34話 悪の素質
「うちはね……本物の、『英雄亡霊グレイ』だよ」
荘厳な雰囲気を纏った白黒の巨大な扉を前に、クロは冷たい表情を浮かべながらそう言った。
ここは『天に昇る塔』の最上階と思われる場所。天に投げ出されたように星明りが眩く光る幻想的な空間の中、クロの告白と共にひりひりとした空気が流れる。
自分が『英雄亡霊グレイ』である。クロはそう言った。
都市伝説の正体、怪しげな行動を繰り返す謎の存在、京子に指示を与えていた主、その正体をクロは明かした。
ゲーム上で死が訪れるという大異変は、『英雄亡霊グレイ』のメールが来た時に起こった。
目の前の気の良かった少女が全ての元凶なのかもしれない。
皆、緊張で身構えた。
「な、なに訳の分からないこと言ってるんだよ……。こ、こんな時に冗談は止せよ……」
「雄樹くん、そういうのいいから」
「…………」
クロの冷たい言葉に雄樹は閉口してしまう。
武器を構え、自分に対面する皆を見てクロは抑揚のない声を上げた。
「私から言えることはそうない。私も全て知っているわけじゃない。……ただ、君達を利用したいと思う。君達を利用するために、私は準備を続けてきた。これまでの活動は全部準備だ。この『大異変』のための準備なんだ……」
「お前がっ……! この状況を作ったのっ……!? お前がっ……、みんなを殺したのっ……!?」
万葉は声を荒げる。クロの表情は相変わらずピクリとも動かない。しかし、何故か、視線を下げて諦観のような表情を見せた。
「……少し違う。でも全否定はしない。私はこの『大異変』のために備えてきた。プレイヤーの皆を巻き込んででも、この『大異変』に対し、対抗手段を作り上げようとした。私は皆を意図して巻き込んだ」
その目には意志が宿っていた。
「クロ……お前は、一体何者なんだ……?」
雄樹が問いかける。
その時、クロは悲しそうに笑った。
「私は『英雄亡霊グレイ』だよ……」
不思議なことが起こった。
声が雄樹たちの背後から聞こえた。目の前にクロがいるのに、雄樹たちの背後からクロの声が聞こえた。
「え……?」
「後ろ……?」
「クロさんが、2人いる……?」
雄樹たちは慌てて振り返る。
そこにはクロがいた。しかし、門の前にもクロはいる。クロが2人いた。
《私は『英雄亡霊グレイ』。他者を利用し、他者を巻き込み、『大異変』に備える者》
今度は皆の側面からクロの声がした。3人目のクロだ。
《そして『港』を探す者。星を飛び回り、『港』を開く者》
唐突に、雄樹たちの間にクロが現れた。4人目のクロだ。
突然自分たちの傍に現れた新たなクロを万葉が捕えようとした。腕をぶんと振るうが、その間にそのクロは消え去っていた。
《そして皆を『港』に導く者」》
《『案内人』として、プレイヤーを『港』に導く役目を背負っている》
《『魔人』を退け、『港』を開かなければいけない》
《『港』を開かなければ、未来は無い》
《このゲームでは、図らずも即座に目的が達成できた。もうこのゲームには用が無い》
《この扉の先には別のVRゲームの世界がある。他のゲームに飛ばなければいけない。他のゲームで『港』を開かなければいけない》
《『港』を開かなければ、未来は無い》
次々とクロと同じ姿をした人間が増えていく。
万葉たちは首を振り、増えていくクロを驚愕の表情で眺めた。何が起こっているのか、全く訳が分からなかった。
「全ては『大異変』の準備の為……」
ふと、クロ達が消え去った。煙のように現れ、煙のように消え去った。
巨大な門の前にいるクロだけが残った。
