変化とは別の変化を準備する
「なんか忘れてる気がするんだよなぁ……」
そう呟いたと同時に背中に人肌の温かさと重みが加わって来る。
「先輩重いです、離れて下さいよ……」
シルクの様な細くしなやかな金髪が頬に纏わり付き、シャンプーの甘い香りが鼻孔をくすぐると、何ともよくない気持ちが駆け巡って来る。
「浮かない顔をして困りごとかのう一樹?」
そもそも、俺がこの家に来る羽目になったのは辻先輩の困り事が原因だった筈だ。
だが、口もきいてくれなかった筈の弟は俺が何かするより先に喧嘩を始めていた事から察するに、本当に大した話しではなかったのだろう。
というか、アイドル好きの弟からアイドルのスキャンダルの記憶が無くなろうと、スキャンダル自体が無くなる訳ではないので、痛みは乗り越える他ない。
「辻先輩の方は、弟との喧嘩は……どうやら、もう終わったみたいですね」
「うむ!万事つつがなく終わったのじゃ!……ん?!一樹が一人でクッキーを食べてるのじゃ!のう!母よ!我の分は!我の分のクッキーはないのかの!」
弟との問題が曖昧になった今、辻先輩は忙しなく動き回りながら母親へ駄々を捏ねにキッチンへと向かって行く。
「あるわよ〜でも制服着替えていらっしゃいな、そしたら出してあげるから」
「うむ!うむうむ!分かったのじゃ!ちょっと待っとれ!直ぐ着替えてくるのじゃ!」
小躍りしながら階段を登っていく辻先輩を眺めながら、辻先輩と入れ替わりに対面のソファーに裕樹が腰を下ろした。
「すみません、ウチの姉貴が……一樹さんだって忙しいのに」
兄妹と言っても、辻先輩よりも年上の対応するのは裕樹がそれだけ苦労を重ねて来た証でもあるのだろう。
社会人になってまず身に付く究極の奥義『とりあえず謝罪』を、この歳で使いこなしている辺り、心労の程は手に取るように理解出来る。
「いや、俺も辻先輩には世話になってるからお互い様だ。それに、折角姉弟だろ?居るうちに仲良くしても罰は当たらないんじゃないか?」
そう言った瞬間、裕樹の表情が曇った気がしたが気付いた時には裕樹の表情には何時もの柔和な笑みが張り付いていた
「……そうですね、すみません一樹さん、今のは忘れて下さい」
微妙な空気になってしまった。
こんな時空気を読まない辻先輩の出番の筈だが、こんな時ばかり空気を読んだように姿が見えない。
「だが……まぁ、アレだ。そうは言っても辻先輩が身勝手なのはちょっと直した方がいいかもな、裕樹も随分苦労してるみたいだしさ」
「そう!そうなんっすよ!姉貴はズルいんすよ!何かある度にいっつも一樹さんを家に連れて来て!なんとかしてもらおうとするっすから!」
『三年間の子供達』と呼ばれる期間に産まれていなかった、裕樹はユーフォリアを持っておらず、ユーフォリア保有者はこの家では辻先輩だけしかいない。
この家で誰も理解する事の出来ない特殊能力であるユーフォリアを持つ姉と、両親と同じく一般人で能力を持たない弟では、色々と勝手が違うのだろう。
「というか裕樹、お前もお前だぞ。なんでアイドルが不祥事起こしたぐらいで大袈裟だろ。アイドルなんか最終的にはどっか知らない所で、知らない男と結婚するんだから、もうファンから見たアイドルの最終形体が不祥事みたいなもんなんじゃないの?」
ほんの軽口のつもりだった。
だが、文化圏の違う裕樹にとって、その言葉は火口にガソリンを注ぎ入れるのと同じ意味を含んでいたに違いない。
そう言った瞬間の裕樹の顔を俺は忘れない。
あえて形容するなら、全ての表情が抜けた虚無と言えば差し支えないだろう。
恐ろしく脱力した裕樹の表情には、一つとして感情が読み取れない闇が張り付いていた。