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ライブ・オブ・アイドル  作者: 涼木行
第一章 この世の十字路
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第十一話 真夏の夜の夢



 喜庵は尾瀬にとっての友人であり、姉であり、家族のような存在になった。尾瀬は安心で安全な居場所として、喜庵のもとに居着いた。尾瀬が語る家庭の事情は喜庵の保護意欲を掻き立てるには十分なものであった。当初は尾瀬にも喜庵を利用しようという意図はあったかもしれない。とはいえそれは自身の安全のためであり、共に過ごすうちにその信頼は確かなものとなった。


 喜庵は合鍵も渡し、いつでも尾瀬が家に出入りできるようにした。彼女に様々な防犯グッズやその心得も伝授した。一緒に過ごし、遊ぶこともあった。しかし「女優・尾瀬遥」にとって喜庵との出会いは、膨大な映画へのアクセスを容易にしたということが大きかった。小規模でも映画サークル。そこには蓄積された膨大な数の映画ソフトが溢れていた。部外者であったが喜庵を通して尾瀬はそれを見ることができた。映画サークルにはソフトだけではなく、それらにアクセスするための知識もあった。名作と呼ばれている映画。B級の傑作。隠れた名作。演技が素晴らしい映画。カルト的人気を誇る変わった映画。そういった知識をもつ人々に、書物の数々。


 そこで尾瀬は、ひたすらに歴史に残る演技を見続けた。見て、吸収し続けた。同時に様々な演技の引き出しというものを身につけた。それと同時に、理想も見つける。演技の理想。演技をする上で、たどり着きたい究極の頂き。その先。現代演技の、メソッドの頂点、ダニエル・デイ=ルイス。その領域に最も近づいた、「ブロークバック・マウンテン」のヒース・レジャー。女だとか、日本人だとか、関係はない。そこに、演技の究極がある。手本があるのだ。ならばそこを目指すだけであった。尾瀬は多くの時間を喜庵の家や映画サークルの部室で映画を見ることに費やしていた。


 映画サークルにも出入りする以上、当然他の部員にも話を通す必要はあった。部外者でしかも中学生である以上、部内だけではなくサークル活動を統括している委員会の方にも話を通さなければならない。とはいえ「友人の妹を撮影する映画に出します」程度であればさほど問題はなかったが、サークルが所有するVHSなどを見るにはさすがに喜庵の部屋では再生機器がなく、部室を利用する他なかった。


 喜庵は決して尾瀬を部室や構内に一人にすることはなかった。喜庵も男がどういうものなのかは知っている。同じサークルの人間だろうと――いや、だからこそ、まったく信用していない。大学内でも家庭教師や塾のバイト先で女子中高生に手を出し捕まった男は何人もいた。尾瀬から母の交際相手によるそういう行為も聞いていた。そうである以上、決して一人にはできない。それが喜庵の思いだった。


 とはいえ、だからといって「タダ」で部外者に部室を使わせ続けるわけにはいかない。尾瀬程の美貌であれば、他の部員も映画に出て欲しいというのは当然であった。喜庵は正直気乗りしなかったが、それは自分が決めることではない。尾瀬本人が決めることだ。何より彼女の練習に、経験になるだろうとの思いもあった。とはいえ当の尾瀬はきちんと脚本を読み、その上で出演を断るというのを中学生でありながら自分で行っていた。それは当然断られた部員の自尊心を傷つけるし彼女のサークルへの出入りの障害ともなり得たが、彼女が出演を承諾した映画はやはり脚本の出来が他より良く、そしてやはり出来上がったものも良かったわけである。結局結果が答えなわけであった。



     *



 そのようにして尾瀬は中学の三年間を過ごしていた。これまでと比べ家にいる時間は減り、おかげで安全は増えた。母との接点はより少なくなったが、「友人の家に泊まります」とでも置き手紙を残しておけば特に何か言われるようなこともなかった。が、一度だけ何を勘違いしているのか、「どうでもいいけど避妊だけはしてよ。こっちは金ないんだから」とだけ言われることがあったが、尾瀬はその見当違いっぷりに思わず笑い、「友達はみんな女だよ」とだけ答えた。


