第十六話 洗礼
「ではこちらで手続きを進めさせていただきますので、また後日来てください。契約書やらなにやらありますので。それまでにあなたの方でも身辺整理等よろしくお願いします」
と専務で「次期社長」である目迫硝子が言う。
「わかりました。こちらでも書類やら印鑑等ちゃんと準備しておきます。――あとそういえばなんですけど、スカウトマンでも芸名とかって使えたりしますかね」
「はい?」
「いえ、芸能界ってプロデューサーとか芸名っぽい人もいたりするじゃないですか。芸名っていうより別名ですけど、私の場合本名をそのまま使うのは色々と障りがあると思うので。かなり珍しい名前ですし」
「そういうことですか……」
硝子はそう答え、目だけでちらりと尾瀬の方を見る。しかし尾瀬はそのわずかな瞳の動きすら見逃さない。
「大丈夫ですよ。私も事情は聞いてるんで。ほんの触りだけですけど」
「……どういうことでしょうか」
「いえ、詳しいことは何も話してませんよ。ただちょっと脛に傷があるってことを匂わせたくらいで」
と木ノ崎は弁明する。
「最低限の誠意じゃないですけど、責任といいますか。相手がまだ15歳で、しかもこっちは社員でもないのにEYESの看板背負って声かけたわけですから、フェアに判断してもらうためにも偽らず隠さず誠実にと言いますか。とにかく内容まで踏み込んで話したわけではないので」
「……まあいいでしょう。それについては後で詳しく聞きます。ともかく確かに別の名義は必要ですね。当たり障りのないものを何か考えておいてください」
「はい。ではまた、失礼します。今回のご厚意は本当に感謝しております。ありがとうございました」
木ノ崎はそう言い、深々と一礼する。
「厚意で行ったことではありませんからね。すべては事務所のためです。それと礼を言うならばそもそもこの件を決めた社長にしてください」
「はい。社長も、この度は本当にありがとうございました。このご恩は必ず結果で返させていただきます」
「当然ですよ。そのために採ってるわけですからね。逆にあなたのほうがお礼を言われるような仕事をしてくださいね」
と社長は娘とは対象的なニコニコとした柔和な笑みを返す。
「はい。それでは、失礼します」
木ノ崎は再び一礼し、鴫山はその場に残し一人社長室を後にした。
退室後、どっと全身から汗が吹き出してくる。柄にもなく緊張していたか。早くこんな閉塞感で一杯のビルから外に出て思い切りタバコを吸いたい。それにしても、と木ノ崎は思い、振り返って今一度社長室の堅牢なドアを見る。
採用。受かったのか、この俺が。こんな立派な芸能事務所の、本物のスカウトマンとして。中卒で、学もなく、前歴なんか汚れに汚れた女衒まがいでしかないこの俺が。
芸能事務所の、スカウトか。
実感などない。しかし腹の底からなにやら乾いた笑いが湧き上がってくる。なんて話だ。子供の頃の自分に言ったって信じないだろう。いや、一年前の、数ヶ月前の自分に言ったって信じないはずだ。自分があんな後先のない夜と日陰の世界から抜け出し、表向きは真っ当な日の当たる場所で働くことになるなんて。
いや、どうだろう。信じるかもしれない。少なくとも自分の目は、ずっと信じてきた。これだけは、唯一これだけが、自分の人生で間違いのない絶対として信じてこれたものだった。だから当然芸能界だろうと、この目は何ら問題なく通用する。自信ではなく単なる事実として。だからあとは運頼み。出会い、縁、偶然。道端で拾った宝くじが当たったような、幸運に次ぐ幸運。そんなものは信じないにしても、それさえあればそこから先は。それはもう、信じなくたってわかっていたかもしれない。
結局は運。スカウトなんて運だけだ。出会いの運がすべてで、それを引くためにひたすら立って歩いて待って探すだけ。それはこれからも変わらないし、結果のためにより険しいものになるだろう。そう考えると、結局やることは変わらない。
