夢と知りせば目を開ける
夢を見ていた。
私は彼と日暮れを見ていた。目の前に広がる海が、桃色に染まっている。
ここはどこだっけ。そうだ、江の島だ。
そういえば、彼はこの景色が好きだって言っていたっけ。
「ほら、綺麗でしょ」
まるで自分の手柄のように誇らしげに笑う彼に、私も思わず笑顔になる。
「そうだね」
それを聞くと彼は、見たこともないほどにっこりと笑った。
その後は、私も彼も何も言わない。
日暮れの浜辺は少し肌寒かったが、そんなの関係ない。
夜の気配が私たちを包んでいた。
目を開けると、横向きのテレビの中で芸人が騒いでいた。
私は自宅のソファで横になって眠っていたようだ。心地の良いけだるさを感じつつも起き上がると、目の前のテーブルに紅茶が二つ置かれた。
「ありがとう」
ねぼけながらそう言って、隣に座った彼の肩に頭を乗せる。彼は何も言わない。
触れたところから伝わる彼の熱が好きだった。
マグカップを両手で抱えて、ちびちびと紅茶を飲む。いつも通りの、砂糖とミルクが入った少し甘めの紅茶。
飲み終わる少し前に、彼は優しい声で言った。
「うなされてたけど、悪い夢でも見てたの?」
「え? ううん。とてもいい夢だったよ」
「そっか」
内容を聞かれることもなく、空間に静寂が満ちた。でもそれは暖かい静けさだ。
時が止まればいいのにと思った。そしたら、この紅茶が冷めることもないのに。
外に積もった雪に反射した日の光が、カーテンを通って柔らかく部屋を照らした。
これも夢だとわかっていた。
まばたきをすると、目の前に見知らぬ猫が現れた。
「喜ぶかなと思って、つい」
そう彼は言った。
「もう、相談ぐらいしてよ」
そうは言いつつも、口元の綻びを隠すことができない。
それは、いつもテレビで見るたびに私が「可愛い」と騒いでいた種類の猫だった。
「でも、飼うのにはお金がかかるよね」
私はいつもそう言ってチャンネルを変えていたのに。
「君の誕生日だからさ。いいでしょ、今日ぐらい」
「今日ぐらい」のために、彼がここ数か月ずっと外食を我慢していたのを知っていた。
体の芯から温まっていく。そのぬくもりを彼にも伝えたくて、口を開いた矢先。
「にゃあ」
と、さえぎるように子猫が鳴いた。
私たちは二人で見合って笑った。
目を覚ました。
私はまた自宅にいた。でも、なんだか寒い。部屋からは一人分の体温が抜け落ちていた。
彼はもうここにはいない。
気が付けば頬が濡れていた。私は泣いていたのだった。
「ははは……やっぱり、悪い夢だったみたい」
彼の姿が焼き付いたこの場所で、今日も私は生きていく。
明日も、明後日も。
「わん!」
何かが鳴いた。
それは彼が数年前の誕生日に買ってきた犬だった。あの頃は子犬だったのに、今では立派な我が家の番犬サマだ。
潤んだ眼で、心配そうにこちらを見ている。
私はそっと寄り掛かった。あの日、彼の肩を借りたみたいに。
「あったかいな……」
独りではないのだという実感が欲しくて、背を撫でる。涙が止まらなくなってしまったのは、きっと伝わってきた熱に溶かされたからだ。
窓の外では大粒の雪が降っていた。この雪はしばらく残るだろう。
これこそが夢だったらよかったのに、と思った。でも違う。痛いほどに現実だった。
江の島の海は、彼の撮った写真でしか見たことがない。
「これ、友達と行ったときのやつ」
と見せてくれたアルバムの最後のページには、その友達が撮ったのであろう、見たこともない満面の笑顔を浮かべる彼の写真が挟まっていた。
彼がたまに淹れてくれる紅茶は、いつだってストレートだった。何度私が甘党だと言っても、
「紅茶の良さが一番わかるのはストレートだから」
と彼は譲らなかった。
肩によりかかっても、少し経つと
「肩がこった」
と嫌そうな顔をする。
いつだって、時が止まればいいのにと思っていた。
そしたら、いつもの沈黙を彼がどう思っているかなんて、気にしなくてもいいのに。
誕生日だって、彼は私が猫派だということを覚えていないのか、突然犬を買ってきた。
命なのだから、返品するわけにもいかない。生き物は買うのにも飼うのにもお金がかかるのに、その後のことは考えてもいない様子だった。
そんな風に、言いたいことはたくさんあったのに、私は何も言えなかった。ただ無理やり笑っていた。彼に忠実に従おうとした。そうすれば、彼が犬を愛するように、私のことも愛してくれると信じていた。
だって、わかっていたのだ。彼の行動が意味することを。私は、一瞬だって彼の特別になれたことなんて無かった。
彼は責任を負いたがらなかった。私が望むから付き合って、私が望むからそばにいただけだった。
喧嘩なんてできない。私たちの関係は、触れればすぐに壊れてしまうものだと知っていたから。
彼は、就職を機に上京することになった。
「連れて行って」
だなんてもちろん言えるはずがなくて、私はこの部屋に残ることになった。
最後に彼を見たのは、最寄り駅だった。
「それじゃ」
まるで数日出かけるだけのように背を向ける彼に、私も同じように
「じゃあね」
と返す。ずいぶんあっさりとした別れだった。
それから、もう会うことは無かった。
なのに、どうして今日、夢に出てきたのだろう。
しかも、あんなに都合のいい夢。
ああ、そうか。
私は気がついた。最低な日々だった。悪夢みたいな日々だった。それでも、彼が隣にいてくれるならそれでいいと思っていた。でも本当は、私だって幸せな思い出が欲しかったのだ。それに気づくことができたのは、彼がいた毎日がもう変えようもない「過去」になったから。
だから私は微笑みながらつぶやいた。
「ねぇ、私、本当に君のことが好き『だった』」
きっと君は、私のことなんて夢にも見ないでしょう。それでいい。私の中だけに残るあの苦い日々は、勝手に甘くして飲み干してやる。
君が私のことを忘れても、私は世界で一番に君の幸せを願おう。それが、私の復讐だ。
彼の住む街には、きっと雪は降っていないのだろう。もしかして晴れているのかもしれない。そうだといいな、と思った。
真っ白な雪が舞い落ちる空を窓から見上げてつぶやいた。
「さよなら」