 とはいえ喜庵も大学生であり、一人暮らしをしている以上アルバイトなども必要であり、いつでも尾瀬と一緒にいられるわけではなかった。三年になれば就職活動などで家をあけることも出てくる。もちろん映画サークルの他の女子とも友人関係を築けていたが、喜庵との間にある程の信頼関係ではなかった。それに尾瀬と自分の彼氏が鉢合わせには絶対させたくない、と思う者もいた。尾瀬がまだ中学生などというのは関係ない。もちろん彼女がやたら大人びていて、すでに十分高校生といっても通じる程度であったというのもあるが、なによりその美貌である。常軌を逸した整った顔。それは日に日に強まっていく。別に彼女に「罪」はないのはわかっているが、間違っても彼女を彼氏に会わせられない。もしそうなったら、どうなるか。それは彼氏に対する信頼などとは別の領域にあった。それほどまでに、尾瀬には人を飲み込む何かがある。それは自分が女性であるのに何度も経験しているからこそわかるものであった。女の自分がこうなのだから、男など簡単に「落ちる」だろうと。



 尾瀬の交友関係は映画サークルの中だけに留まったものではなかった。小学校からの友人、中学でできた友人もいる。その中には自分の事情をよくわかって家に泊めてくれる者もいたし、尾瀬と似た境遇の仲間たちもいた。そういう仲間たちで集まり、身を守っていた。彼女たちはただの仲間ではなく、多くのものを分け合っていた。そうして、約束しあっていた。みなでここから抜けだそう。この境遇から、今から抜けだそう。ここから抜け出せるものがいたら精一杯応援して送り出そう。そうして先に力を得て、残ったみんなを助け出そう。全部、みんなで、分け合うんだ。助け合うんだ。私たちには、私たちしかいないから。――て言ってもどうせ一番は遥だろうけどね。遥は行けるでしょ、間違いなく。頼んだよほんと、うちらもうちらでがんばるけどさ、などといった具合であった。



 そうして訪れた、中学三年の九月。まだ蒸し暑さが残る夜の那覇の繁華街。尾瀬は一人、十字路に佇んでいた。そこでバイト終わりの喜庵を待っていた。手には喜庵が買い与えてくれた、小学生が持つような防犯ブザー付きのおもちゃのような小さな携帯電話。そうして一人、道行く人々を眺めていた。人間観察。演技のため。人を知る。それを自分のものとする。演技の引き出しを増やす。動き、視線、表情、言葉。そして何より、それらが表す欲望。その奥にある、正体。一体彼は何者か。彼女は何者か。これまでの人生。職業。何をして喜ぶのが。何を欲するのか。


 それらを全部知ろうと、じっと黙って観察する。例えばあの人。女性。多分観光客。若い。大学生くらい? 同い年の集団……


「大学生の観光客だろうね」


 という声が、横から飛んできた。見ると、背の高い痩せた男が立っていた。色白で、頬が痩けていて、短い黒髪を整えて固めている。この暑い中長袖のワイシャツの袖をまくり、ネクタイに黒いスラックス。黒い手提げかばんといかにもサラリーマンといった風貌。その顔は、若くもあり老けてもいる。二十から三十歳を行ったり来たりしている不思議な顔だ。


 男は手に下げたビニール袋からアイスを取り出した。


「これ二つに分けて食べるやつなんだけどさ、片方いる?」


「――じゃあ頂きます」


「ありがとね。悪いけど自分で開けてくれるかな。そうすれば未開封だって確認できて安心できるだろうからさ」


 男はそういってアイスを袋ごと差し出した。尾瀬はそれを受け取り、確かに未開封であることを確認する。とはいえやろうと思えば細工などいくらでもできたわけだが、わざわざそんなことを確認させてくるなんて律儀というか、変わった人だと思った。そうして袋を開け、アイスを割り、「ありがとうございます」と片方を男に差し出した。


「こっちこそどうもね」


 男はそう言い、アイスを受け取り食べ始める。そうしてそこに立ったまま、じっと先ほどの女子大生と思しき集団を眺めていた。


 それは尾瀬にとっても初めて見るタイプの人間だった。距離の取り方が実に独特だ。それは物理的な話ではない。自分に何かしらの「用」があるのだろうが、それがまったく表に出てこない距離感。そしてその顔にも、声にも挙動にも、一切欲というものが現れていない。ただ、立って見てるだけ。しかしその視線に、尾瀬は何か自分がよく知っているものを見た気がした。そう、自分。自分が人を見る時の目。その、ただ見るためだけにある目と、体。


 尾瀬も女子大生と思しき集団の方に視線を戻した。そうして二人は独特の距離感で並び、アイスを食べながら何かを見ていた。


 それが尾瀬遥と木ノ崎樹一郎の出会いであった。



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