「『魔人』を退け、『港』開き、数多の星々を開け。それ以外に、道は無い」
冷たい気迫が皆を突き刺した。
ただならぬ気配に溢れていた。クロのこんな威圧感、誰も感じたことは無かった。
「……取り残されたプレイヤー達に伝言をお願いするよ。この扉から、他のゲーム世界に移れる。そして他のゲームを攻略していって欲しい。
メールではもう書いたけどさ、皆に『港』を探すよう言ってくれよ」
彼女の張り詰めていた気がふと緩む。
体勢を少し崩し、首を傾ける。それでも雄樹と万葉は気圧されており、面を喰らったままであった。
クロのプレッシャーを正面から受け止めていた京子が1歩前に出る。
「クロさん、質問いいかな?」
「……なんだい、京子?」
京子の口調は鋭かった。彼女には確認しなければならないことがあった。
「あなたが、私に指示を与えていた『英雄亡霊グレイ』本人なの?」
「そうだよ、その節は世話になったね……。あぁ、そうだ、報酬をまだ払ってなかったね。ごめんね、報酬を払う前に『大異変』が来ちゃった。また今度でいいかな? まだ『弱体化魔法』は必要?」
「そんなことはどうでもいいの。あなたが私にやらせていたことの意味を問いたい」
京子は『英雄亡霊グレイ』から依頼を引き受けていた。
指令を受けた人を襲い、その記憶と意識を奪ってきた。そして、見所あるプレイヤーに『英雄亡霊』から支給された強力な武器を陰から配り歩いていた。武器という力を振りまいていた。
他にも京子は細々とした指示を受け、それを遂行してきた。
しかし、京子はその行動の意味を知らされていなかった。
「聞かせて、クロ。私がやって来たことは、悪だったの? なんだったの?」
「…………」
「あなたは前に、悪いことが起こらないようにする為の備えだって言っていたけど……それは真実なの……?」
世界が閉じてから、京子の気は張り詰め続けていた。
この『大異変』に『英雄亡霊グレイ』が関わっているのだとしたら、自分もその片棒を担いだことになる。自業自得ではあるものの、こんな人が死ぬような事態になるとは夢にも思わなかった。
『英雄亡霊グレイ』は京子に依頼した仕事を「悪いことが起こらないようにする為の備え」と言っていた。
しかし、それを証明するものなど何もなかった。
彼女は自分がやって来たことを償うつもりだ。
だが、自分が何をしてしまったのかさえ分からない。どう償えばいいのかも分からない。そもそも悪であったのかどうかさえ分からない。
京子の目は真剣で、鋭くクロを睨みつけた。
クロが口を開く。
「……『私は正義であり、その心に一辺の曇りもありません。全て「大異変」から人を守るためであり、京子に武器を配るよう指示したのも、プレイヤーが自分たちの身を守るためにと思ってやったことです』…………」
クロは芝居がかった声を出し、肩を竦めた。
「……って言って、信じる?」
「…………」
京子はきゅっと口を結んだ。
そんな言葉投げられても信じられるわけがない。言葉の端々からクロがこの『大異変』を直接起こした訳では無い、という事を推測出来るが、それさえも信じていいものか分からない。
わざとそういう表現を使っているのではないか。
要するに信頼は無くなった。ならば、どんな受け答えも信じられるはずが無い。でも、質問しない訳にはいかない。
「……この『異変』を直接起こした訳では無いんだよね?」
「そうだよ。起こしたのは私じゃない。私はその備えをしていた。……信じる?」
「じゃあ、もしそうなら引き起こしたのは一体誰?」
「言えない。……っていうか分からない。調査中。でもそいつらより先に『港』を探さないと……」
