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ライブ・オブ・アイドル  作者: 涼木行
外伝 空気の前の光
179/324

6

 


 ブザーが鳴る。二分三ラウンドのスパーリングもどきが終わった。一生分の疲労と喜びが、晃の肩にどっと降りてきた。


「ハッ。お前ボクシング向いてんな」


 と神尾臨世は汗もかかずに笑って言う。


「ほんとつまんねえな。今なんぼ? 中学生?」


「一三です」


「んじゃ五年もありゃ十分か。男だったらよかったのになぁ。したら俺も楽しめたのに」


 へらへら笑ってそう言う臨世に、晃は一つ息をついて尋ねる。


「絶対無理ですかね」


「無理っしょ。わかってんじゃん?」


「……わかってましたけど、わかりましたね」


 と晃は返す。そこでやり取りされる言葉は少なすぎて他の者にはわからない。逆に何故会ったばかりでろくに言葉も交わしていないこの二人がこれだけの言葉で意思の疎通を行えているのか。それもわからない。


「なんの話だよ」


 と関屋が尋ねる。


「わかんねえの?」


「わかんないから聞いてんだよ」


「これだからねー」


 と神尾臨世はグローブで後頭部を掻く。


「こいつは『俺と俺がやってるボクシング』をやりたいわけじゃん? 俺らみてぇなほんの一部の本物のボクサーがやってるボクシングを。無理っしょそれは。単純に今はまだ下手くそで無理だけどそもそも女だからどんだけ強くなろうが無理だって話」


「……そう思うのか?」


「だってこいつのパンチじゃ死なないじゃん」


 神尾臨世はそう言い、ハッと笑う。


「ダウンすら無理っしょ。まあ体重合わせりゃいけんのかもしんないけどさ、そんなん相手も弱いだろうし、そもそもつえーやつらがやるわけねえしな。死なねえパンチとやったって面白くないっしょ。くらったらやべえからあいつらは必死こいて避けてんだしさ」


 神尾臨世はそう言い、晃に向き直る。


「お前もそのへんはわかってんもんな。俺だって結構大変なのよ。俺のボクシング付き合ってくれるくらい強いやつなんてほんとちょっとしかいないからさ。退屈よ退屈。それでもマジで強いやつも少しはいるからいいけどお前にはいねえだろうな。男とはできねえし女でもお前よか強いのなんて出てこないんじゃね? 知らねえけど。まー俺より退屈なのは確実でしょ。いたところでお前がしたい俺のボクシングができる相手かもわからねえしな」


 そう話す間も臨世はへらへらとしまりのない笑みを浮かべている。


「ボクシングっつうのが運わりいわな、お前にとっちゃ。相手がいねえとできねえし。お前の場合才能あんのが運の尽きだな。適度につえーだけだったら普通に女同士で普通のボクシングやって満足できたのによ」


「お前な、そういうのは慎めよ」


 と関屋が諌める。


「なんでよ。事実じゃん? こいつが一番わかってんだろうし。まー俺が楽しめねえのはつまんねえけどさ、お前もまだガキだし他にも色々あるっしょ。一人でできるもんとか。そういうので楽しんでりゃいいんじゃねえの?」


「そうですけど、それも飽きたんですよね」


 晃は、真っ直ぐに臨世を見上げて言う。


「あっそ。一人じゃ限界なんてすぐだかんな。面白くねえし。まーなんかしらあんだろうから必死こいて探せば? 女でもお前くらいのがゴロゴロいる競技だってあんじゃねえの。関屋さんどうよ。そういうのなんかありそう?」


「んー……まぁテニスなんかは競技人口も多そうだし大会もデカいだろうな。上位のレベルは高そうだし。というかお前それボクシング辞めろって勧めてるみてえじゃねえか」


「みてえじゃなくてそうよ。というかこいつ自身もうそういう方向でしょ。俺だってわかってっから最後に遊んでやったんじゃん」


 臨世はそう言ってけらけらと笑い、晃を見る。


「俺には関係ねえからな。お前とやることなんかねえわけだし。まあ女だろうと俺のこと楽しませてくれるくらい強けりゃいいのよ。それ目指すっつうなら好きにすりゃいいしな。なんにしても同じリングに上がらねえならどうでもいいよ。上がんならそん時楽しませてくれっててだけで。俺はここ以外に楽しいとこ知らないかんね」


 神尾臨世はそう言い、笑いながらグローブで足元のリングを指す。


「俺には相手も一応いっからな。ま、同情だね。どーじょー」


 神尾臨世はそう言い、なお笑う。


「俺は運が悪い中じゃ運いい方だったな。運がいい中で運がいい方か? ま、お前のその体に付き合ってくれるやつがどっかにいたらいいわな。したらちっとは気も紛れんだろ」


「……臨世さんは付き合ってくれますか?」


「ハッ。やんねーよ。お前が楽しくても俺がつまんねえじゃん」


「ですよね。今日はありがとうございました」


 晃はそれだけ言い、ペコリと頭を下げる。


「おう。んじゃな」


 臨世もそれだけ言うとひらひらと手をふり、リングを降りる。そうしてもう晃のことなど忘れたといった具合に振り返りもせず、さっさと自分の練習へと向かうのであった。


「コーチ、終わりました。ありがとうございました」


 リングを降りた晃はコーチにそう言い、頭を下げる。


「あぁ……」


「関屋さんも、ありがとうございました」


 と晃は関屋にも礼を言う。


「ああ。ま、あれが神尾臨世だよ。いつも通りのな。どうだった?」


「そうですね……わかりました、色々と。楽しかったですし」


「そうかい、なら良かった。じゃ、私も指導に戻らせてもらいますね」


 関屋はそう言い、ジムの面々の指導へと戻っていく。晃はタオルで汗を拭きつつ、臨世の背中を一瞥する。そうしてそのまま一つ息を吐き、更衣室へと引き上げていった。



     *



 数十分後。ジムを後にした晃はコーチと共に駅のホームへいた。元々口数が少ない晃であったが、ジムを出てからは数語の返事以外では口を開いていない。その視線もいつも通り虚空を見つめていたが、どこか物思いにふけっているかのように揺らいでいる。コーチはそんな彼女を横目に、近くの自販機で飲み物を買う。


