変化とは別の変化を準備する
「さぁ、言ってみろ辻ぃ、テメエまさか俺を前にして下らねえ嘘ついたわけじゃねえだろう?」
多分熊谷先輩は視線だけで虫ぐらいは殺せるんじゃないだろうか?
暑い夏の季節には蚊取り線香と並んで重宝するかもしれない。
「我は……我はその、嘘をつくつもりはなかったのじゃ、信じてくれんかのぅ熊谷ぃ」
現在、ユーフォリアを発動している熊谷先輩の前で辻先輩は何一つとして嘘をつく事が出来ない。
つまり、辻先輩の喋る言葉は嘘ではないということだ。
「おう、嘘つくつもりじゃなかったって事は信じてやるよ。それで?肝心のテメエが使うなって言われてたユーフォリアを使ったのかっつう話だが、どうなんだぁ辻ぃ?使ったのかぁ?」
甥っ子を甘やかすおじさんのような熊谷先輩の声音に、お年玉を貰う子供の様な笑顔を見せる辻先輩はモジリモジリと瞳を彷徨わせ、言いづらそうに言葉を紡いだ。
「実はのぅ、一昨日、弟に使ったのじゃ……じゃが、仕方なかったのじゃ、我は弟の失恋を癒してやらねばならんかったのじゃからして……」
「あぁ?もう一回言ってくれや」
ドスの利いた声に辻先輩が思わず顔を上げる。
あれ?さっきまでの優しいおじさん何処?と、辻先輩は優しげだった筈の熊谷先輩を探したが、そこに居るのは青筋を立て、辻先輩の顔面に拳のお年玉を叩き付けそうな熊谷先輩しかいなかった。
「おうおう!テメエ!使うなって言われた能力使って弟の失恋を癒すだぁ?テメエの弟も男のクセに情けねえ!テメエもその弟も纏めてシバイてやるからよぅ!今直ぐここに連れて来い!」
今のご時世、『男らしく』『女らしく』なんて現代ジェンダー論を真っ向から無視する言葉を使った日には、即座に炎上し三日三晩燃え続けるため、そんな言葉は滅多に使うものじゃないのだが嘘がつけない熊谷先輩は、思考がそのまま言葉になってしまう為、あらゆる意味で人から好かれ、嫌われる。
そして、俺も雛も、同学年の辻先輩でさえ、熊谷先輩に苦手意識があるのは、故にこの人が善人であるからに他ならない。
「だから嫌だったのじゃ!こやつは直ぐに我を怒るのじゃ!」
「当ったりめえだろうがぁ!俺がテメエの事どんだけ心配してると思ってんだ!」
「なんなのじゃ!怒るか心配するかのどっちかにして欲しいのじゃ!これでは我も反応に困るのじゃ!」
気恥ずかしさからか、それとも恐怖からか、辻先輩の瞳が潤んでいるのが分かる。
クソ、俺以外にそんな顔見せたら嫉妬の業火で辻先輩の好きなクッキーを焼き上げてしまうところだが、ここに居る二人はそんな辻先輩に興味すらないため、俺が辻先輩の為にクッキーを焼き上げるのはまたの機会になりそうだ。
「のう、一樹ぃ、お前からも熊谷に何か言ってやってくれんかのぅ……」
おせちの具材より甘ったるい声で『お願い』と見上げて来る幼女の願いに耳を傾けないなど有り得ない……というか、辻先輩の言葉に耳を傾けないなど俺にとっては天地がひっくり返っても有り得ない。林檎が地面に向かって落ちていた時から普遍の真理ですらある。
仕方ない、全世界幼女の頂点に立つ辻先輩たっての願いだ。
いくら熊谷先輩のユーフォリアが怖くても男にはやらねばならない時がある。
「熊谷先輩、辻先輩の事は俺に任せておいて下さい。俺の全責任を持ってなんとかします」
「ん?おい、テメエの責任感は今朝トイレに流れたんじゃねえのかよ?」
「俺の責任感は一度流れても、辻先輩が俺の近くに居さえすれば時と共に再生するので、なんの問題もありません」
そう、俺の責任感は辻先輩が居る限り無限沸きである。
RPGの雑魚モンスターが草むらから飛び出して来るのと同じ原理で俺から湧き出る辻先輩への責任感は今もなお増え続けているのだ。
「そうかよう、じゃあテメエは明日からはキッチリ生徒会に来れるつうことだなぁ、楽しみに待ってるぜぇ」
熊谷先輩はそれ以上何も言うつもりはないようで、定位置である席へドッカリと着席した。
「そう言えばよぅ、今の言葉で思いだしたが、なんで辻は勝手に生徒会室に入り浸ってんだぁ?部外者は原則、生徒会室には立ち入り禁止なんだがよぅ」
