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ライブ・オブ・アイドル  作者: 涼木行
外伝 乱反射の肖像
163/324

後編


 翌日。石住が通う学校。体育の授業の後、石住は思いついたように友人の背後に回りこみくんくんとその匂いを嗅ぐ。


「うおっ。何いきなり」


「抜き打ちチェーック」


「抜き打ちかー。で、どうでしょうか先生」


「んー、もうちょっと時間経たないとだねー。服は柔軟剤の匂いバッチリっすよー。じゃあ次こっちー」


 ともう一人の友達の匂いもふんふんと嗅ぐ。

「んー、ほのかに甘酸っぱいですなー。いい感じー」


「良くないし! うわー着替えん時ちゃんとやんないとなー。うち親が柔軟剤無理なんだよね―。なんか匂いで頭痛くなるとかでさー」


「あーあるみたいだねー。私も人工的なのはちょっとくるかなー。いいじゃないですか汗の匂いも。生きてる証ー」


 と言って美澄はいつもの様にふわふわと笑う。そうした顔の裏では「やっぱり違うよねー」と思っていた。確かに汗の匂いだ。甘酸っぱい。とはいえまだ中学生の女子のものであるので、不快な臭いでもない。むしろ程よく癖になるような刺激。


 でも何かが決定的に違う。京手縁のあの、あまりにも強すぎる命の匂いとは、何かが決定的に違っていた。


 ほんと、なんなんだろうあれは。


「てかみーちゃん鼻いいよねー」


 と友人が言う。


「かもねー。あーそういえばだけどねー、私アイドルやるからー」


「は? え、あれ? 土曜のやつ?」


「それー。まあ正確には日曜だけどねー」


「え? 昨日もまたスカウトされたの?」


「あー、それだと土曜のだけど正確には土曜のじゃないっていうかねー、まー後でゆっくり話しますよ。時間ないしねー」


「ねー。ほんとこっちは汗とか臭いなんとかしなきゃなのに。休み時間五分伸ばせよって話」


 と言うのは先程石住に「甘酸っぱい」と言われた方。


「でもみーちゃん今までも何回もスカウトされてたじゃん。なんで今度はオッケーなの? てかアイドルって。みーちゃんならモデルとかのほうが合うんじゃない?」


「そこはまぁ色々あるんすよー。まぁ結局全部人だよねって感じかな」


 石住はそう言い、ふっと微笑む。その、急激に歳をとったかのようにすら思わせるどこか達観した大人びた笑み。というよりは、おそらく本来の石住に瞬間的に戻った表情。どこか距離と冷たさを感じさせ、同時に果てしなく美しい顔。友人たちも極たまに遭遇し、その度に友人のはずの彼女に「畏怖」に近い感情すら抱いてきた。だからこそ分かる部分もある。ああ、これはそういう「案件」なのかと。


 そんな友人の思いなどどうでもよい石住はぼんやり空を見上げながら歩く。京手縁のあの匂いと、その鼓動と熱を思い出しながら。



     *



 約一週間後の週末、石住は京手縁と再会した。マネージャーになるかもしれない人間と会わせたい、君らを売り込みたい、という木ノ崎からの連絡。二人の都合を合わせ、その日に。事務所までは木ノ崎が案内するということで渋谷の駅前に集まった。


「ういーっす」


 と、先に来ていた二人の元に京手縁がやってくる。そうして真っ直ぐ石住の前に進み、両腕を広げ、ガッと彼女の体を抱く。熱と、鼓動と――そしてあの匂いが、石住の元に舞い戻ってくる。


「よし。元気そうで何より」


 京手は石住の両肩に手を置き、その強すぎる輝きを放つ眼差しで真っ直ぐに石住を見る。


「そっちこそ相変わらずっすねー。常時それ?」


「常時これよ」


「さっすがー。ハグも毎回ー?」


「たり前じゃん。全感覚でお互いの存在確かめないとでしょ。ちゃんと覚えてんだろ、あたしの熱」


「おかげさまでねー。ついでに汗臭いのも」


「ははは、んじゃ部活帰りで良かったわ。木ノ崎さんもハグやる? あたしはバリバリやる派なんだけど」


「悪いけど僕はダメかなー。まず人前で男とハグなんかは基本ダメよ。これからアイドルやるんだからさ。まー家族とかなら別にいいけど、売れてからだとそれでも炎上するからねー。あっちは家族だってわからないわけだしさ」


