第二話 ひたすら
春休みが終わった。必然的に訪れるのは新学年、新学期。黒須野と五十沢の二人は新高校生。五十沢の場合は中高一貫なのでさほど大きな変化はなかったが、黒須野にとっては通学路も学び舎も交友関係も、何から何まで変化する節目だった。
そうして高校初日を終えた黒須野の様子は、ひどく疲れたものであった。
「随分お疲れみたいだね」
と迎えに来た車の運転席で木ノ崎が言う。
「えぇ、まぁちょっと」
「そう。どうだった初日? 友達できた?」
「……一応、ですね」
「なに、やけに歯切れ悪いじゃない」
「いやまぁ、友達っていいますか、変な奴に絡まれたっていいますか……」
「アイドルやってるせいで?」
「一応それもありますけど、というよりは単にすごい馴れ馴れしいって感じですけどね……とりあえず銀髪です。染めたやつ」
「そりゃすごいね」
「悪いやつではないんですけどね。やたらうるさいですけど。他の人達は全然普通ですし、でも一人だけ没落令嬢とかいう人いましたけど」
「ははは、キャラ濃すぎだねー。まー友達できたみたいで何よりよ。これさ、入学祝い」
木ノ崎はそう言い、薄い封筒のようなものを渡す。
「あ、すみません。ありがとうございます」
「これくらいはしないとだしね。僕ら四人からだから。何にするか迷ったけどさ、やっぱ無駄にならないものがいいよねーってことで図書カード。高校生になったんだし参考書とか結構入用でしょ。少ないけど使ってよ」
「すごい助かります。ありがとうございます。これもちろん二人にもあるんですよね?」
「そりゃね。このあと安積さん迎え行ってスタジオ目指すけどなんかある?」
「いえ、大丈夫です。晃は乗せてかないんですか?」
「時間とスタジオの場所の関係でさ、五十沢さんは真っ直ぐスタジオの最寄り駅行ってもらったほうが早いからね。君らが学生である以上時間は無駄にしたくないしさ。そういうルートよ。てことで僕の代わりに安積さんとは随時連絡とってね」
木ノ崎はそう言い、出発した。
「今日は木ノ崎さん一人なんですね」
とセダンの後部座席から黒須野が言う。
「迎えはね。二人は他の業務もあって忙しいからさ。もちろんスタジオには来るけど。僕は彼らがやってるマネージメント業務とかはできないからね。こういう役は進んで引き受けないとなのよ。まー今後はアッシー君が僕のメインの仕事かな」
木ノ崎はそう言いへらへら笑う。
「そうですか……あの、アッシー君ってなんですか?」
「あー、そりゃジェネレーションギャップだもんね。昔そういう言葉があったのよ。君が生まれる前のバブルの頃にさ、車持ってて送迎するためだけに呼び出されて使われる都合のいい男のことでね。移動のアシとか言うじゃない。だからアッシー君。まー僕も物心ついた頃にはバブルなんて終わってて言葉だけ残ってるって感じだったけどさ」
「はぁ……それは確かにすごいジェネレーションギャップですね……」
黒須野は改めて歳の差というものを感じ、苦笑いするのであった。
*
四月の一ヶ月は怒涛、という意味では今まで以上という日々だった。
進学、新学期。新しい学校、新しい教室、新しい面々、新しい勉強。初めてのレコーディング。日々のレッスン。五月頭のファン感謝祭で初めて見せる三曲目の練習。デビューシングルの発売に伴う諸々の写真撮影。
とにかく学校と仕事、それだけの日々。その中で改めて感じるのは「自分たちはあくまで大人たちが用意したレールの上を走るだけ」という事実。初めてのレコーディングもまた、黒須野にとってはそう感じるものだった。
初めてのレコーディング。初めての録音スタジオ。それは画面越しでは幾度も見てきた「あちら側」の世界。プロの世界であり、「業界」を象徴するような空間。彼女が足を踏み入れたそこもまた、画面越しに幾度も見てきたのと同じ、イメージ通りの録音スタジオ。何をするのかよくわからない巨大な機械に、無数のつまみ。大きなガラスの向こうに、マイクと空間。
