第八話 荒野を彼女と歩きたかった
レッスン室。壁一面が鏡張りで、床は板張りの部屋。三人は運動着に着替えている。その前に、一人の女性が立っていた。
「黒須野さんは初めましてだね」
とその女性が言う。
「はい。黒須野十子です。よろしくお願いします」
「よろしく。このチームのダンストレーナーを担当してる舞台田です。舞台はそのまんま、ステージの舞台に田んぼの田。まぁ踊るために生まれてきたような名前よ」
舞台田はそう言いケラケラと笑う。歳はおそらく三〇代。引き締まっていていかにも「ダンストレーナー」といった体だ。
「一応軽く情報は聞いてるから。オーディション受ける前にほぼ一年みっちりダンストレーニング受けてたって? ストイックだね」
「はい。いえ、その、できないまま受けるのは自分で許せなかったので」
「はは、それがストイックだよ。負けず嫌い。いいことだよ、自分に対する高い要求。まあここだともっと必要だろうけど」
舞台田はそう言い、五十沢をあごで指す。その意は無論、「これがいるから」である。
「じゃー木ノ崎さん、早速三人でじゃんじゃん合わせてくってことでオッケー?」
「うん。見せるとこに見せるために色々早めに仕上げないとだからね。黒須野さんオーディションの時ディフューズの『リフレクション』踊ってたけどあれ一番自信ある?」
「はい」
「んじゃそれでやってみよっか。二人もまだ一ヶ月だけど主にディフューズの曲やっててもらったからさ。自前の曲なんてあるわけないからね。立ち位置、は最終的には任せるけど黒須野さん左でいい? そういやずっと安積さんが右だったからさ」
「はい、大丈夫です」
当たり前だけど、迷いなどなく、疑いの余地なく、不動のようにセンターは彼女、五十沢晃。
「ちなみに集団で合わせて踊るのは初めて?」
「いえ、一応ダンススクールで何度かあります。『リフレクション』でも何度か。でもそんなに多くないですね。いつも同じメンバーってわけでもなかったので」
「そっか。じゃ、舞台田さんよろしくね」
「はい。じゃあ黒須野さんは最初は合わせるとかあんま考えないでさ、自分のベストの踊りをしてね。んじゃ曲かけるね」
その言葉で黒須野は目をつぶり、息を吐く。そうして顔を上げ、目を見開く。
視界に入るのは、目の前の鏡に映る五十沢晃。
瞬間、黒須野は笑った。
――なにそれ。立ってるだけで、まだ曲が始まってすらいないのに、なに、その、入り方。
もう、笑うしかない。
空気がそこだけ違う。時間の流れが、そこだけ違う。その表情は、集中、没入を超えた、もっと深く隔絶されたなにか。
しかし黒須野はその事実に、幸福しか感じない。喉の奥から、熱いなにかがこみ上げてくる。
凡人による、天才への挑戦。これほどの喜びはあるだろうか。
あんたを目指してけば、嫌でも五段飛ばしであそこに届く。はるか、その先まで。
曲が、始まる。
*
「――はいオッケー。じゃあ次は同じのをさ、他の二人に合わせる意識でね、黒須野さん」
「はい!」
黒須野は威勢よく返事をする。休憩はない。それはそうだ。本番になれば三曲以上、長い時には二〇分近くパフォーマンスを続けるくらいは当たり前。おまけに歌も歌うのだ。これくらいで休憩など、必要ない。
(にしたって、二人とも全然息切れてないじゃん。五十沢なんて今さっき踊ったなんて事実存在しないくらいにケロっとしてるし……)
負けは、むかつく。遅れも足手まといも、むかつく。でもそれは確かにある。なら少しでも早く、追いつくだけだ。
再び曲が、始まる。
合わせるとなると先程とはまるで違う。自分だけに集中し、自分だけを見れていたが、より視野を広く、他の二人を、空間を、全体を意識する必要がある。
それは無論、どうしたって、嫌でも五十沢晃のそれを目にすることになる。
(決定的に違う……細部も、根本も。全部が次元として。言語化できないけど、見れば一目瞭然……)
黒須野は息を吐き、天を見上げる。
「オッケー、いいよ黒須野さん。今の時点では及第点。かなり仕上がってるよ。ただやっぱり集団で合わせるのはまだ不慣れだね。晃はどう思った?」
