16話 柊京子の日常
柊 京子はなにをやっても平凡より劣った少女だ。
最近友達に誘われたVRMMOのゲーム『ティルズウィルアドヴェンチャー』では「キョウ」という名でプレイをしている。
学校の成績も一般的な平均から落ちた場所にいて、得意教科もなく、かといって運動が得意というわけでもない。どの部活動にも入っていないのだから、分かりようもない。そして特に趣味もなく、何かに秀でているわけでもない。絵にかいたような劣等生だ。
ただ、なぜか苦手教科もない。
京子は朝起きると、身だしなみをそろえ、髪を梳き肩まで伸びた髪を二つ結びにしてまとめる。
準備が整うと、朝ごはんが出来るより前に家の外に出て、いつもの日課を始める。
「あ、京子、今日も朝早いな、おはよう」
「あ、お父さん、お早う」
「いつもいつもすまないな。嫌ならいつだって言っていいんだぞ。教え子にやらせたりもできるんだからな」
「ありがとう、お父さん。でも私掃除って結構好きだから」
京子の家は由緒正しい古くからある立派な家だ。
その家にはとても大きな道場があり、父はそこで剣道の講師をしていて、小さな子供や老人まで幅広くニーズに合わせながら剣道の塾を開いている。
真剣を扱った型の稽古まで取り扱っている本当に幅広い塾だ。
京子の朝の日課はその周辺の庭掃除だ。
「毎日朝早くから大変じゃないか?」
「そんなことないよ」
「だがお前はもう剣道をやめているんだ。もうやめてから5年ほど経つのか」
「うん」
「あ……あぁ、すまない、あの話には触れちゃダメだったな。本当に無理しなくていいんだからな」
京子は上を見上げ少しため息をついた。
「大丈夫だよ、お父さん。私、朝の空気って好きなんだ」
そう言って、京子は小さく微笑んだ。
口の端に悲しみのこもった微笑みだった。
京子が朝、登校し、学校の廊下を歩いていると、良く知った顔に声をかけられる。
「わっりぃ! 柊! 放課後生徒会の用事が入っちまってな、『ティルズウィルアドヴェンチャー』にログインするのギリギリになりそうだ!」
「うん、わかったよ、綾崎くん。皆にはそう伝えとく」
「それでも5時には間に合うと思うから! すぐ仕事終わらせて速攻で帰るからよ!」
いつも共に同じVRMMOのゲームをする、『ガスロン』こと綾崎 雄樹だ。
生徒会に所属し、サッカー部でもレギュラーなので、いつもの軽い雰囲気に反して優秀であることがわかる。
そんな中なぜネットゲームでもトッププレイヤーでいられるのか、京子は少し疑問に思う。
どうやって時間を捻出しているのか。多分死ぬ気で遊んでいるのだろう。
「ゲームに夢中になって仕事で手を抜こうなんて役員としてどうかと思うけど?」
京子の後ろから声がする。新たに会話に加わったのは『ベルデナット』こと櫛橋 万葉だ。
突然やってきて、雄樹に対してすぐ憎まれ口を叩いた。
「うっせぇ、よく生徒会をサボる不良役員に言われたかねーや」
「いないときは私が必要じゃないときでしょう? 仕事がある時は、ちゃんとこなしてるわ」
「時々学校までサボって、よく大きな態度でいられるよ」
「私が優秀だからでしょう?」
「バカ」
「アホ」
なんだかんだで相性のいい二人だよなぁ、と京子は思う。
二人の言い争いを見ているのは微笑ましくて嫌いではないのだが、朝の時間は短いので京子はさっさと教室へと入った。
放課後、京子は誰かに体育館裏に呼び出されていた。
明らかな嫌がらせの予感。本来なら無視して帰ってしまうような呼び出し。
京子は大きな溜め息を一つはいて、体育館裏に歩いて行った。
京子は無視した後の報復が恐いわけではなかったが、それでも指定された場所に歩いていくのはそれが彼女の選んだ道だったからとしか言えない。
彼女はそういう生き方を選択していた。
「あんたちょっと調子に乗ってんじゃないの」