ライブとは全く違う形で、これもまた紛れもない「アイドル」の世界だった。
放課後の限られた時間。録音はすぐさま行われ、次へ次へと進んでいく。そこには情緒などなく、余韻もへったくれもありはしない。
歌う。指示がある。その要求に答えられるよう歌う。また指示がある。そういうことの繰り返し。ガラスの向こうで行われる、エンジニア等スタッフの大人たちによる会話。そうして出される方向性に沿うよう、自分なりになんとか修正していく。そこには自分の意志、欲求などありはしない。そこに行け、ここに来い。それを実現できるよう、必死に。無論自分で明らかに失敗したとわかるときは自ら録り直しを願うことはあるが、それとは話が別であった。
これは仕事。期間内にできるだけいいものを完成させるという、そういう仕事。そこに自分の望みが介入する余地はない。少なくとも今の自分には、そんな余裕も力もない。歌う、歌う、繰り返す。そうして走り、ゴールを目指す。大人たちが敷いたレールの上を、ただひたすらに。
そうした作業の繰り返しの果てに、一曲目のレコーディングが終わる。初めてのレコーディング、加えて指示のままに何度も何度も歌ったため、もはや自分では自分の歌なのに何がどうなってるのかわからない。何がいいのか、上手いのか。今のはどうだったのか。求められているものはなんなのか。何が正解なのか。ただひたすら手探りに。そうしてできたものは、どうなのか――
出来上がったものを聴く。それはいい。いいのはわかる。はっきりプロの仕事としての商品として完成されている。自分が普段聴くような音源となんら遜色ない。自分の声も歌も、悪くないと思う。無論他の二人の歌も、自分が今まで横で聞いてきたものと変わらない。紛れもなくこれは自分たちの、エアの「いつか」だと思う。
けれども、何かがよくわからない。直後だからか、はっきりとした感触がない。実感がない。自分たちが今ほど歌ったものなのに、どこか遠くのもののように感じる。
そう、遠く。なんだか自分たちの手から離れてしまったような感覚。
「どう? 初めてレコーディングしたの聴いてみてさ」
と木ノ崎が尋ねる。
「そうですね……なんかこう、すごく、変な感じです……」
と黒須野は少しボーっとして答えた。
「――あ、いや、別に悪いとかそういう意味ではなくてですね、その、なんていうか、変っていうのはこっちの感覚で……実感がないっていうか、なにかこう、すごく感触がない感じがして……すいませんなんか変なことばっかり言って」
黒須野はそう言い、エンジニアらに向かって頭を下げる。
「いや、大丈夫だよ。そういうのわかるから」
とエンジニアは笑って答える。
「シンガーソングライターとか自分らでプロデュースもしてるバンドとかなら自分たちで自分たちの目指してる音に、っていう作業っていうか工程があるけどさ、君たちの場合は別だしね。もちろん慣れてきたらもっとこう歌いたいとか、そういう提示もできるようになってくると思うけど君らは初めてだしさ。ライブみたいに体動かしてこの一回ってのもないし、最初はなんか感触薄いなーみたいな人は多いと思うよ。ま、ちゃんとCDなればまた別だと思うしさ」
「そうだね。実際物として手に取ればまた別かもしれないし。こういうのは時間かかるのかもしれないしさ。逆にそれがないからこそライブで、ってなってもかまわないわけだし。とりあえずはね」
と木ノ崎もへらへら笑って言う。
そういうものか、と黒須野は思った。初めてのレコーディング。憧れの、プロの世界。けれども実際そこに立って思うのは、拍子抜け。というよりは、ただ流されて流されて、気づいたら終わっていたというようなもの。大人たちが敷いたレールの上を、自分の脚で走ったという実感すらない。ただ乗っていただけ。そうして運ばれただけ。