「……『狂魔』って言う奴は一体何なの?」
「魔の化身。仮想現実と現実の道を閉ざし、仮想世界を蝕み、滅ぼす悪魔だって聞いている」
「『聞いている』? ……誰から聞いたの?」
「……言えないよ」
京子の尋問は続く。
クロは逃げない。
「今日の惨事が起こることは知っていたの?」
「…………知ってた」
「……じゃあ、何故あらかじめ止め…………!」
何故あらかじめ止めようとしなかったのか、
そう言いかけて、京子は口を噤んだ。こんなこと他のプレイヤーに言っても信じて貰えるはずが無い。
「……ここは仮想現実なんだよね?」
「……もう、そうとも言えなくなってきている。何が仮想で、何が現実なのか、境は曖昧になりつつある」
「何故、私を協力者に選んだの……?」
「私もVRゲームで見込みのある人を探していた。京子が強さを隠しているのは見て分かった。君の強さは適任だった」
「……君はどうして『英雄亡霊グレイ』と名乗っていたの? VRゲーム『勇者グレイの伝説』と何か関係があるの?」
「……意味は無い、と聞いている……。いや、意味はあったけれど、その意味は失われたと聞いている」
え? 意味無いの? ……と、どうしてかグラドが驚いていた。
「名に意味が無いのなら、クロは一体何者なの?」
「言えない」
「協力者がいるんでしょ? クロの協力者っていったい何者?」
「言えない」
「どうしてこの『異変』が起こることを知ってたの?」
「言えない」
「……あなた達は、どうして陰でこそこそ動くの?」
「……言えない」
沈黙が流れる。
『言えない』という返答が多くなった。京子は口を閉ざす。聞きたいことはあってもこれ以上聞き出せないだろう、そう感じていた。
「……これ以上話せることは、もう無い。私も全てを知っている訳じゃない。
実はこんなに簡単に正体をばらすつもりは無かった。でも、仕方が無かった。こんなに早く『港』が見つかるとは思わなかったから……」
クロが少しだけ目を逸らした。
「それと……、うちは京子の弱い部分を抉っていたみたいだから……。そこまで思い悩んでいる人だとは思わなかった……。君の話を聞かなければ良かったって思ってるよ」
「弱い部分……」
京子は自分の強さに思い悩んでいた。現実ではどうすることも出来なかった。
そこに、『魔法』という非現実的な誘いがかかってきた。京子は藁にも縋る思いで『英雄亡霊グレイ』の誘いに乗った。
クロは、京子の弱みに付け込む形となった。
「だからさ、これでお別れ。信じて貰えないかもしれないけど、『港』の捜索は君達のためになる。これは絶対だ。探せ。それ以外に道は無い」
クロは数歩身を引いた。その方向には『港』と呼ばれる巨大な扉がある。
「もし良かったら、何処かで会っても私のこと知らない振りしてよ。そうしないと、きっとお互いに損だと思うんだ」
クロはもう数歩身を引く。
巨大な扉がぎこちない音を上げ、その戸を開き始めた。
「皆、頑張って。私も1人で頑張るから」
クロは皆に背を向けた。開き始める扉に向かって歩を進めた。
1人、先に旅立とうとしていた。
「それじゃあ、バイバイ、みんな。この数日、結構、楽しかったよ……」
「クロさん」
決別の歩みを進めようとするクロにグラドは声を掛けた。今まで一言も喋ら無かったグラドが声を掛けた。クロはびくんと肩を震わせた。
振り返らず、応えた。
「……なんだい?」
「僕からも1つ質問いい?」
「…………もう、私から言えることは無いよ」
冷たく、突き放すような口調。それに構わずグラドは質問した。