――ともかくとして。ほんと、シギさんだよすべては。鴫山生共。よくぞ俺の人生に現れてくれたよなあって感じだよね。感謝したってしきれないわなこりゃ。余計なもん負うのは面倒だけど、さすがにこの恩はでかすぎるからなんとしてでも返さないとな。自分が枷捨てて楽になるためにも。とりあえずまあ、酒の一杯でも奢りますか。散々奢ってもらったんだし。
木ノ崎はそんなことを思いつつ、何はともあれタバコだタバコ。社長らに会うからまだ一本も吸ってないしさすがに限界だ、と踵を返しエレベーターへと向かおうとした。そこへ、
「幾世橋さん」
と背中に声をかけられる。丁度社長室を出てきた尾瀬であった。
「そっちも終わったんだ」
「うん。もしかして待ってた?」
「いや、ちょっと余韻に浸ってたっていうかね」
木ノ崎はそううそぶいて笑う。そうして尾瀬と共にいる女性、マネージャーの只見にも軽く会釈をする。
「どうも、初めまして」
「初めまして。先程はきちんとご挨拶できませんでしたが、この度尾瀬のマネージメントを担当することになりました、マネージメント一部の只見と申します」
只見はそう言い、律儀に名刺を差し出す。
「これはどうもご丁寧に。あいにくこちらはまだお渡しできるような名刺は持ち合わせておりませんで」
木ノ崎は愛想笑いを浮かべながら返す。
「えっと、先程もご覧になった通りといいますか、この度こちらに入社させていただくことになりました幾世橋と申します。一応スカウトマンで、なので新人開発部? という部署に所属することになるんですかね、おそらく」
「みたいですね……」
「ええ。まあ名乗っておいてなんですけど、すぐにでも名前変えなきゃいけないんで今のは覚えていただかなくて結構ですから」
「そういえばそういう話だったね」
と尾瀬も割って入る。
「新しい名前なんか考えてたりするの?」
「いや、まったく。まあ他にもタカハシとか適当に名乗ってたりしてたからね。だからタカハシは使えないにしても今回もそんな感じかな」
「そっか。じゃあ私がつけてあげるよ、名前」
「そう?」
「うん。私からのプレゼント。名前をあげる。採用のお祝いと、それにお礼」
「それはまあ、光栄かな。未来の大スターが名付け親だなんてね」
「でしょ? 名字が幾世橋で他にもタカハシとか使ってたんだよね。じゃあ上は木ノ崎だね」
「キノサキ?」
「そ。木曜日の木に、カタカナのノ。崎は山へんに奇妙の奇。下は樹一郎ね。こっちのキは樹木の樹。さっき思いついたんだ。なんとなくわかるよね」
「……まあなんとなくね」
なるほど、キヨハシとキノサキは母音が同じだ。それでいて漢字も含めてどこかありふれた印象の名前。樹一郎は、世の字が名字と名前でダブってたことに掛け、漢字は違えど名字と名前どちらにも木を入れたのだろう。そして介という男にありふれた名前を、これまたありふれた一郎という字に置き換える。フルネームでも漢字も含め極めて自然でよくありそうな名前だが、それでいてそのわざとらしさがどこかフィクションのような創作物を思わせる。
「木ノ崎樹一郎か……いいんじゃない? なんかすごい普通っぽいし」
「だよね。じゃあ今日から木ノ崎樹一郎だね。これで私がゴッドマザー」
尾瀬はそう言い、薄っすらと微笑み木ノ崎を見上げた。
「これでもう逃れられないね。切っても切れない親子の縁。知ってる? 名付けっていうのは祝福だけどさ、同時に呪縛でもあるんだよ」
「……よーく知ってるよ」
「ならよかった。それじゃあ、二人で事務所を乗っ取るくらいにがんばろうね。とりあえず十年。私は光より速く先に行くから、ちゃんと遅れないでついてきてね」
「それは命令?」
「そう。命令であると同時に、キイチの欲望」
尾瀬はそう言い、まっすぐに木ノ崎の顔の中心を指さした。その指先からは、じわりと何らかの念力が発せられているかのような圧が感じられた。
「――命令なら仕方ないか。どうせそうなるだろうしね。んじゃ仰せのままに」
木ノ崎はそう言って笑い、恭しく頭を下げる。頭を上げたその先には、もうこれまでとは違う別の世界が待っていた。
木ノ崎樹一郎と尾瀬遥。その誕生と出会いの物語。