「晃ちゃんスポーツドリンクで良かった?」


「はい。ありがとうございます」


 晃はそう言い、ペットボトルを受け取る。しかし封は開けず、ホームの向こうにスッと視線を向ける。


「コーチ、私ボクシング辞めます」


「――そっか」


「はい。すみません」


「いや、いいんだよ。そりゃ残念だけどそれは君が決めることだし、なんとなくそんな気がしてたから。神尾臨世に会わせるって決めた時に多少は覚悟してたからね」


「臨世さんに会えば辞めるって思ってたってことですか?」


「まあ、一応ね」


「なんでですか?」


「なんとなくかな。君たちみたいな本当の天才みたいな人たちにしかわからないものがあるだろうし、晃ちゃんがしたいっていうボクシングがほぼ確実に無理っていうのもある程度わかってたからね」


「辞めるのわかってたのに会わせてくれたんですか?」


「うん。俺も見たかったしね。俺は凡人だけどさ、それでも本物の天才かどうかくらいはちゃんとわかるからね。神尾臨世は文句なしで世界屈指の天才だし、君もそれは同じはずだから。だから君みたいな天才が神尾臨世みたいな本物の天才と会ったらどうなるのかって、純粋にそれが見たかったからね」


「そうですか。ありがとうございました」


 晃はそう言い、またペコリと律儀に礼をする。


「いやいや、こっちこそありがとうね。それで、これからのことは何か考えてたりするの?」


「特に何も」


「そっか。話聞いてるとやっぱり相手がいるスポーツがいい感じ?」


「別に対戦相手である必要はないんですよね。スポーツである必要もないですし。ただこう、臨世さんのボクシングみたいに相手の体と、リングの上の時間と空間を全部握るっていうか、一つになる……自分が自由にできる体が広がる感じっていうんですかね。自分の体は散々やったんで、そういうふうに体を広げていきたいですね。そこは臨世さんのボクシングがやりたいって部分と変わらないんで」


「体を広げるか……俺なんかには全然わかんないけど、多分わかる人にはわかるんだろうな。でも俺もボクシングやってた時は相手の体と一つになるみたいな瞬間があったから少しはわかるよ。相手は敵で勝敗争って殴りあってるっていうのに不思議でさ、なんかその瞬間はピタッと全部が当てはまったみたいな感覚があるんだよな。合体じゃないけど、全部一つになるっていうかね。あれは絶対一人じゃ無理だからね。うん、でもほんと改めてボクシングは相手がいないとできないもんだってよくわかったよ」


「そうですね。私もよくわかりました」


「ははは。晃ちゃんの方がかなり深刻な気もするけどね」


 コーチはそう言って笑い、ホームの向こうを見る。


「ま、俺には君が感じてることなんてほとんど何もわからないけどさ、短い間だけど縁あってこうやって一応は指導者の立場になったわけだし、君がこの先の人生も目一杯楽しめることを祈ってるよ。その体を広げるとか、そういう何かや相手と出会ってね。できればその才能を遺憾なく発揮して。色々やってまたボクシングに戻ってきてもいいわけだしね。その時はうちに来てもらって構わないからさ」


「はい。そうします」


 晃はそれだけ答え、ペットボトルの封を開け口をつける。その横顔を見て、コーチは思う。


 同情――同情か。神尾臨世が発した言葉。その意味はわからないでもない。けれども彼の胸にはそういう感情は湧いてこなかった。これを同情とは呼ばない。同情というとどこか非情で、切り捨てるような諦めを感じる。神尾臨世は天才ゆえか、まだ十代という若さゆえか、そういう感情を抱き、そういう言葉を発するのもわからなくもなかったが、すでに四十近くに迫っていて子もいる彼にとっては違った。


 どうか、という祈り。どうかこの才能が遺憾なく発揮される日が来ますように、とも思うが、それ以上に。


 どうか笑っていて欲しい。楽しんでいて欲しい。あのリングの上のように。そういう場所に、そういう相手に出会えるよう。ただ一人静かに祈っていた。



     *



 帰宅後、晃は地下室へと向かった。一面が鏡張りになっているトレーニングルーム。音のないその冷たい室内で、晃は一人じっと鏡の中自分と向き合っていた。そして唐突に、踊り出す。音楽はない。けれどもその脳内では何かが鳴っているのかもしれない。ともかく彼女は思うがまま、オリジナルの振りで踊り続ける。


 視線の先、鏡の中の自分は、自分とまったく同じ動きをしている。同調。重なる視線。タイムラグもない、一体。


 しかしそこには誰もいない。自分の体一つ以外、何もない。決して広がることのない、自己で完結した一つの体。頭から爪先まで思い通りになる自分一人の体。


 晃は一人踊り続けた。鏡の向こうの彼女と共に。二人で一人、踊り続けた。




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