「クロさんは、僕達の味方なのかい?」
また場が静かになった。一瞬、沈黙が場を支配した。背中を向けているため表情は見えないが、困ったようにクロは体を揺らした。
「……さっきまでの話、聞いていた? 私は皆を騙していたんだよ?」
「でもクロさんはこの事件の首謀者じゃないんでしょ? この事件に備えていた側だって言った。武器を振りまいたのも、人を守る為だって言った」
「……それ、本当に信じるの? 私が『君達の仲間だよ』って言ったら、信じるの?」
信じるられるわけがないだろう、そう言う意味を込めてクロは言った。
でも、グラドは微笑んだ。
「信じてもいいよ」
「…………」
「君が僕達を守るために、この異変に備えていたって信じていい。『私は正義であり、その心に一辺の曇りもない』って言葉も信じていい」
「……嘘でしょ?」
「正義かどうかなんて見方と状況によってころころ変わる。仲間かどうかなんてのもまた一見強固な結びつきに見えて、実は立場によってころころと変わってくる。別に裏切りとかそういう話じゃない。同じ立場で、同じ状況でも、視点一つ変えれば味方だったり敵だったりする。
基準が曖昧で、そこに大した意味が無いのであれば……僕はクロさんの言葉を受け入れてもいい。信じてもいい」
「…………」
彼女を受け入れようとしている割にグラドの言葉は淡白で少し冷たかった。少しクロは面を喰らう。背を向けているため、その顔もグラドや京子たちには見えなかったが。
「もっと単純に……嘘だったり、敵だったら殺せばいい。それだけ」
「ころ……」
「今までと何も変わらない」
グラドはそれまでの旅を思い出しながら、少し顔を上げた。
「でも1つだけ……」
グラドは言った。
「そんな背を向けられたままじゃ分からない」
「…………」
「自分が心に一片の曇りもない正義だというなら、僕たちの目を見てそう言って欲しい。こっちを向いて、胸を張って、そう言って欲しい」
自分に自信があるのならもっと堂々とするべきだ。グラドはそう、クロに伝えた。
「胸を張るのは、得意だろ……?」
「…………」
クロに言葉を掛けるグラドを、京子たちは止めなかった。
十数分前までは共に戦った仲間だった。皆で敵に打ち勝った。それが粉々に崩れた。本当は京子も雄樹も万葉も、クロとは敵対したくなかった。
「い……、言えない……」
クロは背を向けたまま応えた。声は震えていた。
「て、敵ではない……と言いたい……。でも、味方だ……とも言えない……。正義だなんて胸を張る自信……そんな自信、私にはない……」
クロは振り返らない。でもその背もその声も震えていた。
「私知ってた……。いつか、こうして、『大異変』が起こって、たくさん死ぬって知ってた……。でも黙ってた……。みんな巻き込んだ……。たくさん死ぬって知ってて、巻き込んだ……」
クロは決して振り返らない。表情が見えないまま、話は続く。
「こうするしかなかった……! 『効果的な正義の為』に、こうするしかなかった……! 皆を利用するしかなかった! 皆を利用して、たくさんの人を巻き込んで……人が死ぬって知ってても、知らないふりして……!
こうするしかなかった……! 私はやるべきことをやった……!」
クロが大きな声を発し、京子たちは息を呑んだ。動揺した。
「うち、みんなに隠し事してたっ! グラドに嘘ついてたっ! Lv.1のバグ、運営にわざと報告してなかった! 運営に連絡されたら困るからっ! うちのそれはバグじゃないんだっ! 確信犯だったっ!」
「…………」
「今日のことも隠してたっ! たくさん死ぬって分かってて黙ってた!
