1話 旅の終わりの始まり(1)
月が輝いていた。
星も負けじと輝いていた。
満天の星々が夜の空を煌びやかに照らしていた。
風は静かに揺れ、草は優しくなびき、さわさわと小さな音の粒が響いている。
月と星は夜の草原を煌々と照らしている。
暗い夜ではなかった。
空の輝きはこの世界をどこまでもどこまでも照らしている。
とある少女は草原の絨毯の上にお尻をついて座っていた。
星と空と、遠方に見える魔王城を見上げながら、その透き通るような金色の髪を風になびかせ座り込んでいた。
少年を待っていた。
この旅の終わり、目的である魔王城を見上げながら、この旅を共に歩んできた少年を待っていた。
夜風が少女の傍を通り過ぎ、舞っていく。
少女はこれまでの旅に思いを馳せた。
* * * * *
私はとある帝国の皇女だった。
世界全体を牽引する強大な大帝国。その第一子として生まれ落ちた。
ありとあらゆる英才教育を叩きこまれ、その全てに十全の結果を出してきた。勉学も運動も魔術も戦闘技術も、あらゆる分野における一流の教育者が集められ、その全ての人を驚かせてきた。
魔術を3歳で使えるようになり、最年少記録を打ち立てた。4歳のころ、大人の騎士を打ち倒せるようになった。
皆が私のことを褒めてくれた。
天才だ。1000年に1度の天才だ。流石は先の大戦争の英雄である皇帝と光の聖女の第一子。才能を存分に、いやそれ以上に受け継いでいる。大帝国も安泰だ。
そう周囲は騒いでいた。
父と母達は優しく、妹や弟達も健やかに育っていた。
今思ってみても順調な幼少期であったと思う。
しかし、魔王が生まれた。
私が6歳の時、遠くの大陸で魔王が誕生した。
世界は一瞬にして荒れ果てた。
いくつもの国が魔王の一派、魔族と言われる者達の手で打ち倒され、たくさんの人たちが犠牲となった。
魔王がどうして生まれたのかは分からない。
私が3歳の頃に終結した戦争が原因なのではと、世間では言われている。世界に広く波及した大きな戦争。その憎しみや恨みが力を持って生まれた存在、それが魔王なのだと言われていた。
世界は混乱と狂気に包まれた。私の帝国も、領土が大きかったせいだろう、全ての領地を守りきることが出来ず、あちこちで大きな被害を出した。
従属国がいくつも滅ぼされ、魔族の支配下となった。帝国の兵力では全ての従属国を守りきることが出来なかった。
帝国の中心も荒れるようになった。
魔族の軍勢が襲い掛かってくるような直接的な被害は無かったのだが、ごく少数の魔族が帝都に忍び込み、様々な工作を行っていた。
魔族の姿は人と何も変わらない。魔族を見分けるのは困難を極めた。
世界全体が荒れに荒れ、私の家族も犠牲となった。
父と三人の母が食事に毒を盛られた。その時は分からなかったのだが、魔族の手先となった宰相の仕業だった。
父達はなんとか一命を取り留めたものの、毒の後遺症で下半身不随、体力と魔力の低下、寝室で寝たきりとなった。
とても国政を担うことは出来なかった。
私は8歳にして皇位を継いだ。
最年少の皇帝だった。
勿論、若すぎるし、国政の何たらを分からない子供の補佐として摂政が置かれた。実質的な政治、治世はその摂政が行った。
しかし、その摂政の役に就いたのは父と母達に毒を盛った宰相であった。当時の私はそれを知る筈も無く、ただ指をくわえて宰相の行う政治を見守る他なかった。
帝国は食い物にされた。
宰相とその手下である貴族は、帝国が魔族に侵攻され大変な時にも関わらず、帝国の金に手を付け私腹を肥やし、利潤を貪った。
それどころか、魔族に国の一部を売っていたらしい。一部の土地の侵略を認める代わり、多額の見返りを貰っていたらしい。
国はボロボロになっていくのに、宰相や貴族は笑っていた。
私はそのおかしさに気付いた。
そして怒り狂った。その卑しさに、醜さに。世界では魔族の被害によってたくさんの人が涙を流しているというのに、こんな近くにいる大人が、そしてこの帝国を支配している者が汚物よりも臭く汚い者であったことに強烈な嫌悪を覚えた。
そして恐怖した。
この悪の怪物は、次に私の弟や妹に毒を盛る気ではないだろうか。
そう考えただけで、私の胸の中で怒りの炎が激しく燃え盛った。
その炎は私を焼いた。
すぐさま、私は一人で秘密裏に行動を始めた。宰相が為したことの証拠を探したのだ。
もうこの帝都には宰相の息のかかった者で溢れている事には気が付いていた。全て一人で、内緒で事を進めた。誰も信用は出来なかった。