数名の女子に取り囲まれた京子はその台詞を聞き思わず苦笑いをしてしまう。
「そ、そんなことはないと思うけど……」
「じゃあなんであんたみたいなのと綾崎くんや櫛橋さんがいつも一緒にいるのよ。それだけじゃないわ、バスケ部キャプテンの大枝くんや、橋本さんだってあんたと仲良くしてるのよく見かけるわ。
あんた学校の有名人に媚び売りまくってんじゃないの」
「それは皆が私の幼馴染ってだけで……」
そうなのだ、京子の周囲の人物は優秀な人ばかりだ。困ったことに彼女の幼馴染はみんな部活で成果を出していたり、成績が優秀だったり、絵画とか学外のコンクールで実績をだしている。
京子からしたら彼らは自慢の友達なのだが、こういったやっかみを受けることが時々ある。
「あんたみたいなブスと彼らが仲良くするわけないでしょ」
「そうよ、あんた彼らに無闇に尻尾振りまくってんでしょ」
「あるいは彼らの弱みを握ってる腹黒とか」
「やだ、サイテー」
京子は思わず出そうになるため息をおさえる。
ごめんなさい、グラドさん、クロさん、亀吉さん。私も少し遅れそうです。
「おい、お前達何しているっ!」
突然大きな声が場を揺るがした。
生徒会に出ているはずの綾崎くんと万葉ちゃん、それに大枝くんまでいる。
京子を取り囲んでいた者たちが動揺する。
「あ、綾崎くん!?」
「綾崎くん、櫛橋さん、違うの……、こ、この子が!」
「そうよ、この子が私の財布盗もうとしていたから……!」
「嘘も休み休み言えっ! 柊がそんなこと出来るわけないだろう!」
京子はホッとする。思ったよりも早く帰れそうだ。
「今回のこと見なかったことにするのと、学校で大きく話題にするのとどっちがいい?」
「……ッ!?」
万葉がドスを聞かせて周囲の女子たちを脅した。
「く……櫛橋さん! 綾崎君! どうしてそんな陰気な女なんか庇うの!? そんな奴と一緒にいたらあなたたちまで汚れが移るわ!」
「おまっ……! この野郎……!」
「だって、そいつ……!」
その女性は叫んだ。
「だってそいつ、人殺しらしいじゃないっ……!」
体育館の裏に、その叫び声だけが凛と響いた。
顔を青ざめる京子の友達の3人。瞠目し、唇を震わせる。
京子を囲う、その発言者本人でさえ自分の言ったことに緊張し、かすかに体を震わせていた。その大きな叫び声の後に待っていたのは、水を打ったかのように静まり返った空間だけだった。
誰もが動けなくなる。
自分たちの心臓の音だけがやけに大きく聞こえる中、誰もがその静寂に息をのんだ。
その中で一人だけ、何もなかったかのように口を動かす人がいた。
「ねぇ……」
京子がその女子にすっと近づいた。
その女子の体がびくっと跳ねる。
「今日はもう帰りなよ」
そう一言だけ、優しく語りかけた。
その女子は口をわなわな震わせて、そしてぐっと目をつむると、震えながら踵を返して去っていった。
力なく去っていった。
「ふぅ……」
京子が小さなため息を一つ。
「ありがとね、みんな。おかげで助かったよ」
「え……?」
「あ、いや……」
綾崎たちは額から滲んだ冷や汗を拭った。
「京子……大丈夫? ……あんなこと言われて」
「うん、大丈夫だよ、万葉ちゃん」
「京子……。あなたはなんにも気にする必要ないんだからね?」
櫛橋は少し強張った手で京子の背を撫でた。
「大丈夫? 柊さん?」
「うん、ありがとう、みんな。今生徒会の途中じゃないの? 大枝くんはバスケ部の活動中だよね?」
大枝は答える。
「いや……部活の休憩中にね、同じく生徒会を休憩中の綾崎と櫛橋と話してたんだけど、体育館の裏でなんか変な声が聞こえるからさ」
「助かったよ、大枝くん」
「礼にも及ばないよ、柊さん。実際僕は何もしてないしね……」
こうあっさり見つかってしまうということは体育館の裏はあまりいじめのいいポイントではないのだろう。京子は新たな発見をした。
