だ、とそのスポーツマンの少女に対し木ノ崎は思った。力がある。強さがある。高い理想がある。疑いのない、純粋な欲望。勝利が約束された顔。なによりも、闘争を運命づけられた顔。
数年後、彼女はオリンピックで金メダルをとった。それも二つ。ついでに銀と銅も。
別に何も、驚かない。かかった時間に関しては専門外。とにかく、いつかそうなることはわかっていた。全部見えていた。数年越しの「まぁ、そうなるよねそりゃ」であった。
ともかく、そういう顔。そういう次元での「いい顔」。ステージの上でベースを弾く彼女にあったのは、それだった。
自分の上手い下手など関係ない。常に笑みを浮かべ、メンバーの二人を見ている。純粋な楽しみ、喜び。穏やかですらある。それは状況や環境、外部に揺るがされるものではない。いうなれば信念。決して揺るがぬ芯。絶対的な理想。この何気ない日常の延長の一コマからでもそれがはっきりとわかるほどの、強力なもの。
この世界から、彼女一人がはっきり逸脱している。
木ノ崎の顔から、笑みが消えることはなかった。




