猫と文鳥の戦争
高校が終わった後はいつも気怠い放課後が待っている。夏休み直前の熱気を逃れて、空調の効いた常磐線に逃げ込んだ客は身体の芯まで溶かされたようだ。錆びた自転車を漕いで着いた私の家は地方では珍しくもない、古い木造の3DKの平屋だ。
縁側に座って煙草をふかす。メビウス・ライト。8ミリ。父がカートン単位で買っているものを貰っているから、これ以外の煙草はないし、私では買えない。
父は昼間はずっと畑仕事だ。インドネシアから移民してきた父は奴隷労働を強いられる海外技能実習生制度から脱走して、就農した。地方農業はどこも人手不足だったのと、国際問題になりかけた情勢のおかげで就農はトントン拍子で進んだという。
私も一度だけ、インドネシアに行ったことがあるけれど、日本の夏の方がよほど暑い。なにより、インドネシアの煙草は甘くて濃くて、私の好みではない。父は時々、駅前の煙草屋までガラムやらジャラムやら輸入物を買いに行っているが、私には理解できない。
夏空を見上げて煙草の煙を吐き出す。今頃、他の学生は部活に打ち込んで、充実した青春を送っているのだろうか。ヤニにまみれた私とは大違いだ。
「selamat siang, Miho」
「……siang」
私は煙草を咥えたまま振り返った。我が物顔で縁側に座った黒猫が、気持ちよさそうに扇風機にふかれていた。
どういうわけか、インドネシア語を近所の猫が理解し、またインドネシア語を発することを知ったのは私が父からインドネシア語を習い始めた頃の話だ。
「相変わらずその臭い葉っぱが好きだな」
「臭くないよ。慣れれば全然」
扇風機が首を振り、風が来なくなったのを感じた黒猫が眉をひそめた。私は仕方なく、首を猫の方に向けて首を固定する。
「煙草は知らんが、人間の技術はいいものだ」
「野生を捨ててるねえ」
黒猫はごろりと腹を扇風機に向けて横になった。ゆらゆら尻尾を揺らして、喉を鳴らしている黒猫には、こんな年寄り臭い口調は似合わない。この黒猫はどういうわけか、とてもスマトラ訛りの強いインドネシア語を喋る。
「この前散歩していたら、お前くらいの子供がなにかスポーツやってるのを見たぞ」
「……猫がスポーツなんて分かるんだ」
「当たり前だ。これでもお前の三倍は生きている」
黒猫はそう言って、尻尾をゆらりと持ち上げた。根元から生えた二本目の黒い尻尾が空を仰いだ。
「猫又というのも大変なんだぞ。縄張り争いの調停や、女を取った取られたの痴話喧嘩の仲裁なんて日常茶飯事だ」
「ふーん、面倒くさいねえ」
私は煙草の灰を落として、使い込んだスニーカーで煙草の灰を潰して地面の土に混ぜ込んだ。母は私が煙草を吸っていることをよく思っていない。
母は駅前の潰れそうな小汚いショッピングモールでパートをやっている。
「暑いでしょ、ミルクでも飲む?」
「いらん。牛の乳など飲むのは俺のプライドが許さん。それに、飯はさっき食べたばかりだ」
「へえ、何食べたの?」
「最近増えた白い雀みたいな鳥だ」
白い雀、と言われて私は首を傾げた。
「白い雀って?」
「白い雀は白い雀だ。俺には人間がそれをどう呼んでいるかなんて知らん」
私は二本目のメビウスに火を付けた。
「……文鳥?」
「多分そうだ。あの五月蠅い鳥のせいで、猫は散々迷惑している」
「……文鳥は五月蠅くはないでしょ」
「五月蠅いぞ。人間には分からないような高い声でキーキー鳴いている」
「……ちょっと待って、初耳なんだけど」
私も、文鳥が指定外来生物に登録されていることも、最近その数を増やしていることも知っている。それでも彼らにそんな能力があるなんてことは聞いたことがない。
「他の動物はどうしてるの?」
「鴉は山に逃げた。他はどうしているか知らん」
「でも……よそ者に好きにされるのは、嫌じゃない?」
「当たり前だ」
「カラスに協力して貰ったりは出来ないの?」
「俺たちが奴らを喰うこともある、奴らが子猫を喰うこともある。なぜ俺たちが奴らに頭を下げなければならない?」
黒猫は頭を持ち上げて此方を睨んだ。
「……」
「それに、俺たちがただ手をこまねいて見ているとでも思ったか。猫又は猫又で、勢力を戻すために動いている」
「猫又が? どうやって?」
「そんなに気になるなら見せてやる」
黒猫について行った先は、地元の小学生が下校帰りに寄るような河川敷だった。私が見える限りでも、五人ほどの子供が遊んでいた。
「あの中の一人が猫又が化けたものだ。よく見ろ」
小学生は手に何かをもって、振り回したりして遊んでいた。そのたびに甲高い鳴き声が上がる。
「あれは……文鳥?」
「そういうことだ」
黒猫はじりじりと照りつける日差しから逃れるように近くの植え込みに入った。
「猫もそうだ。自分より弱い物は嬲り殺しにする。人間どものそれを、利用する」
小学生の一人がレジ袋から取り出したのは、爆竹だった。嫌がる文鳥に乱暴に巻き付ける。
「あれくらいの年の人間は無敵だ。どんな残虐な行為にも、全く躊躇がない。猫又がその行為を教え込んだのも、皮肉だがな」
動けなくなった文鳥を地面に放り、小学生はきゃあきゃあ言いながら離れた。ひときわ体格の良い一人が、代表してそれに火を付ける。
文鳥が命の危険を察知して暴れる。それは、もう手遅れだった。
甲高い音とともに爆竹が弾けた。真っ白だった羽毛に、焦げ跡と火が灯る。
あとは一瞬だった。
連発して弾ける爆竹。
火だるまになった文鳥の断末魔。
共鳴する子供たちの歓声。
「……他の猫又は、小学生に木登りを教えている」
「……」
「巣を潰せば、必然的に個体数は減っていく。雛や卵に対処すれば良い。活力のある成体を狙うのは、俺たち猫の役目だ」