黒と黒
予防接種は痛みを想像する待ち時間が一番痛いと俺は断言出来る。
何故そんな事を言うのかと聞かれれば、今俺がその立場に居るからだ。
決して注射の待ち時間ではない、と言うか注射ならまだ良かっただろう。
俺が待っている時間は、柊に話し掛けなければならないタイムリミットの事を指す。
今日はゴールデンウィーク空け。
つまり柊を部室へ連れて来るまで一週間ということだ。
これが初デートの待ち時間であるなら、俺はウキウキでその時を待っている事だろう。
待ち時間とは即ち、最も楽しむべき時間でもあり、最も嫌う時間にもなり得る性質を併せ持つ非常に厄介な時間でもある。
だって考えてもみて欲しい。
自分が仮に虫歯で痛む奥歯を抑え歯医者に駆け込んだとしよう。
次に呼ばれるまで一五分……
そんな合間に待合室で読む漫画なんて、内容など殆ど頭に入って来ない事は言うまでもないだろう。
なんならチリチリと待合室で流れている名曲オルゴール集が胃をキリキリと締め上げるのだから、なおたちが悪い。
つまり何が言いたいかと言うと、ゴールデンウィークを超え、俺は特に柊に話し掛ける事もせず、日々の学校生活を歯医者の待合室で過ごす時間と同等の心持ちで過ごしていた。
決して嘘ではない小さないい訳を積み重ねて来たものの、先延ばしによる先延ばしで、そろそろ雛と辻先輩へ向けるいい訳も底をついて来ているのだから本当に打つ手がない。
正直に言おう。
柊を部室に連れて来るなど、不可能だ。
新学期が始まってゴールデンウィークが開けた現在に至っても、クラスの誰一人としてまともに柊へ話し掛ける事に成功した者はいない。
触れれば傷つくハリネズミの様なギザギザハートの持ち主には何を言っても無駄なのである。
正直、傷つくだけと分かる作業はやりたくはない。
だが、部員二人が『柊トライ』をやった以上同じクラスである俺が約束を違える訳にもいかないだろう。
聞き慣れたチャイムと共にホームルームの幕が降り、同時に決戦の火蓋が切って落とされる。
初手、7六歩也……などという将棋の様な人間関係の定石は柊真琴には存在せず、なんなら盤上ごと引っくり返して勝ちをもぎ取って来る彼女からしたら、勝負を仕掛けられた時点で俺の負けは確定しているようなものだ。
そもそもオセロと将棋での異種格闘技レベルで噛み合わないのだから、勝負になる筈もない。
だがしかし……
たとえ将棋とオセロの勝負であろうと男にはやらなければならない時がある。
さて、心の準備はこれ程に……
「あの、柊さん。ちょっといいかな?」
言葉の死に装束を身にまとい、いざ喋りかけた直後だった。
彼女……『柊真琴』の瞳が金色の輝きを宿したのは……
「柊さん……それ……」
金色の輝きを宿した瞳、それはユーフォリアを宿す事の出来る、能力発動の合図でもある。
クラス内は柊の突然のユーフォリア発動に困惑していた。
能力発動に対する学校側からの規制はない。
激しく規制を要請する学校もあるにはあるが、そんな事をするのは一部の私立校だけだ。
こと、公立高校であるこの学校においてはユーフォリアに関する規制はないが、それでも大きな差別を受けて来た『三年間の子供達』である世代の生徒は、クラスメイトの前であろうと他人の前でユーフォリアを使う事はしない。
だが何より俺が困惑したのは、彼女『柊真琴』が自身の能力発動を喜ぶように、初めて笑顔を見せた事だ。
「アナタ、名前はなんていうのかしら?」
周りの動揺など見えていないのか、瞳の輝きを隠そうともせず柊は真っ直ぐに此方だけを見つめて来た。
「由良一樹、だけど……」
「そう、由良一樹……私、一樹くんと少し話しがしたいのだけど……ここだと人が多いわ、場所を移しましょうか」
ネット将棋でクリックする場所を間違えて投了しちゃったんじゃないかレベルのスピード勝負で決着が付いた。
クラスの信じられない物を見る視線を浴びながら柊と共にあっさりと廊下へと出る。
「私、この学校に来たばかりだから、人気のない場所をよく知らないのだけれど、一樹くんは何処か二人きりになれるいい場所を知っているかしら?」
柊からの予想外の誘いだが、このチャンスを逃す手はないだろう。
「……別に構わないが、俺の用事を先に済ませてもいいか?」
「ええ、私はそれで構わないわ」
他の生徒と同じく喋りかけた瞬間に一蹴されると思っていた手前、話題の用意など持ち合わせておらず無言のまま、放課後の部活が始まる前の、慌ただしい人だかりを掻き分けながら、あっさりと柊を連れて部室棟へ向かって行く。
喜ばしい筈だ。
これでスイーツを狙った二匹のハイエナに財布を搾り取られる事もない。
なんなら、二人の無能を責める口実まで手に入れたのだから成果としては万々歳だ。
何もかも順調の筈……にも拘らず、なんだろうかこの胸騒ぎは……
強いて言うなら、出掛けた先で財布と携帯をなくしたにも拘らず、それにずっと気付かなかないままで家に帰って来てしまった時に、ポケットに何も入っていない事に気付いた時の様な、不吉な予感がしている。
部室の扉の前に立ち、一呼吸の後に意を決し扉を開けば先に来ていた二人と目が合い、その視線が後ろに居る柊真琴へと向けられた瞬間二人の表情は一変した。