 と木ノ崎はへらへら笑って答える。


「それ抜きでも僕はタバコ臭いからハグなしね。だいたい所属タレントとそういうのなんてご法度だからさ」


「ふーん。まーわかるっちゃわかるけどそんなんばっかで面白いかねー。アメリカじゃんなの関係なくみんなハグじゃん。猫も杓子もってやつ?」


「ははは、ほんとだよねー。まーそこは文化の違いだしさ、なんなら君が日本にハグ普及させればいいじゃないの」


「それもありか。んじゃいっちょやってみますか」


「いいねー。んじゃ時間もあれだし早速行こっか。離れないよう気をつけてね」


 と言い、木ノ崎は二人を連れて歩き出すのだった。



「ゆかりんは今日も部活ー?」


 と事務所までの道中で石住が尋ねる。


「おう」


「だから汗臭いんだねー」


「だな。てかそんな?」


「どうだろうねー。でもいい匂いだから大丈夫だと思うよー」


「じゃあいいじゃん。毎回ハグする相手がいい匂いでよかったじゃん」


「ういー。ほんとそのポジティブ思考すごいよねー。どうなってんの?」


「どうっつうか他になんも思わないってだけだしなー。スミ匂いフェチなん?」


「でもないけどねー別に。鼻はいいほうだとは思うけど」


「へー。んじゃそういう仕事できんな」


「そういう仕事ー?」


「なんか消臭剤とかの。この前テレビで見たけどなんか色々匂い嗅いで消臭剤とかの新商品開発するやつ」


「へー。面白そうだけど仕事のために嗅ぐってのはなんか嫌かなー。鼻ダメになったら仕事できなくなっちゃうしね。ゆかりんはどんな仕事したいー?」


「そりゃ今はアイドルっしょ。実際やってみないとわかんないけどさ、面白かったらひとまずずっとこれだな。スミはどうすんの?」


「そりゃゆかりんがやる限りは私もアイドルっすよー。別に仕事とか考えてもなかったしねー」


「へー。まあなんでもできそうだもんな。親は何やってんの?」


「医者ー」


「医者かー。意外性はないな。それどっちが?」


「どっちもー」


「どっちも? そりゃすげえな」


「かもねー。ゆかりんちは?」


「うち寿司屋」


「寿司屋?」


「うん。寿司屋と整体」


「寿司屋と整体? あー、でもどっちも握るしねー」


「そうそう、って整体は別に握らんわい。まあ確かに指圧とかは似てるかもな」


「でもおうち寿司屋ってめっちゃいいね。私寿司好きだし。毎日お寿司?」


「毎日じゃないけどやっぱ魚はその日のうちだからな。余った分出ることは多いよ。でもうち結構大家族だからねー。兄ちゃん二人もバスケやってて大食いだしさ。あんまこっちまで回ってこないよ。魚なくて酢飯だけとかのほうが多いかもな」


「酢飯かー……え、じゃあもしかしてそれ酢飯の匂い?」


「あたし?」


「うん、それー」


 と石住は京手を指差す。京手も自身の服の匂いをふんふんと嗅ぐ。


「――わかんねえなー。もはや酢飯は生活の一部だからね。服より体から発してるんじゃない? 酢飯の食い過ぎでさ。まーおかげで体柔らかいから怪我しなくて最高じゃん」


 京手はそう言って快活にけらけらと笑う。


「科学的に眉唾っぽいけどねー。でも酢飯かー……酢飯かー?」


「何だよおい。うちの酢飯に文句あんの?」


「ナッシングに決まってんじゃないですかー。お寿司大好きだしー。じゃあ今度寿司おごってー」


「ちゃんと払えよ。親連れて来いよな。回らない寿司だけどそんな高級じゃないから大丈夫っしょ。基本時価でやってっからその時々によるんだけどね」


「いいっすねー回らないお寿司。んじゃ今度行くからお店教えてー」


 と石住はふわふわ笑う。笑いながらもなお「酢飯かー……酢飯の匂いなのかー?」と内心で首を傾げているのであった。



     *



 のちにディフューズのマネージャーとなる男・鴫山(しぎやま)との出会いと彼の前でのパフォーマンスも終え、石住と京手の二人は帰路についていた。


「いやー、最高に楽しかったな!」


 と笑う京手のその笑顔は、あまりにも屈託がない。石住がかつて見たことのないような笑みであった。形容というものが意味をなさない。直にその目で見なければ、意味がない。それはそういう類の、あまりにも命の存在を主張する笑み。


