変化とは別の変化を準備する
そして明くる日の放課後、部室には不機嫌な雛と『ほれ、言ったじゃろ!』と机から身を乗り出す辻先輩の姿があった。
「一体全体なんなわけアイツ!超ムカつくんですけど!」
怒りに身を任せ読んでいた雑誌を丸め手元のお菓子に『隙ありじゃ!』と、手を伸ばす辻先輩の手を叩き落とす雛だが、何時も何事にやる気を見せない雛が珍しく起こっている訳は、今から数分前に遡る。
放課後、俺のクラス内でホームルームが終了し柊が真っ先にクラスを後にした。
いつも通り誰ともつるむ事もなく、会話を交わす事もない。
クラスの誰も話し掛けなくなった柊の声を聞く機会があるとすれば、授業中教師に指名された時ぐらいだろうか。
そして今日は珍しくも、柊の話し声が廊下から響いたのをクラスの全員は驚きと、柊へ勇敢にも話し掛けた相手への気の毒を混ぜた複雑な心境で耳を傾ける。
「初めまして、柊さん」
廊下で待ち伏せしていたのか、喋りかけた声の主は間違いない雛である。
そんな雛に警戒心を滲ませながらも柊は立ち止まる。転校して来たばかりの柊からすれば、見知らぬ相手に警戒しない方がおかしいだろう。
乾いた廊下の空気の中警戒色を瞳に宿し柊は雛へと尋ねる。
「アナタは……誰かしら?」
「私?私は秋川雛、隣のクラスにって!ちょっとアンタ待ちなさいよ!」
雛が話しているにも関わらず、先へ進もうとする柊を雛は無理矢理に押しとどめた。
「離してくれないかしら?私これでも急いでいるのだけど」
「アンタねえ!人が話し掛けてるのに行く事ないでしょ!」
「私はあなたに喋りかけて欲しいと頼んだ憶えはないわ」
隣のクラスであろうと初対面であろうと、問答無用で我が道を行く柊は流石と言うべきか怖いもの知らずと言うべきか、とにかく孤高という言葉がよく似合う。
「もう!辻先輩の言った通りアンタって本当に面倒くさいわね!」
「私が面倒くさいのなら、喋りかけなければいいのではないかしら?その方がアナタも私も幸せなはずよ」
嫁姑でも、もう少しオブラートに戦争するだろうに、この二人の言い合いは少年漫画の最終回も霞むほど白熱して来ている。
ホームルームが終わった教室内から誰も出たがらないのは、二人が廊下で繰り広げる戦いに巻き込まれたいと思う希有な人間が居ないからだろう。
「ああ!もう!良いから来て!アンタにちょっと用事があるのよ!」
「嫌だと言っているでしょう?はっきりと言わないと分からないのかしら?」
突き放つ様な柊の言葉に、廊下の体感温度はまた一段と冷え込んでいる。
多分沖で取れた海産物も柊が居れば内陸部まで鮮度そのままで運べる事だろう。
人とも関わらなくていいし、きっと彼女は長距離トラックの運転手とか向いていると思うが、雛はそれでも諦める事なく言葉を絞り出した。
「……はぁ?ちょっと待ちなさいよ、なんでそんなに嫌がるのか訳が分からないんですけど」
苛立ちを滲ませた声音で呼び止める雛だが、柊の足音は止まる気配はなく、雛野横を素通りして行く。
「分からなくて結構よ、私は誰とも関わりたくないの、もう私に喋りかけないで頂戴」
クラスの中で誰かが発した『怖っ』という言葉に福島県会津若松名産の郷土玩具である『赤ベコ人形』と同じく首を振りたい気分だが、そんな場合じゃないだろう。
俺は急いで机脇に掛けてある鞄を取り、廊下に出るとそこには長い廊下の向こうを歩く柊を、ただ黙って見つめる雛が突っ立っていた。
微かに柊が此方へ振り向いた気がしたが、今は雛の方が重症だ。
「お前……泣いてんのか?」
「なっ……泣いてないんですけど!」
震える肩で、目に涙をためてながら悔しげに唇を噛んでいる雛は誰が見ても泣いていたのだった。