さらに、この国の政治、経済、軍備の知識も蓄えた。宰相によってボロボロにされたこの帝国を立て直すため、それらの知識は必要不可欠だった。時として、その知識から宰相の行動の証拠が集まったりもした。
大分時間はかかったが、国の全てを把握することが出来た。
それが出来たのは以前から帝王学や政治経済を学んでいたことが理由の一つであるが、それよりも、こういうことを自分で言うのは気が引けるのだが、私にはあらゆることに通じる万能の才能があった。
国の全てを把握できた。それは、うん、努力よりも才能の方が大きかったように思える。
ただ、それを為すだけの怒りと使命感、そして執念が私の中で炎を灯していた。
宰相の首を謁見の間で斬り落とした。
あらゆる証拠を集め、反論の余地を与えず、処刑した。
自分自身の手で首を斬り落とした。
宰相も様々な防衛策を取っていたようだが、私のことは盲点だったのだろう。9歳程の子供に何も出来るはずが無いと決めつけ、遂に自分の状況を把握できないまま死んでいった。
それから、国の全てを私が担った。
政治、経済、軍備、食料問題、ありとあらゆる政策を自分の手で行った。まだ、宰相の手下であったものが貴族の中には残っている。魔族と繋がっている者がたくさん残っている。
誰も信用できなかった。
そして、全てのことを自分一人で成すだけの能力が私にはあった。
一人で戦っていた。
私は苛烈であった。
宰相の元で腐った貴族は全て断罪した。この手で首を刎ねた。
紛れ込む魔族を確固たる証拠の元に処刑した。私は躍起となった。
私は苛烈であった。
弱った帝国の改革を強烈な勢いで進めていった。軍備を大幅に拡張し、魔族と戦っていった。政治の権力が私ひとりに集中するように事を運んだ。全て帝国を強くするためだった。
苛烈で、強烈で、熱烈で、誰もついて来られないようなスピードで帝国を成長させた。
誰も信用が出来なかった。
この国で、紛うことなく、私が最も優秀であったためだ。
全ては帝国を守るため。家族の全てを守るため。弟や妹たちを悪から守るためであった。
ただただ全てを守りたかったのだ。
私は分かっていた。いくら私の行うことが正しく、成果を出したとしても、ここまで強烈に改革を進めれば、誰かが私を恨むだろう。憎しみを持たれてしまうだろう。
その恨みが正当なものであろうと不当なものであろうと、その恨みによって私の命は果ててしまうだろう。誰かが強烈な改革を進める皇帝を引き摺りおろし、殺すだろう。
それを私は覚悟していた。
帝国を強くし、その果てに死ぬのなら何の悔いも無い。私にはやりたいことがある。
帝国と、家族を守りたいのだ。弟や妹に笑っていてほしいのだ。
帝国をある程度強くし、その後に私が死んでも、誰かが私の築いた足場を利用して帝国を守ってくれるだろう。魔族との戦いに打ち勝ってくれるだろう。
私は自分の死を覚悟していた。
妹や弟の為なら。
その妹たちと久しぶりに一緒に食事が出来る時間が取れた。
彼女たちに美味しいものをと思い、最高級の食事を用意したのだが、何故か妹たちは震えていた。何かに怯え、恐がり、震えていた。
どうしたのですか?と聞くと、怯え、顔を真っ青にしながら、それでも勇気を振り絞ったのかもしれない、震える声でゆっくりと声を発した。
姉様が、恐ろしいから。
後で鏡を見ると、確かに私はとてもひどい顔をしていた。
* * * * *
私はある従属国の現状を視察、及び支援するために、たくさんの軍隊を率いてその国を訪れた。それは私が10歳のことだった。
いつも通りにその国を改革し、混乱の隙を付くように私腹を肥やす貴族共を断罪し、軍備を拡張させ、田畑を増やすよう指示をだし、その国を強くした。
その国に滞在中、魔族の襲撃があったが、軍隊の力と私の魔術によって返り討ちにした。
一通りの仕事が終わり、連れて来た軍隊の何割かをその国の警護に当たらせ、置いていった。私の滞在はそこまで長い期間では無かったのだが、それでもその国は日に日に活気を取り戻し、豊かになっていった。微々たる変化ではあったのだが、確かに私の活動は人を助けるものであった。
いくら強烈で、的外れな非難にさらされようとも、確かに私は人を、国を救っていた。
事件があったのはその帰りであった。
その従属国から自分の帝国へ帰還する際中、背後から敵が襲い掛かってきた。その従属国の兵士達であった。裏切りであった。