万葉は口を尖らせて京子に説教をする。
「いい? もし今回のようなことがあったらすぐに私達に連絡すること。一人でのこのこ、こんなとこに来る意味なんて何にもないんだからね」
「そうだよ、柊さん、困ったらすぐに僕たちを頼ってくれていいんだから」
「その通りだな、柊。お前が戦う必要なんてないんだからな」
3人は京子のことを心配するように説得する。
「……うん、ありがとう」
京子ははにかんで答える。しかし、口角はあがりきっていない。曇りのある笑顔だった。
今後もこういうことはあるだろう。しかし今の自分を変えるつもりは京子にはない。
また呼び出しがあれば甘んじて応じるし、パシリに使われるのなら喜んで使われるだろう。
そこに抵抗はない。
困りながら、人の悪意を受けていく。
そこに抵抗はない。
私はこうやって生きていくのだ。こうやって生きていくしかないのだ。
京子の目に諦観は宿っていなかった。
代わりに確固たる意志がこもっていた。
虐げられて生きていく。
それは京子が胸の内に抱えたくすんだ思いだった。
* * * * *
その部屋には大量のパソコンが並んでいた。
大きなパソコンの画面が所狭しと配置され、まるで壁のようになっている。
天井にいくつも取り付けられた白い蛍光灯が部屋を眩しく照らす。10月の終わり、冬の寒さがじわじわと染み出してくる中、パソコンの排気の熱とエアコンが部屋の温度を快適に保ちながら、この部屋にいる者たちは真剣な顔つきでパソコンと向かい合いながら仕事をしていた。
コンピュータソフトの制作会社『アナザーワン』の仕事場の光景である。
「うーん……?」
そこでアバター名『亀吉』こと橘 龍之介という17歳の学生がバイトとして働いていた。
彼はパソコンの画面と睨めっこしながら、うんうんと唸っていた。
「どうした? 橘君?」
「あ、社長……江古田さん……」
龍之介が顔を上げると2人の上司が彼の傍に立っていた。
彼に声をかけた中年の男性はこの会社の社長『天城誠史郎』だった。背が高く、コンピューターを扱う仕事の社長にしてはとてもがたいが良かった。まるで力仕事を長年こなしてきた人のように筋肉が発達している。
たった15年ほどで『アナザーワン』という会社を誰もが知る有名企業にした才気溢れる人物であった。
傍にいるのは50代後半の江古田という男性だ。以前、渋川という社員が入院したことを龍之介に伝えた人物である。
穏やかな顔つきの温和で少し太った人物であった。一時期『お仏さん』という渾名が付きそうになったが、やっぱ縁起でもないということで定着しなかった。
これでも有名なゲームをいくつも世に出してきた敏腕なクリエーターである。
「昨日、『英雄亡霊グレイ』のことや初期位置の配置バグについて報告したじゃないですか」
「あぁ……。Lv.1なのにバルディンの村近くで始まるバグか……。アカウント名は『グラド』と『クロ』だったか?」
「はい、社長。でも、その二人のアカウントを検索して、データを調べようとしたんすけど……、なんでだろう……その二人のアカウントが出てこないんすよ」
検索してもアカウントが検出できない。
それはこのゲームの中に存在していないことと同義だった。
「え? 登録されたアカウントのデータ自体までバグってるの? 初期位置の配置だけじゃなくて、基本データまでやられてるの?」
「……だと思うんすけど、江古田さん……。これじゃあ二人のデータの修正すら出来ない……。想像よりもずっと厄介なバグだなぁ……」
龍之介は頭をぼりぼりと掻いた。
「……もしかして、本当に『英雄亡霊グレイ』とかいう奴の影響だったり?」
「あはは……、都市伝説相手に商売したくはないなぁ……」
江古田は優しそうな顔を緩ませ、困ったように笑った。
「どうします? 社長?」