でも、考えてみればそれは元からそうだった。
レコーディングに写真撮影にビデオ撮影。主観的には「流されて」いくだけの、全てを大人たちが用意した、お膳立てされた上でというものが続いていく。もちろんその中で素人――否、新人なりに必死にベストをこなす。プロの話を聞き、それを実現させるという形で自分もまた「プロ」の仕事を成し遂げようと努力する。郷に入っては郷に従え。当たり前の話だ。デビューしたとはいえ、ライブもこなしたとはいえ、自分はつい数カ月前までただの中学生。大人の、プロの言うことを信じてその上を必死に走っていく他ない。
とはいえ、やはり安積や五十沢の様子は違った。安積の場合はモデルの仕事で「プロの現場」というものを経験しているだけあって、それがレコーディングなどに変わろうとある種の慣れのようなものはあった。
しかし彼女の場合はまた少し違い、そこにはある意味で「慣れ」など感じさせない何かがある。慣れとは時間の経過によるものだ。慣れていないという初期状態から、経験を経過して「慣れた」という状態へ移行する。安積の場合はそれがない。そういう途中経過を一切感じさせない。矛盾ではあるが「最初から慣れていた」、そうとしか思えない挙動。
堂々、物怖じせず、というのはもはや彼女にとっては当たり前なのだが、初対面であるはずの異業種の大人のスタッフとも平気でコミュニケーションをとる。無論彼女もまた一種の「天才言語」を話すため伝達が常にすんなりいくわけではないが、彼らが求めているものを理解しそれを即座に提示する能力には非常に長けていた。撮影においてはそれが特に抜きん出ている。
そうした安積の様子を見ていて、黒須野は以前彼女が言っていた言葉を思い出した。
「たった一人の、視線だけ」
安積真は他人の視線を気にしない。否、彼女曰く、そもそも他人の視線というものが存在しない。他者からの目、外部からの目という意味で言えば、たった一人からの視線以外、存在しない。感じるのは、その視線だけ。気にするのも、その視線だけ。その目に、その視線に、どう見られているか。それだけ。
それはつまり、自分にとってたった一つの正解がそこにあるということ。それだけを目指す。だから安積の仕事の有り様には、迷いの類が一切ないのかもしれない。黒須野はそう思った。
一方で五十沢のあり方もまた特殊だった。基本的にこの天才はその才能と力ですべてをねじ伏せる。無理やり相手を納得させる。初めから完成を叩きつける。無論、ダンス以外は彼女の文句なしの得意分野というわけではない。しかし体を使うという点では一緒。五十沢晃が五十沢晃の体を使う以上、それがどんなものであっても瞬時にイメージ通りを叩き出す。歌とて体を使う以上同じこと。ものの数ヶ月ですでに恐ろしく上達している。
スタッフとのやりとりもまた特殊。本物の「天才言語」の使い手たる彼女が初対面の相手と意思疎通を図るというのは恐ろしく難しい。木ノ崎という天才言語の通訳者がいるとはいえ、今後も常にいるとは限らず、そもそも自分はいずれ抜けると言っている以上五十沢一人でできるようになってもらわねば困る。とはいえ15年もの間天才言語のみを話し、そもそも天才が故その思考と出力に言語を介していないために天才言語が生じているので、それ以外で話せというのはどだい無理な話。
そこで五十沢が行ったのがハナからパターンをいくつか提示すること。イメージ通りのパターンの切り替え、表現は彼女にとってはお手の物。そうして提示したものからどれに近づけていくかを問い、そのグラデーションの中を実行によって探っていく。そういういわばしらみつぶし。とはいえそこは彼女も天才。繰り返せば自ずと求められている「正解」への試行回数は減っていく。相手が言う言葉が自分にとってのどこを指しているのかも認識していく。ともかくどこまでも言葉ではなく体での実践であった。