先述した通り、辻先輩は『ユーフォリア研究部』の部員ではあるものの、生徒会役員ではない。
つまり、生徒会役員からすれば辻先輩はただの一般生徒でしかないのだが、辻先輩は俺と雛、そして熊谷先輩が所属している事をいい事に、我が物顔で生徒会室に出入りしているし、勝手に生徒会室の鍵を借り出し誰も居ない生徒会室で白昼堂々昼寝していたりと、何かとやりたい放題をしていたりする。
「おい、辻ぃ、テメエは所属もしてねえくせに、なんで生徒会室に勝手に入ってんだよぅ」
「フム、それは簡単じゃ。あそこには菓子もジュースも遊び相手も居るでのぅゆえに我は生徒会室に顔を出さねばならんのじゃ!」
理屈が通っていないが、そこがたまらなく可愛いじゃないか。
まぁ、辻先輩が完成された可愛い幼女の姿でなければ、とうの昔に顔面へ落とし前をつけさせてもらっているが、幼女の辻先輩がそういうのなら、辻先輩は生徒会に顔を出さなければならないのだ。
「それからのう、一つ感心せんのじゃが、我は煎餅よりクッキー派じゃからして、そこらへんの買い物はしっかりして欲しいものじゃ」
ダボダボのスカートをハラリと舞わせ、辻先輩はまたしても雛の持っていた菓子を横から取り口に放り込む。
横から『1,200円』と呟く雛を辻先輩は無視して、心底幸せそうに両頬を包む辻先輩の顔面に熊谷先輩は思いきり掴み掛かった。
「テメエか……生徒会室の煎餅全部喰いやがったの」
「ちっ違うのじゃ!副会長が食べても良いって言ったんじゃ!嘘ではないのじゃ!後で確認してもよいのじゃぞ!」
今もなお、熊谷先輩の『ユーフォリア』は発動している。
つまり辻先輩の言葉は真実だという事だ。
熊谷先輩は舌打ち混じりに辻先輩から手を離す。
「あの馬鹿……あんだけ辻には餌与えんなって言ったのによぅ」
公園の鳩とか、近所の野良猫同様の扱いである辻先輩に熊谷先輩はどうしようもないとボヤクが、生徒会副会長が辻先輩にお菓子を与え続ける理由を俺も雛も、そして餌を与えられている辻先輩自身も多分理解している。
何故なら副会長は、会長である熊谷先輩との時間を誰にも邪魔されたくないのだ。
熊谷先輩は仕事が早い。
迅速かつ丁寧で、なおかつ正確な仕事をするので、副会長が学校で熊谷先輩と一緒に居られる時間は非常に限られて来る。
そこに、俺や雛、辻先輩が行けば二人だけだった生徒会室は愛を囁き合える場所ではなくなってしまう。
出来る限り生徒会室に人を入れず、出来る限り熊谷先輩と一緒に居たい副会長としては、仕事を手伝う俺や雛を遠ざけ、なおかつ空気を読まない辻先輩など絶対に近寄らせたくない。
だからこそ、副会長は辻先輩を物で釣っているのだ。
そして、辻先輩はその理由を知っていて、わざと生徒会室に入って行って行き、副会長は早々に満足させるべく、悪魔的に可愛い幼女である辻先輩にお菓子を差し出し続けているのだ。
「こりゃあ、今度会ったらキッチリ言ってやらねえと駄目だなぁ」
副会長が誰との時間を得る為に生徒会室にお菓子とジュースに自腹を切って常備していると思っているのか?
そんな報われない副会長の思いを知っているからこそ、俺も雛も砂を噛む表情を熊谷先輩へ向けた。
「それは、流石に副会長が可哀想過ぎです」
「熊谷先輩、彼女さんに嫌われても知らないですよ」
熊谷先輩は思いがけないガタイと腐り切った瞳に見合わず小さく肩を窄めている。
きっと、副会長もこのギャップ萌えにやられたのかもしれない、主に頭を。
ようやく離された辻先輩は、何やら疲れた様子で指定の俺の横の席にチョコンと座る。
無駄話が過ぎた頃合いだ。
此処に今日三人を呼んだのは紛れもなく俺である。
脇に逸れまくった本題を掘り返す時間だろう。
とても、面倒で、とても重要な事。
重要な事程面倒である事は言わずもがなではあるものの、彼女自身が人を寄せ付けたがらないと言うのが何より面倒そのものである。
俺は『嫌な時間』が始まる事を知りながら、その時間を始める為に今日ここに三人を呼び出した。
「じゃあそろそろ、今回の部活の本題に入ります」
一つ改まった俺に全員の視線が集中する。