第九話 やがて大気で覆われて
そこからの時間はあっという間に過ぎる。気づいたら着替えを終えていて、気づいたら時計の針が回っていて、気づいたら楽屋を出て廊下を歩いていて、気づいたらスタジオの裏に辿り着いていた。
暗がり。その先に一筋の光のように輝くスタジオの入り口と、その先から流れてくる音と熱。時計を見ればわかる。生放送。番組の始まりは、すぐそこに迫っている。
黒須野は息を吐き、他のことに意識を向けようと辺りを見回す。周囲には共演者たちが控えている。自分たち以外は初めての出演ではないので、慣れた様子で小声の談笑にふけっている。とはいえそれは「Lステが初めてじゃないから」というだけの話ではない。今そこにいる出演者たちはみな有名で、一定の成功をおさめたアーティストばかりであった。黒須野自身当然知っていたし、そうでなくとも全国的な知名度の高さは間違いないだろう。ティーンズ239には年齢による入れ替えがあるとはいえ、そこにいるアーティストたちは少なくとも三年以上のメジャー経験があることは間違いなかった。Lステは当然に、CMソング、ドラマの主題歌、映画の主題歌。その他音楽番組に紅白まで。そういう一線級の人々ばかりであった。
そうした中に混ざっていると、黒須野は改めて場違いというものを強く意識する。デビューから半年程度、結成自体から一年も経っていないというのは当然自分たちだけである。加えてほとんどのアーティスト、ミュージシャンたちは下積みというものを踏んでいる。それは場合によっては十年以上に及ぶもので、メジャーデビュー以前はCD一つ出すのだって大苦労。ライブにしたってチケットのノルマまであり、いざステージに立っても客は両手で数えられるくらい。そういう打ちひしがれそうな日々を乗り越え、それでも自分たちを信じに信じ努力を重ね、それらの積み重ねの末にようやくあのスポットライトで彩られた舞台に立つ。今ここにいないアーティストたちの多くも、そういう日々の末にこれまでここに立ってきたはずだ。努力の結晶。まさしくそういうもの。
それと比べて、自分たちはどうか。そもそもアイドル志望、アーティスト志望でなかった二人はとりあえず置いといて、自分。努力はした。確かにした。でもその年数は今ここにいる他のアーティストたちとは比べ物にならない。ほんとにちゃんと教わってレッスンしたのは二年に満たないくらい。オーディションを受けたとはいえそこでの正式な勝利ではなく、特別枠といった感じで脇を通って採用されたようなもの。その時点でデビューはほぼ確約されており――そしてそれには自分は一切関わっておらず――結成からデビューまでの期間もたった三ヶ月程度。下積みなんて一切なかったも同然。そしてそれからたった四ヶ月程度で今ここにいる。Lステという、最上級のステージに。
場違い。それは間違いない。間違いないのだ。揺るがぬ真実。もはや自分たちではどうしようもない正解。そう、どうしようもない。自分ではコントロールできないこと。ならば。
黒須野は目をつぶり、あの日の京手縁の言葉を思い出す。熱で沸騰した自分の額に置かれた、あの冷たく柔らかく優しい掌を。その言葉を。
自分がコントロールできることと、できないこと。場違い。もう過ぎ去ってしまったこと、過去。そして努力の少なさ――いや、正確には単に下積みの期間の短さ。
そう、努力はした。やってやった。徹底的にやった。そりゃ時間で言えば比べ物にならないけれど、その質量は負けてない。その熱量は、負けてない。私はやった。私たちは、十分やった。十分以上に、死ぬほどやった。そうだ、その事実は変わらない。あの努力の日々は、揺るがない。変わらない結晶がそこにある。振り返った日々にあり、今この血肉の中にある。思い出せ、京手縁の言葉を。正しき言葉を。世界の真実を。
愛せ。自分の努力を愛するんだ。京手縁が言っていた言葉。死ぬほど読んでそれをはっきり覚えている。どの雑誌どの番組どの媒体、それもはっきり覚えている。暗記するほど追って読んだ。それもまた永遠にこの血肉。