「そうですね――目で見て、合わせようとして、頭からこう、いくから遅れるんじゃないですかね」
五十沢はそう言い、頭から首、腕、と指でなぞっていく。
「あとはやっぱり合わせるってなってるから、そればっかりで、高さとか位置とか全部ズレてるんじゃないですか?」
黒須野はその言葉に、寒気すら感じる。
そんな、踊りながら見てもわかるくらいズレてたの? というかあんた、あんな踊りながらそんなとこまで見えてたの? そういう思いは押し隠し、恥を忍んですぐに尋ねる。
「具体的にどこがどうズレてた?」
「それはまぁ、ここがこうとか」
五十沢はすぐさま踊りだし、体でその僅かなズレを次々と再現していく。そのほとんどは、黒須野自身全く気づかぬ点ばかりであった。
はったり、なわけはない。でもそれが全て事実とはとても思えない。目も、記憶力も、再現力も、全てが事実なら、常軌を逸している。
「あとは二回続けてだったからってのもあるかもしれないですけど、全体的に軸がブレてましたね。バランスっていうか体幹っていうか。合わせようとしてってのもあるかもしれないですけど」
「そんな、見てはっきりわかるくらいだった?」
黒須野は、思わず言葉を漏らしていた。
「私はわかりますけど、他の人がどうかは知らないです。でもそれは真ちゃんも同じなんで。十子ちゃんのほうが色々ズレが激しいってだけで」
「そっか……ありがと」
ていうか十子ちゃん? 真ちゃんもだけど、あんた全然しゃべんないし敬語なのにしょっぱからいきなり下の名前ちゃんづけなのね……とギャップに驚く黒須野。
「ま、このユニットはほんと幸運だよね、晃がいて」
と舞台田が言う。
「この子ちょっと目が良すぎるからさ。高画質ビデオのスロー再生くらいの確認はその場でサッとだし。再現性異常だし。こんなの私も初めて見たよ。まぁその分言語化は小学生レベルだけど。いつでも視覚的肉体的な最適解を見せてくれる。もちろんその過程を教えるってなると全く別の話で不得手だけどね。で、そういう天才の存在は不運でもあるよね」
舞台田はそう言って笑う。
「二人とも上手いよ。十分才能もある。練習すればまだまだ上まで行ける。でも晃との差は明確にある。誰が見てもわかるくらいに。その比較で本来より不当な評価をされる可能性もある。もちろん見る人が見ればちゃんとわかるけどさ、君たちを見る大多数の人は『見えない人』だからね。それにその差はどれだけ練習しても広がる一方だって可能性もある。上達の速度が違うから。
――そこでだけど、黒須野さんどっちがいい? 晃に合わせてもらうのと、あなた達が晃に合わせる、というよりそのレベルまで行くのと」
舞台田はそう言い、天秤のように両手をかかげる。
「前者はもちろん、問題なくできるよ。『完成』までの速度も早い。近道みたいなものかな。すぐに『それなり』になれるし、二人が上昇することで全体の質も上げていける。ただもちろん『その程度』だし、なによりつまんないから晃が飽きて辞めちゃうかもね。で、後者は――楽しい地獄」
舞台田はそう言い、ニッコリ笑う。
「誇張一切なし、冗談抜きで異次元レベルの天才への挑戦。毎日毎日ひたすらに果ての見えない荒野を歩き続けるような地獄。目指す先行者の影すら見えず、自分がなんのためにこの荒野を歩いてるのか思い出せなくなるような、そんな地獄。手応えなんていつまでたっても一切なし。踊るという行為が全て彼女との比較になって、及ばないという事実を、敗北という事実を突きつけられるだけの行為になる、そういう日々」
「――見てきたみたいな言い方ですね」
「まあね。知ってるから」
黒須野の言葉に、舞台田はニッコリ笑って返す。
「これと同じようなのを知ってるから。正直現状才能だけなら晃の方が上かもしれないけど、でもあいつも本物の天才だったね。私はそれが許せなくて、挑戦して、挑戦して、負け続けた。全戦全敗。で、それと戦うことは辞めた。踊るのも辞めようかと思ったよ。意味がないと思ったからさ。そんなことないんだけどね。とにかく、私はそれがどういうものなのか、実際あの荒野の乾きを知ってるから」