撮影の場合はまた異なる。ビデオにせよ写真にせよ、五十沢を撮影するにあたって直面する問題は五十沢が「笑わない」こと。
五十沢晃は笑わない。笑う以前におよそ感情というものを顔に表さない。そもそも表情というものがほとんどない。しかし、ここでもやはり彼女は体の人。自身の肉体を操作することにおいては真の天才。それは表情とて同じこと。練習すればいかなる表情も再現できる。そこに感情がないだけで。
今までは表情を作る必要がなかった。必要も感じなかった。だから表情などなかったし、作らなかったし、作る練習もしなかった。しかしアイドルではその必要もある。そうして練習し、会得する。
しかしやはり、それは彼女には似つかわしくないものだった。
「まぁ、私たちからすれば違和感しかないけど、でもそんな不自然でもないし……でもやっぱりこう、単純に似合わないっていうか……」
「だね。晃ちゃんはそもそもがクールなキャラみたいな感じだし」
と安積も五十沢の作り笑いを浮かべた画像を見ながら言う。
「どうせ表情作っても喋ればすぐボロ出るんだしね」
「でも会話とかも練習すれば多分普通の真似できますよ」
と五十沢。
「は? ほんとにそんなことまでできんの?」
「はい。前にちょっとやってみましたけどあれ全然体使わないから面白くないんですよね。だからやりたくないんですけど」
「じゃあやんなくていいでしょ。あんたにやりたくないことやらせたらどうなるかわからないし」
「そうですね。じゃあ顔は普段通りでいいんですか?」
「私たちはその方がいいと思うけどね。カメラマンさんもいることだからなんともだし、アー写なんかはそのまんまユニットのコンセプトを全面にって感じだから木ノ崎さんが最後に選ぶんだろうけど、でもあの人ならどう考えてもそのままでいいって言うでしょ」
「なら良かったです。表情も一応体ですけどここだけだから全然面白くないんですよね。動かないですし」
「あんたほんとそれしか判断基準ないのね……」
黒須野は呆れながら溜息をつく。
そのようにして、結局木ノ崎やカメラマンの同意もあり五十沢の表情はいつも通りそのままとなった。むしろ明らかな作り笑い、口だけニッとし目が笑っていないようなもののほうが「らしい」ということで。
なににしても仕事は増える。東京アイドルコレクションもあり知名度も上がる。週末にはプロモーションのため都内各地でのゲリラライブ(木ノ崎曰く辻ライブ)。音源配信・CD発売の発表。それらにつれ一層知名度も上がる。自ずと黒須野も学校やそれ以外の場所で声をかけられる機会も増える。
それは奇妙な感覚だった。自分は特に何かをしたという実感もないのに、名前だけが一人歩きし広がっていっているような感覚。ライブによるある種相互関係の認知とは違う、いわば肉感のないもの。ただ乗って、レールの上を、それだけで気づいたらいつの間にか、という感覚。
なににしても、自分は何もしていない。何もしてないも同然だ。それは元々そうだ。最初からそうだ。そもそもがたまたま木ノ崎さんに見つけてもらったから始まった今。エアだからこそ、木ノ崎さんとあの二人がいたからこそこれほどまでに早くここまで来れたという過程。
だから、勘違いするな。自分はまだまだ何者でもない。自分はまだ、自分の手では全然何もしていない。あの二人のように最初から何者かであり、当たり前のように何者かとして世界に出現しているわけでもない。自分はまだ、その尻に乗っかっているだけ。金魚の糞。
だから勘違いするな。そして自分の手で、自分を穿て。世界に穿て。刻み込め。私の存在を証明しろ。私がエアの三人目ではなく、黒須野十子という一人のアイドルだと、証明しろ。
自分の手で、確固たる自分を手にするんだ。
日々闘争。繰り広げられる辻ライブ。街角の雑踏の中、踊る彼女。
ただひたすらに、必死だった。