アイドルがファンに見せるのは、あのステージの上のすべてだけ。だから自分の努力は自分自身でちゃんと見ろ。自分の努力をちゃんとわかるのは自分だけだ。自分の努力を、愛するんだ。何故ならそれは自分自身だから。永久に消えず死ぬまで自分とともにある、自分の分身そのものだから。
この私が生きたという証だから。
黒須野は気合を入れるため頬を叩こうとする。が、この後すぐカメラの前に立つことに気づき、その手をなんとか静止する。そうして目を開け、ふーっと深く息をはき、己の胸をドンと叩く。ドンと、ドンドンと己の心臓を打ち鳴らす。
そう、これ。これだ。心臓のビート、世界のビート。熱い血潮が全身に駆け巡る。肉体の存在、生きてる実感が自分の全てに駆け巡る。真似でいい。これがいい。京手縁がいつもすること。やればわかる。これが一番、気合が入る。この仕草こそしっくり来る。自分が何者であるかが、はっきりわかる。
ああ、至福。たまらない。心臓がドンドン跳ねてるのがわかる。これは別に緊張じゃない。緊張とは異なるものに変わった。だってこの激しく脈打つ心臓は、己が叩いて点火したものだから。そう、これもコントロール。緊張という無意識が始めたことではない。私自身が、この私が、己の意志とこの拳で起こしたもの。
なるほど、なるほど。わかってくる。自分の人生を自分でコントロールするという感覚が。コントロールできているという実感、その感覚が。それで世界の見え方がどのように変わるかが。
なるほど、これが京手縁に見えている世界か。
こんなんもう、たまんないでしょ。
「やってますねー」
と笑って声をかけてくるのは江井友理愛。年下であるが百戦錬磨の「人生二周目」は、生放送本番数分前であろうと実家にいるかのように落ち着いている。
「お邪魔でしたか?」
と尋ねる江井に黒須野は、
「ハッ。全然」
と笑って返す。上等上等、全部来い。
「流石ですねー。でもこういうとこで胸叩いてる人初めてみましたよ。でもないか。確か京手さんもよく同じことしてますよね。アスリートみたいですよね」
「そうでしょ。アイドルだってアスリートと何が違うのよ。ディフューズなんてライブの後はぶっ倒れて酸素ボンベ吸ってんだから。その辺の凡百のアスリートの何百倍って運動量よ」
「ははは、いいですねー。口調まで変わっちゃってますね。ちょっと入れ込みすぎじゃないですか? トークもあるんでもう少し落ち着いたほうがいいと思うんですけど」
「大丈夫、どうせ照明くらったら勝手に我に返って冷えるから」
「そこまで自分のことわかってるってのも凄いですね」
「そりゃね。自分との対話は今まで散々やってきたから。それに私は一人じゃないし。二人がいれば大丈夫。二人といれば自分が誰でどこにいるかはっきりわかるから」
黒須野はそう言い、安積と五十沢を親指でズビシと指しニッと笑う。
「ははは、ほんと最高ですね黒須野さん。今わかりましたけど、私が好きな黒須野さんはライブ前の黒須野さんみたいですね。最初に会ったのもアイドルコレクションの本番前でしたし」
「一番エンジンかかって温まってるからね」
「ほんとですね。じゃ、そろそろなんで」
江井はそう言い、真似するように親指でステージの方を指す。
「次はまたあそこで」
「うん。もう完全に完膚なきまでにお互いアイドルとして」
黒須野はそう言い、己の胸をドンと叩いて拳を突き出す。江井は笑い、自身も胸を叩いてその拳を突き出し、がつんと合わせた。
「よしっと。んじゃそろそろだね。こっちもちゃんとやっとかないと」
と黒須野は振り返り、安積と五十沢と対面する。
「うん。相性いいね江井さんと。すごい的確に十子ちゃんのこと盛り上げてくれる感じ」
と安積が言う。
「うん。あの人多分わざと挑発しまくってくるしね。まーでも私は自分で自分のこと上げられるし、挑発っていうか煽り担当はうちにも晃がいるからね。で、真はなんかすごいキラキラした感動するクリスタルみたいなもんグサッと心臓に投げつけてきてたまんねーって涙腺緩くさせる担当」