「橘君、当の2人にはもう会っているのだろ? 2人はどんな対応を望んでいた? それについて話したか?」
「それも少し聞きまして、アカウントを一時凍結して対応に当たるのが妥当だと伝えたんすけど……、それじゃあβテスト期間が終わってしまう、βテスト終わるまでうちらはこのままでいいから遊ばせてくれ、アカウントの凍結なんてまっぴら御免だ、ってクロから猛抗議を受けちゃいまして……。
それも困ってるんすよねぇ……」
「どちらにしろ、アカウントが検出できないんじゃ、一時凍結も出来ないしね……」
3人して頭を抱えた。
「……これ、サーバーのメンテナンスが必要っすかね?」
「いや……、報告事例が2つだけのものにそこまですることは出来ない。あまり客を疑いたくないが、その2人がチートコードを使ってない保証もない」
「……なるほど」
注意は必要だがな、と社長の天城誠史郎は付け加えた。
「とりあえず龍之介君、これはもうバイトが対応するようなバグじゃないからうちらの方で預かるよ」
「ありがとうございます、江古田さん」
「βテスト終了まで、今日入れてあと3日か……それまでにこのバグ直るかな……」
「橘君、君は今日、例の2人と会うんだっけ?その時に今後の対応について2人ともう少し話をしてみてくれ」
「了解しました、社長」
龍之介は頷いた。
「……今日、橘君は『英雄亡霊グレイ』についての調査だったか?」
「はい……、これって仕事なんすかね?」
「微妙だな」
3人は困ったように笑い、グラドとクロの存在を示さないパソコン画面を眺め、ただ首を傾げていた。
「ただ、『英雄亡霊グレイ』というのがバグを振りまく存在という噂がある。バグは不利益に直結するから阻止できるのなら阻止したい。だが、都市伝説などといった曖昧なものに社員の時間を割くわけにはいかない。
なにも無いだろうが念のため、と言ったところか……」
「でも『英雄亡霊グレイ』の被害にあった者は1ヶ月昏睡状態になって、記憶に齟齬も見られるようになるんすよね? これってやばいんじゃないんすか?」
龍之介の問いかけに、江古田が回答する。
「それについてはね、龍之介君。VRの分野全体が持つごく稀に起こる健康被害であると司法が結論付けているんだ。原因が分からない危険な症状だけど、ゲーム単体の不備によるものじゃないとされているね」
「VR分野全体の問題として、医療的観点からの解決法が探られている状況であり、我々がどうこう出来る問題じゃない。そして正直、この健康被害一つでVR市場全体を閉ざす訳にはいかないっていう状態だな。事例も少なすぎる。
まさか司法が『亡霊』の仕業だと結論付ける訳にはいくまい」
亡霊なんかを意識して司法が判断を下す訳にはいかないし、都市伝説なんかを危惧しながら会社が仕事をするわけにもいかなかった。
だが、まるっきり放置という訳にもいかない。だから龍之介が行う今日の仕事は何もないだろうけど一応、という安い給料の人材を使うべき仕事であった。
「面倒臭いな。うちの息子にタダでやらせれば良かったか……。橘君、今からでもあいつを呼んでこきつかっていいぞ?」
「そんなご無体な……」
「給料位払ってやりましょうよ……」
龍之介がこの会社でバイトしているのは社長の天城 誠史郎の息子と彼が幼馴染であったからだ。
社長の息子の紹介によって龍之介はここでバイトを続けていた。
龍之介は前時代のゴーグルの形の名残が残ったVR機器を手に取り装着し、VRゲームへのダイブの準備を始める。スイッチを入れたら龍之介の意識は『ティルズウィルアドヴェンチャー』のゲームの中に吸い込まれていくだろう。
「それじゃあ行ってきます」
「あぁ、仕事頑張って」
「行ってらっしゃい」
2人に見送られながら、彼はVR機器のスイッチをオンにする。
そうして龍之介はゲームの世界へと意識を沈めていった。




