第十三話 この存在に意味がある
エアの三人は急いで着替えを済ませ、舞台袖に戻ってくる。汗は拭いたが熱はまだ体に残っているからか、夜が迫る涼しくなった風が心地よく感じられた。空を焼く夕が西から徐々にやってくる。一日の終りが近い。祭りの終りが近い。
ヘッドライナー。ディフューズのステージが、近づいている。
既に他の二つのステージ、ライトアイズ・ステージとサードアイズ・ステージでの演目は終了している。残すは一番大きなこのメインステージ、レフトアイズ・ステージでの、正真正銘の大トリ、ディフューズのライブだけだった。
隙間からチラッと見えただけでも、ステージの前に集まる人の海はこれまでと比較にならない。他のステージが終了し、おそらくフェスに来ている全ての人間がこのステージの前に集まっているのだから当然であった。その数はざっと三万。地平線を隠すほど、果ての果てまで人の体。肉。そしてその顔には――歓喜の終焉を切望する笑み。
熱が違う。夜が迫り肌寒さすら感じる中、そこだけ真夏の熱が充満している。何万と集まる三六度の肉体が発する熱を考えれば当然であったが、それだけの話ではない。物理的なものだけではない。目に見えない、数値化できない、人間の感情が発するエネルギー。その熱。
おそらく人が死んだ時体から失われるという21グラムの、その正体。
63万グラムの魂が、乱反射の顕現を待っていた。
すごい、と黒須野は思う。考えてみれば、これをこちら側から見るのは初めてのこと。自分が生で見たあのアリーナ、あの時も三万近い観客がいたが、自分が見たのはその観客の側から。それにこんなに隙間なく密集していたわけではない。客席の照明も暗く、こんなにはっきりと人の体が見えているわけではなかった。だから思う。
三万もの人間の肉体が集まるというのは、こういうことなのか、と。
黒須野はゴクリと生唾を飲み込む。数は無論、自分たちの時と何倍も異なる。その物理的な圧だけでも比べ物にならない。けれども、物理的なその圧だけではない。もっと別種の、津波のように迫り来る、押し寄せてくる感情の圧。熱。
三万の人間の、恋い焦がれ激しく脈打つ心臓。それで駆け巡る血潮の熱。
これが欲しい。これこそが求めているもの。あの光に、景色に、触れるための最低条件。その一つ。
この熱と、心臓と、一体になったとしたら、
果たしてそれは、どのような脈を打つのだろうか。
*
「おう、間に合ったか」
京手がそう言い、ニッと笑って三人を迎える。その表情には無論変化などない。この景色も、熱も、三万という人の海も、彼女らにとってはあくまで日常。あのステージの上までの間には、越える敷居すらありはしない。
「お前らのおかげでばっちり温まってっぞ」
京手はそう言い客席の方を親指で指す。
「……いや、それ全部ディフューズのみなさんの力ですよね」
黒須野はさすがに苦笑を浮かべそう返す。
「それだけじゃないのよ。全部バトン受け継いでここまで来てんだからさ。ちゃんとあんたらが宿した熱も残ってるよ。それがあるからさ、ちゃんと冷めずにここまで繋いで温まってんじゃん」
「……なら、良かったです」
「な。ほんと良かったよ、あんたらのライブ。まーたいい曲もらっちゃったね。こう、見ててさ、あーこいつらはもう大丈夫だなって、このまま行くとこまで行くわって思ったよね」
京手はそう言い、ケラケラと笑う。
「しっかし十子結構MCできんなー。全然いつもの後輩キャラとは違うじゃん。やるねぇ」
「いえ、まぁそりゃ、みなさんと話す時も同じようにはいきませんし」
「いいのよんなの気にしなくて。バリバリ砕けちゃってさ。まーあんたら三人だと必然的に十子がやるしかない部分はあるだろうけどね。ちゃんと温めてたし回してたよ。上出来上出来」
「ありがとうございます。縁さんにそう言ってもらえると、すごく嬉しいです」