「そうだねー。ほんとサイコー」


「なー。大体わかっちゃいたけどさ。まーこれで始まんのは確実だな。次は他のメンバーも顔合わせすんのか? あの鴫山って人もわかってる人みたいだったしキーさんもいっから大丈夫か。マジ楽しみだわ」


 そう言い、なおもケラケラとどこまでも気持ちよく笑う。


「そうだねー。でも私らくらいの子なんてそんないるのかなー。歳近いとこで探すんだろうし。なんかやったら別に二人でいい気もしてきたけどねー」


「そうなったらそうなるんじゃない? まーでも普通にいるに決まってっしょ」


 京手はそう言い、石住の「希望」を一蹴する。


「スミさ、自分くらいの人間がこの世にいるなんて思ってなかっただろ。自分と同じくらいの人間、自分より上の人間がさ、同い年にいるなんて。会ったこともないし、その片鱗すら感じたことなかったでしょ、誰にも」


 その、わかったような挑発的な笑み。ニッと上げられた口角に、覗き込んでくる太陽の如き目。人を見透かすようなその言動は、根っこの部分ではあの木ノ崎と近いのかもしれない。どちらにせよ、同じこと。


 ちょーむかつく。


「――ないねー」


「ハッ。けどさ、あたしがいただろ」


「――いましたけど自分で言うー?」


「言うよ。だからお前も今ここにいんだろ? 私の隣で踊ってさ」


「……じゃあゆかりんはさー、『自分よりすごい』みたいな人間今まで会ったことあるのー?」


「あるよそりゃ。世界のてっぺん、キング・レブロン」


 京手はそう言い、天を指差す。


「あー、例の人ねー。でもそれ別ー」


「別じゃねえよ。スミさ、自分で世界狭めんじゃねえぞ。お前にゃ似合わねえよ」


 その、あまりにも力強い笑み。


「世界は広いぜ。あたしもいたじゃねえか。んなら他にもみんながいるよ。みんながお前を待ってるぜ。あたしはさ、偶然たまたま運よくね、世界の頂点にレブロンっつう本物の王がいるって知った。自分より遥かに高みで、遥かに広大なてっぺんだ。あんな王がいんだからさ、世の中どんだけ広いんだって思い知ったね。したらもうそこ目指すだけでしょ。王を目指してさ、そこまで行ったら、きっとまた違う景色が見えんだぜ。したらさ、もうどれだけ世の中色んな人間だらけかってわかるっしょ。また思い知るぜ、世界の広さをさ。それはもう、最高に楽しみだろ」


 そうして見せる白い歯は、この世で最も白く輝き純潔で、純粋無垢の結晶の如く。


 この、何百何千うごめく渋谷の駅前において、彼女一人だけが存在していた。京手縁一人だけが、明らかに浮き上がっていた。それは当然世界にとって。そして何より、石住美澄の、世界において。


「だからいるぜ、残りの面子も。何人なるかは知らないけどさ、出会いの運命が待ってるわけよ。だから楽しみに待ち構えときなよ。両腕広げてウェルカムでさ、全部受け止めハグあるのみだぜ」