「――でも、楽しい、ですよね」
と黒須野は言う。
「……うん、楽しい地獄だよ。途中までは、だったけど」
「それでも一択です。私は最後まで楽しみます。乾きも別に、前からずっとありましたから」
「うん、そっか」
「はい。乾きは私の根っこなんで、それがなくなったら、自分じゃなくなるんで。それに、退屈な天国より楽しい地獄ですから」
それは宣言。誓い。照れるな。恥ずかしがるな。正々堂々胸はって、言葉で自分を決定づける、そういう行為。
「そっか――よし、んじゃやるか! 打倒五十沢晃! ぶっ倒そう! ってことで晃! 私は十子につく! やっつけてやるから見てろよ!」
舞台田はそう言って十子の肩を抱き、五十沢を指差す。
「いいですね楽しそうで」
「ほら見たか十子? あいつのあの余裕。むかつくよな!」
「むかつきますね」
「ほんとですか? 嬉しいです」
と五十沢は珍しくわずかに笑みを浮かべる。
「え、なんで嬉しがってるんですかあれ?」
「知らん。多分まともにむかつかれたことがないからでしょ。天才は遠すぎてむかつかれすらしないもんなのよ。与えるのは怒りじゃなくて恐怖や不安だけ。あいつも似たようなこと言ってたし」
「あーなるほど……ちなみにさっきから言ってるあいつって私達も知ってるような人ですか?」
「松舞うてな」
松舞、うてな。UTENA MATSUMAI。その名を知る者は、果たして世界で何億いるのか、想像すらつかぬほどの有名人。世界でも三本の指に入る、トップの中のトップであるダンサーであり、振付師であり、モデルでもある。世界中、数多の超有名アーティストとのコラボ、MVへの出演、ダンスの提供。様々な企業とのタイアップ、CMへの出演。彼女が参加したとあるアーティストのMVは世界でゆうに二〇億回以上再生されている。現代世界の視覚情報あるところにUTENAあり、とまで言われるような、至上の存在。
「あの、ダンサーのですよね、世界的な、すごい……」
「そ。ニューヨークのスクールで一緒だった。お互い苗字が舞ってるし、日本人だしね。まぁ、本物のバケモンよ」
それを、身近で見た人が、それに挑んだ人が、「才能だけなら上かも」と評する五十沢。
それに、隣で挑める、喜び。
「よし、じゃあ決まりだね! 真、十子。晃のとこまで行くのはそう簡単じゃない。自分を高め続けながら、そのつど現状の中でベストの三人のダンスを目指していく。あくまで三人で踊るのよ。上手い下手だけじゃない、もっと別の次元での調和がある。そんで晃。あんたはそのままでいい。あんたの役目は二人に合わせることじゃないし、二人に合わさせることでもない。二人を引き寄せるダンスだ。誘導すんのよ」
「導線ですか?」
と五十沢が尋ねる。
「無論それもだけど、てかあんたそこまでできんの?」
「真ちゃんとやる時はたまに試してました。人の体なんでそんな簡単にはいかないですけど少しはできてましたね」
「あの、なんの話ですか?」
と黒須野がさすがに口を挟む。
「あー、うん。簡単に言うと自分の動きで相手の動きを誘導するって感じ」
「……意味がわからないんですけど」
「うん、そういう次元の話だから。まぁ、教えるっていうか導くっていうか……そういう感じ?」
「……了解です」
「つまり五十沢さんが私の体を操ってたってこと?」
と安積が尋ねる。
「そういうのじゃないですよ。なんていうかその……熱いの触ったら『あつっ』ってこう、なるじゃないですか」
と五十沢はジェスチャーをする。
「ああいう感じです」
「反射?」
「そうですね」
「なるほど、わかった。うん、すごいね」
安積はそう言い、どこか納得した様子で微笑む。
「――すいません、あの会話もちょっとわからないんですけど」
「うん、真もちょっとすごい部分あるからね……まぁでも、最後の一人が割りと普通でよかったよほんと。ほら、木ノ崎さんもあれだし」
と舞台田。その言葉に、黒須野は苦笑いする他なかった。