必要だったから! うちの使命だったから! たくさん死んだけど、自分のやるべきことを優先した! そうしないと、もっと死ぬって分かってたからっ……!」
クロの声が荒らぐ。
「うち、これからも隠すっ! これからも何も言えないっ! 必要だったら嘘もつく! これからも皆を騙して利用するっ! より大きなものを守るためにっ!」
不意に、ぽんとクロの頭に手が乗った。グラドがクロの頭を撫でた。クロに近づき、その頭を撫でていた。
グラドがクロの顔を覗く。
クロは泣いていた。
「たくさん死んだ……。死ぬって分かってて、うち隠してた……。うちならなんとか出来たかもしれないのに……。何もかも喋ってしまえば……使命は駄目になるけど……たくさん救えたかもしれないのに……。
うちならなんとか出来たかもしれないのに……」
その大きな瞳から涙が流れていた。
口がぐしゃりと曲がりながら、涙はもう零れているけど、涙を我慢していた。
「うちが殺したようなものなんだ……。分かってて、黙ってたんだ……。『より効果的な正義の為』に……。うちがたくさん殺したんだ……。うちならなんとか出来たかもしれないのに……」
クロの体は可哀想なほど震えていた。小さな体がより不憫に思えた。
「……仲間だなんて、言えない……。そんな自信……うちには無い……」
皆がクロの近くに寄る。
涙を流さないように堪えようとして、それでも駄目で、涙を流すクロの表情を見てみんな泣きそうになった。
「クロさん……」
グラドがくしゃくしゃっとクロの頭を撫でる。
「君に悪役は似合わない」
「……えっ?」
クロが涙目をぱちくりさせた。グラドは言う。
「君には悪意が無い。悪なら誰だって持っている悪意がまるで無い。身を焦がし、他者を捻じり、自分さえも壊してしまうような、魂の底から出てくる悪意がまるで足りない。
今まで僕が出会ってきた悪人とはまるで釣り合わない」
「え? え……?」
グラドは元の世界で勇者と呼ばれていた。それはたくさんの悪を打ち倒してきた経歴からそう呼ばれているのであり、対峙した悪の質と数ならば誰も彼に敵う筈が無かった。
その彼が言う。彼女は悪としての素質がないと。
クロは困惑する。
「クロさん、君に悪役なんて出来るわけない。似合わない、才能が無い、役が合っていない。下手くそ。悪役としての素質がまるでない」
「なっ……!?」
グラドの言葉にクロは唖然とする。そんな悪口が飛んでくるとは思わなかった。
「な、何を馬鹿な事言ってるのかな!? うちは悪人だっ……! たくさんの人を見殺しにしたんだ! そんなうちが悪人じゃなくてなんなんだっ……!?」
「君に悪役なんて無理だよ」
「…………」
クロは呆然とグラドを見上げる。そんなことを言われるなんて思いもしなかった。自分の抱えている情報を伝えれば、誰もが自分の敵になるのだと思っていた。
まさか悪役に向いていないなんて言われるとは思わなかった。
はっとして、今気が付いたかのようにクロは自分の頭にのせられているグラドの手をまた払う。
「う、うるさーいっ! うちは悪人だっ! たくさんの隠し事をしているんだっ……! うちは悪人なんだぁっ……!」
「はぁ……」
1人の少女がため息をつき、クロに近づいて彼女の肩を抱き寄せた。
京子だった。京子がクロの体を軽く抱いた。
「もぅ、いいから……」
「京子……?」
「あなたの事はまだ全然よく分からないけど……なんとなく、分かったから……」
京子はゆっくりとした言葉をクロにかける。
「村や塔の中層で一生懸命人を守っているのも、今の一生懸命な涙も見ちゃったよ。あの姿は、嘘なんかじゃないもんね……」
「…………」
先程までの戦いでクロは自分よりも圧倒的にレベルの高い『狂魔』に立ち向かって、戦闘に多大な貢献をしていた。
それは彼女の命を危険に晒す行為だった。それでも一生懸命敵に立ち向かい、多くの人を救っていた。
「その姿を見ちゃってるからね……」
「…………」
「『英雄亡霊グレイ』の事なんか信じられないけど……、クロちゃんの事は信じても……、友達だと思ってもいいかな、と思ってる」
「…………」
そして京子は頬をぽりぽりと掻いた。