「ははは。じゃあじゃんじゃん褒めてあげないとな。真も良かったじゃん。リーダーの仕事してたよ。あんたが喋るとさ、引き締まるよね。みんなの意識を強制的に奪ってさ。拙いとこも含めて最高。まーた何人も落としちゃったねありゃ」
「はは。うん、まぁ、結果オーライなら良かったです」
「あんたらしいねー。晃は、まー思ってたよかマシだったからいいんじゃない?」
「そうですか。ならよかったです」
「いや、というかあれで大丈夫でした? こっちもかなりソワソワでしたけど」
と黒須野も聞き返す。
「いいんじゃない? そのうちみんなもわかってくるでしょ。あれでも晃にしては割りと普通に喋ってた方だって。ま、とにかくさ。いいもん見せてくれてあんがとな」
京手はそう言い、ニッと、どこか狂気を孕んだ笑みを浮かべた。
「お礼じゃないけど、最高のもん見せてやるよ。おめでと。伝説の目撃者になれっぞ。全部完璧に整っちゃってるからね」
京手はそう言い、天を指差した。屋根のある袖からは見えぬが、その先には、夕に焼かれた空が広がっている。それから京手はわしゃわしゃと黒須野の頭を撫で、ディフューズの三人の方に振り返る。
「さーてんじゃ行きますか。のがせねーぜこの夕日。正真正銘最初で最後だ。記念すべき一回目もそのトリも最初で最後。二度目はねえ。全部うちらのもんよ。最高だねぇ。堪んねえよなあ要?」
「たりまえでしょ。これで滾らねえなら存在になんの意味があるんすか」
「ハッ、いいねー」
京手はそう言い、三穂田の体をギュッと抱く。それから彼女の頭に手を置くとぐっと自分に引き寄せ――そして互いの額を合わせる。
「愛してんぜ要」
「……愛してますよ先輩」
「よし。殿ー」
続き、新殿、石住ともハグをする。いつも通りの、戦地へ赴く前の儀式。
「愛してるよ、ほんと。今日も一緒に生きてさ、そんで伝説作ろうぜ」
京手のその言葉に、三人はそれぞれ黙って頷き答える。
没入の、狂気の表情。見開いた目で、三穂田要。
不敵に口角を上げ、確信だけを携えた笑みで、新殿舞。
そして、世界で唯一京手縁の隣を許された人間。最強による勝者の笑みは恐怖心すら抱かせる、石住美澄。
ここから先は、言葉はいらない。四人の間に、言葉はいらない。
全ては愛。一つの人生。京手縁の、王の儀式によって、王国の統一がはかられる。
ただ、一瞬一秒爪の先まで、己の命を使いきれ。
さあ、乱反射が顕現する。
*
SEが流れる中、新殿が姿を現す。瞬間、上がった歓声は空を割り、この海浜公園がある小さな島をも割ろうとするものだった。
続き、三穂田要。石住美住。そして京手縁。何度でも、王の帰還。ボルテージは最高潮。それは誰の目にも明らかだった。その熱は、きっと足元の芝すら焦がしている。歓声で巨大な風車が軋んでいる。きっとこの歓声は海を超え、対岸にだって届いてるだろう。
ディフューズだ。押しも押されもせぬ、国内最強のアイドルユニット。至上の輝き。人が到達できぬ異世界の光の乱反射。その四人が、ファン感謝祭、ファンに、人々に、「私」に感謝を照りつけるための舞台に立つ。
みんな、この瞬間を待っていたんだ。すごく、すごく。
四人は各々手を降ったり微笑んだりし、位置につく。いつも通りの、何の演出もない登場。しかしそれだけで十分。彼女たちに演出など必要ない。姿を現す、ただそれだけで世界に光を散りばめる。拡散する乱反射。演出などなくとも、待望するファンの声や涙や表情が、なによりも物語を作る。
四人は、言葉は発さない。最後に出てきた京手が位置につくと、笑みを浮かべながら何やら小さく頷きつつ観客を眺める。そうして三人を一人ずつ眺め、その度小さく頷き、正面に向き直ると――それと同時に、四人が構えた。ダンスの前の、ポージング。静止。集中の潜水。
音が消える。三万の群衆が、示し合わせたように一切の音を発さなくなる。
風の音も、風車の音も、まるでどこかに吸い込まれ、消えてしまったかのように。
一瞬の、間。時間と空間の静止。それを、その場にいる何万が同時に体験する。
続き、乱反射が訪れた。