「そんなんだったんだ。十子ちゃんめちゃくちゃ入ってるね。過去イチ?」
「うん。だからリーダー舵取りお願いね。こっちもばっちり冷ましてくけどさ」
黒須野はそう言い、一つ息をつく。
「よし。んじゃ、いきますか」
黒須野はそう言い、安積に抱きつく。ハグ、抱擁。伝わる互いの熱。心臓の鼓動。続いて五十沢と。そして安積と五十沢が。その後、黒須野はみたび己の心臓を叩き、拳を突き出す。
「みんな死ぬほど愛してるから、今日も一緒に生きてよね」
「うん。じゃ、お米ウジ虫」
「お米ウジ虫」
「お米ウジ虫」
三人は拳を合わせ、笑う。お米ウジ虫のその一言で、あっという間にいつもの自分たちが戻ってくる。図ったかのように丁度本番の合図がくる。続いて、あのLステテーマソング。テテテテー♪ というお決まりの音楽に、黒須野はふっと笑う。
なるほど、改めて。
ほんとに鳴るんだーこれ。
エアの入場の番が近づく。三人は繋いでいた手をそっと離す。
照明が近づく。ギンギラの人工的なまばゆい明かり。アーティストを紹介する声。大音量の音楽。観客の拍手。
よし、よし、よし。
スタッフが合図をする。三人一緒に、一歩を踏み出す。影がなくなり、完全に照明の下に全身がさらけ出される。眩しい。一瞬、視界が真っ白になり何も見えなくなる。が、すぐにスタジオの全貌が見えてくる。そして最初に目に入ったのは、カメラ。そう、カメラ。撮られている。映っている。生放送だから、そのカメラの先にみんながいる。お父さんに、お母さん。友達に、親戚。EYESのスタッフの人々。ディフューズに京手縁。
そして何より、ファンのみんな。ファンだけじゃない。見てくれている人はみんなお客さんだ。みんながその先にいる。目の前にいる。それはライブと一緒だ。なんの違いもない。ならばすることは同じだ。
階段の前に立つ。今まで何千というアーティストたちが同じように降りていったこの階段。そこにいよいよ、自分も足を踏み下ろす。黒須野はちらっと、二人の顔に視線をやる。一瞬、三人の視線が交差する。
「初登場! ディフューズのEYESが送り出す実力派三人組、期待の新人アイドルグループAIRです!」
紹介が終わり、三人はお辞儀をし、揃って一歩を踏み出す。よし、きた。これだ。さあ、
テテテテー テレレレレレー♪
うわっ、ほんとのほんとに鳴っている。散々想像してきたのと同じだ。階段を降りる度頭の中で音楽を流しイメージしてきたのと同じだ。だから大丈夫。もう一丁。
テテテテー テレレレレレー♪
そうして階段を下りながら、客席やカメラの方に軽く手を振る。五十沢は、ほんの僅かにクールに微笑む。それは一つの成長の証。安積は、いつも通りの畏怖すら覚える微笑み。今日もおそらくカメラの先で何人もの意識を奪っているだろう。そして黒須野。どこま強気で勝ち気で、視聴者の視線をはっきり捉えて離さない力強い目。その中には、確かに太陽の種火が住まっていた。爛々と輝き、時折フレアが燃え上がるがごとく光が跳ねる。そして口元、その口角。どこか挑むようなその角度。その笑みには確かに、京手縁の片鱗が住まっていた。
どうよ。どうだ。ああこれ、最高。お母さん見てる? お父さんも。泣いてるでしょ。堪んないでしょ。私も堪んないから。喉の奥が熱くて、魂が震えてるから。私がそうだからみんなもそうだって、信じてる。この感情が本物で、だからみんなにも伝播するって信じてる。私が感動してるんだからみんなも感動するに決まってるって、信じてる。
私は世界を変えられるって、信じてる。
どうよ、どうだ。縁さん。見てますか? 見てるだろ。私は確かに、あなた達が見ているその景色に近づいている。私が今見ているこれは、その景色に近づいている。
王の景色に、黄金の紙吹雪に、近づいている。
階段を降りる。降りていく。一歩一歩、三人揃って進んでいく。そして最後の一歩。月面への着地、人類最初の大きな一歩。
その一歩を三人の、三本足で同時に確かに踏みしめた。
空気なき月面に、僕らの空気がやってきた。