「あと、それと……これは私の勝手な我が侭なんだけど……」
「京子……?」
「できれば私は……悪人ではいたくないかな……?」
そう言って彼女ははにかむ。
京子は英雄亡霊グレイの命令を受けて行動していた。その英雄亡霊グレイの行動が悪だとしたら、京子の行動も悪になってしまう。
自業自得ではあるものの、もし出来ることなら京子は悪人になりたくなかった。
クロは掠れた声を発する。
「うち……」
「…………」
「うちは、悪人だよ……?」
「はははっ! 急に恐くなくなったな、クロちゃん!」
「わわっ……!?」
震えるクロとは正反対に、軽薄に笑う者がいた。そいつはクロの後ろに腕を入れ、首に腕を回した。
そいつはさっきまでクロの威圧感に圧倒されていた雄樹だった。
「さっきまで本当に威圧感があったのに、今じゃ全然だな! 悪役なんて似合わねぇってのは本当だな」
「わっ、わっ……!」
クロと雄樹の顔は近い。急に強いスキンシップを取られ、クロは顔を赤くしながら慌てた。
「おい、こら!」
「いてっ……!?」
そんな雄樹の頭を万葉が思いっきり叩いた。バシンと、とてもいい音がした。
「いって! 何すんだ! 万葉!」
「それはこっちの台詞よ! なにいきなり小さい子に抱きついてんのよ! このロリコンっ!」
「ばっ……か! お前……! これが場を和ませるためのコミュニケーションだって分かるだろ! この雰囲気でセクハラなんてするか! バカ!」
「あんたがやったらどんな状況でも犯罪になるなんて決まってるでしょ! 警察呼べるならすぐに呼びたいわよっ! このアホロリコン!」
「ロリコンじゃねえっ!」
いきなり自分の頭の上で痴話喧嘩が始まって、クロは困惑した。
雄樹と万葉が喧嘩しながら、叩き合う。その様子を見て、京子が困ったように笑っていた。
明るい陽気が差し込んでくるかのようだった。
「な、んで……?」
「ん?」
「なんで? なんで……?」
クロは困ったように眉を垂らし、震える声で呟いた。
彼女には分からなかった。自分が隠し事をしていることを告げた。人を見殺しにしていることを告げた。自分が不気味で怪しい存在で、人の信頼を受けられないことを知っている。
でも今、彼女の傍には人がいた。人が離れなかった。
それが何故か、彼女には分からなかった。
「それは、あれだよ、クロさん」
グラドは言う。
「悪人はそんな風に泣かない」
「…………」
その言葉を聞いて、クロはグラドと京子の会話を思い出した。
「それに、あれだよ。何度も言うけど……」
「…………」
「君に悪役は似合わない」
グラドは啜り泣くクロに言葉を贈った。彼を見上げるクロの目に、少し光が差し込んだ。
グラドは言う。
「実はね、僕にも秘密があるんだ」
「えっ?」
「誰にも言ってない秘密があるんだよ。でも今決めた。僕も絶対に自分の秘密は言わないよ」
「ええっ?」
グラドにとって自分が英雄グレイであることは必死に隠すことじゃない。
信じている仲間なら話してもいい事情だ。
しかし、止めた。クロと同じ状況になるために。
「だから僕達はどっこいどっこいなんだよ」
「…………」
クロの目がグラドの目を射抜く。グラドは目を逸らさない。
「う……」
クロの目からまた涙が零れた。しかし、それは小粒で、先程までの涙と意味合いが違っていた。止めようとしても溢れ出てしまうのは変わらなかった。
「う、あぁぁ……」
クロは小さな小さな嗚咽をもらした。
「うああぁぁ……」
クロは顔を俯かせ、散々見られた泣き顔を今更になって隠した。
「…………ありがと」
クロは小さくぽつりと呟いた。
まだ彼女は多くの事情を皆に伝えられていない。これからも彼女の秘密は彼女の胸の内から明かされることはないだろう。
それでも周りに人がいた。自分を囲み、頭を撫でてくる。
ただそれだけで救われたような気持ちになる。
まだ何も話せない。語ることが出来ない。彼女は今だ不気味な存在のままだ。
それでも自分を囲ってくれる存在に、彼女の胸の内が熱くなる。
ほろりと涙が零れた。
星が美しく輝いていた。
次話『35話 旅の終わりの始まり(4)』は明日 12/29 19時に投稿予定です。