「――ゆかりんはさー、そういうセリフって普段から考えてたりするー?」


「いや? あたしあんま考えないからな。まあ本気で思ってることしか言わないしね」


 と京手縁は、恥も照れもなく言ってのける。


「本気で信じてることしか言わないし。全部マジよ。大真面目。真剣以外にありえないからね。切るか切られるか。一生残る言葉だけな。嫌でも残る言葉だけ」


 京手はそう言い、己の左胸をとんとんと叩く。


「あははー。ゆかりんってさー、マジあれだよねー。公害?」


「なんでよ! んな悪くないじゃん! 公害ってあれだろ? ガスとかそういうの」


「あー。汗の匂いー?」


「そっちかい。話繋がんねえなあ。なに、災害?」


「災害ねー。んー、まあそんな感じ?」


「ひでえ言いようだなー。めっちゃ優しいぜ? 優しくギュッと抱き込むよ?」


「んじゃ優しさ暴力ハグ台風だー」


「なんだそれ。まあいいや。んじゃ時間もやべえしお別れのハグー」


 と慣れた手つきでスムーズにハグに移行しようとする。が、


「ちょい待ち!」


「ぅおい、何よ今更。人前? 汗なら大丈夫よちゃんと着替えたし」


「ノーノー。はいゆかりん両腕広げてー、動かないでー」


 と石住に指さし指示され、京手は言われた通り突っ立って両腕を広げる。それを見て石住は満足そうに頷き、微笑み、自身もまた両腕を広げ京手に抱きついた。


「またねのハグー」


「おう」


「これからは行きはゆかりんで帰りは私からねー」


「そういう。オッケー」


「ゆかりんも私の熱ちゃんと覚えといてよー? 鼓動もさ。匂いは私多分ないから無理だけどねー」


「いや、めっちゃあるぞ」


「えー? うっそだー。どんな匂いー?」


 と石住は体を離し尋ねる。


「どんなってお前の匂い。スミだけの匂いだなー。もう覚えた」


「犬か!」


「どっちかっつうとゴリラかな」


「どっちか?」


「犬か猿」


「あー、犬猿……猿? ゴリラって猿ー?」


「ゴリラゴリラ」


「言いたいだけっしょそれ。覚えたての中学生あるあるー」


「ゴリラは猿だろ知らねえけど。ホモサピ? お前頭いいから知ってんじゃねえの?」


「試験に出るようなもんでもないからねー。あとでウィキでも見ますか」


「だな。いいなウィキでゴリラ調べる中学生。ぽいな」


「ぽいっすねー。んじゃハグも終わったし行きますかー」


「おう。路線別だもんなー。んじゃ次また会ったらハグ散らかしてやっから待っとけよ」


「ハゲ散らかす?」


「ハグ! ハゲたくねえわこの歳で! お前マジボケかよー。見かけよんねえなー」


「できる女はみんなを翻弄するんすよー」


「ただ迷惑なだけじゃん。んじゃまたなー」


「うぃーっす。またねー。お元気でー」


「おう。約束だな」


「ははー。また大げさー」


「大げさじゃねえよ。毎回毎回が命がけの約束だっつうの。生きてまた会おうぜのまたなだよ」


 京手はそう言い、石住の胸元にトンと拳を当てる。


「またな」


「――うん、またねー」


 石住の返事に京手は満足そうにニッと笑い、背を向けるとそのまま振り返ることなく立ち去った。石住もまた、満足そうに微笑み、背を向けホームへと向かう。嗅いだその服からは、やはりあの匂い。京手縁のあまりにも強すぎる命の匂い――そしてもしかすると酢飯のものかもしれない、その匂い。


 いや、それも違うのかもしれない。今まで嗅いだことのないこの匂いの、正体。「お前の匂い。スミの匂い。もう覚えた」と京手は言った。自分の匂い……あるなどと思わなかった、自分だけの、匂い。


 この匂いの正体。それは二人の匂いが混じったものかもしれなかった。


 出会い。その化学反応、ケミストリー。



 ――よく世界に色が戻ったとか言うけどさ―。


 と石住は思う。小説とかでよくある文句。悲しい出来事で世界から色が失われた主人公が、様々な出会いでその色を取り戻していく。そういうよくある比喩、表現。このモノクロの世界に色が戻った。世界はこんなにもカラフルだったのか。そういう陳腐な、よくある言葉。


 ――でもこちとら匂いっすよー。しかも酢飯か汗の匂い。ロマンの欠片もないよねー。まあゆかりんらしいけどー。


 臭いはあった。当然だ。例え石住の家が限りなく無臭に近かったとはいえ、それでもそこに臭いはあったし、家の外では当然に。嗅覚も限りなく正常どころかそれ以上に発達していた。匂いの有無。無臭の世界に、匂いが生まれた。そういう話ではない。


 特別な匂いができた。そしてそれはそのまま、これまでなかった唯一無二の特別な存在が、できたということ。


 それが例え酢飯の匂いだろうとなんだろうとどうでもいい。確かなこと。揺るがぬこと。


 石住美澄の人生に、京手縁という存在が刻み込まれた。



 魂の鼻孔に、永遠に。





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