嫉妬、林檎、医者(医師)
一ノ瀬医師は苦悶の表情で、目の前に置かれた林檎をみつめていた。
事の発端は30分前。
二ノ宮看護師の発言だ。
「先生は、どうして林檎がお嫌いなんですか?」
首を可愛らしく傾げてそう尋ねる二瀬看護師の言葉で、一ノ瀬医師は初めて、自身が林檎が嫌いなのだと自覚した。
(どうして、と言われてもなぁ)
前述の通り、つい先頃自覚したばかりなのである。
確かに、意識して林檎を食べたいと思ったことはない。
だが食べようと思えば食べれる……そう思っていたのだが。
いざ、食べてみようと目の前に出してみると、急激に食欲が失せてしまったのだ。
これは一ノ瀬医師を大いに混乱させた。
(なんでだろうなぁ、昔から林檎を見ると、頭に引っ掛かるものがあるんだよなぁ)
(基本的に)真っ赤な実。しゃっきりとした歯触りの、心地良い音。舌に広がる甘い果汁……。
これらを一ノ瀬医師は味わったことがないのだと、今更ながら思い至る。
人が食べるところを見る分には全然、問題はない。せいぜい、美味しそうに食べるなぁとか、さぞ甘いのだろうなぁとか、その程度の感想しか浮かばない。
そう、嫌悪感は全くないはずだ。
なのに食欲が湧かないのは、何故だろう。
すでに二ノ宮看護師はいないため、このなんとも言い難い感情を、誰かに話すことは叶わない。両親が他界して久しいので、幼少期のことを尋ねる相手もーー。
「あ」
そうだ、幼少。
曖昧になっていた記憶が、単語ひとつで鮮明になっていく。
幼少。恐らく幼稚園ーーいや、小学校入学前か。
林檎、幼少、木の枝、小石、自転車、道路、車、サイレン、救急車……。
(なんで、忘れてたんだ?)
思わず叫びそうになるくらい、強烈に焼き付いていたはずの記憶だった。いや、衝撃が大きすぎて、逆に忘れてしまったのだろう。
両親はむしろ、忘れるように、思い出さないように尽力していたはずだ。
しかし記憶を忘れてしまっても、私の中に芽生えた初期衝動は、消えてはくれなかった。
「なぁ二ノ宮看護師。わかったよ、林檎が嫌いな理由!いや正確には嫌いだったわけではなくてね、うん。解釈違い、って言うのかな?ともかく、こんな偽物嫌いだ、と思っていたみたいなんだ。いやぁ、ありがとう……!君のおかげで、大事なことを思い出せたよ……」
一ノ瀬医師は足下で血を流して倒れる女性、二ノ宮看護師に向かって感謝を伝えた。
幼少の頃、私は交通事故に巻き込まれた。
とは言っても、私は無傷だったのだが。
手頃な木の枝を武器に見立てる、小さい子供の模範的な遊びを実行していた私が、偶然蹴った小さな小石。その先を丁度通りかかった、女性の乗る自転車が、それを避けるためにわずかに車道へはみ出る。ガードレールはなかった。
私から見ても、急な動きだった。
すぐ後ろに迫っていた車に気付けなかった女性は、そのまま自転車ごと車に撥ねられ、宙を舞った。
女性と目が合う。
自分がどんな目にあったかを理解していない、驚きに満ちた瞳が、真実を知らないまま、死んだ魚の目のように濁っていく。多分即死だったのだろう。彼女の身体は、すぐに地面へ落下した。
彼女を撥ねた車が、再び彼女をーー。
今度は撥ねるのではなく、潰した。
彼女の頭蓋が、グシャッと潰れる音がした。
恐る恐る、私は彼女へ近付いた。
ーーその美しさといったら!
呆然と、恍惚とした。
潰れた頭を中心に広がる脳髄と血液に、自我が芽生えて初めての興奮を覚えた。興奮のあまり、お漏らしをしてしまうほど。
事故による衝突音は凄まじく、近隣住民が何事かと外へ飛び出してきた。
私はお節介なおばさんに抱き抱えられ、両親の下へと連れられて行った。
両親はさぞ驚いただろう。意気揚々と遊びに出掛けた我が子が、泣きじゃくりながら帰ってきたのだから。もちろん、怖くて泣いたのだはなく、離れるのが嫌で泣いていたのだ。
それから両親は、私から事故の記憶を消し去るために、とにかく習い事を増やした。それまでも充分過ぎるほどだったのに。
おかげで思惑通り、私から事故の記憶は消え失せた。
しかし焼き付いた興奮は、ありがたいことに消えなかった。
赤い林檎を嫌いになったのは、この頃。もちろん無意識。
私に焼き付いた初期衝動は、私を綺麗に歪ませた。
まず両親を交通事故で潰し。
幼馴染を自殺に見せかけて潰し。
親友を不運な事故に見せかけて潰し。
級友をスカイダイビングで潰し。
同僚に薬物を盛って階段から突き落とした。
全て、うまく行っていたのだが。
同僚を殺したところを、二ノ宮看護師に見られていたらしい。
二ノ宮看護師は誰にも話さない代わりに、身体の関係を迫った。それは別に良かった。丁度、共犯者が欲しかったところだった。
二ノ宮看護師は、自分が私の特別なのだと錯覚したようだ。
職務中にも体を密着させてくる上に、他の女性看護師と業務上の会話をしただけで、嫉妬に狂って爪をたてる。さらには警察に行ってやると再び脅迫もしてきた。いい加減うんざりしていたのだ。
頭を潰せなかったことだけが、悔やまれる。彼女の潰れた頭は、さぞ美しかっただろうな。
ふと、視線を林檎へ向ける。
嫌悪しかなかった赤い果実に、今は愛情を感じた。
林檎を掴み、頬張った。
シャリッと心地良い咀嚼音と共に、甘い果汁が舌の上に零れる。
あぁ、なんて美味。
ギャグの予定だったのに。どうしてこうなった。