同時に別の方向から魔族の軍も襲い掛かってきた。その従属国は魔族と繋がっていたのだ。
私自身と行動を共にしていた軍隊で迎え撃った。
2対1であり、さらに私の軍隊は数が少なかった。それでも私達はなんとか敵を抑え込んでいた。私の魔力は既に一般的な兵士のそれを大きく上回っていた。
なんとか打ち倒せそうだ。そう考えていた時だった。
背後から剣撃が襲い掛かってきた。私の背中から赤い血の花が咲いた。
自軍の将軍の裏切りだった。この将軍は今襲い掛かってきている従属国と、さらに魔族とも手を組んでいたのだ。私を殺すために。
魔力を体に纏わせており、それがいくらかの防御となったのだが、私は不意打ちを避けられず、浅くない傷を負った。
敵中で孤立していた。私の周りにいるもの全てが一瞬にして私の敵になった。3つの兵力が一気に襲い掛かってきた。
私は自分の身の丈ほどもある大きな杖を強く握りしめた。徹底して抗戦した。
もう勝利を確信しているのか、下卑た笑いを顔に張り付けながら襲い掛かってくる敵を杖で殴り殺し、魔術で焼き殺した。
背から血を流しながら、何百と言う敵を一人で殺していった。
それでも限界が来た。
魔力が尽き、体力が尽き、体が鉛のように重くなってしまった。足が立たず、地に這い蹲ってしまった。
ここまでだった。
敵兵が剣を構えながら私に近づいてくる。
死が近づいてくる。ここが私の終着点だと覚悟した。
なんてことはない。私は常日頃から死を覚悟していた。
強烈な改革を行う幼き皇帝。為した成果に関わらず、恨みを持たれ命を狙われるのは自明の理であった。
私はいくつもその凶刃から身を守ってきたが、今回は凌げなかった。
故に死ぬのだ。
後悔は無い。
自分の行ってきたことが我が帝国の礎となり、たくさんの人の命を守っていくならばそれが本望である。
それが私の望みであったし、為したい事であったし、使命であった。
きっと誰かが私のしてきたことを踏み台にして、帝国や民衆を守ってくれる。
そう思っていたから、死を覚悟していた。
敵が歩み近寄ってくる。
死が近づいてくる。
自分の最後をどう飾ろうか。潔く死ぬために、どういった行動をとろうか。
辞世の句でも唱えて死のうか。よし、そうしよう。
私は声を発した。
「…………いやだ……」
掠れた声が自分の口から出ていた。
……あれ? おかしいな? 辞世の句を詠もうとしていたのに。
……やり直さないと。
「……いや、だ……。いやだ……、死にたく、ない……」
……おかしいな。おかしいな。こんなこと言う筈じゃないのに。
私の意志に反して言葉が勝手に漏れていく。意思に反して、目から涙が零れていく。こんな筈じゃなかったのに。
「いやだ……! いやだいやだ! 死にたくないっ……! 死にたくないっ……!」
無様に泣きじゃくっていた。碌に動かない体を引き摺って、少しでも敵から離れようとしている。惨めな抵抗だった。
「いやだ……! 死にたくないっ! 誰か助けて……! お願いしますっ……! 誰か助けてっ……!」
簡単に髪を掴まれた。私の体はもう泥だらけだった。
「いやだっ……! 離してっ……! いやだいやだ……! 助けて下さい……! お願いしますっ! 助けて下さい! 何でもしますからっ……!」
裏切り者の将軍が、見るに堪えないようなものを見る目で私のことを見ていた。体中がガチガチと震えた。
みっともなく涙を流していた。鼻水をたくさん垂らしていた。唾を撒き散らしながら懇願していた。
将軍が剣を振り上げた。
あ、もうだめだ。
恐くてギュッと目を瞑った。
肉が断たれる音がした。
不思議と痛みは無かった。
血が舞う水の音がする。
生温かい血が私の体に掛かった。
不思議と痛みは無かった。
……あれ? なにかおかしい? 全然痛くない?
まだ死んではいないと思う。掴まれていた髪が放される。
自分の血が自分にかかるのもおかしい。なにかがおかしい。
私は恐る恐る目を開けた。
すぐ傍に将軍の死体があった。一撃で斬り殺されていた。
顔を上げた。
そこには見知らぬ少年がいた。血のこびり付いた剣を抱えていた。
灰色の髪を持ち、灰色の目をしている。男性としては少し伸びた灰色の髪を後ろで束ねており、目は丸っこく、人の良さそうな顔をしていた。
少年が小さく微笑んだ。
「この人たち、全員魔族の手先?」
私はただ、呆気にとられていた。
「え……あ、はい……」
「そうか」
ふと、灰色の少年が剣を横に薙いだ。
軽く力を入れた一閃。たったそれだけで周囲を囲む軍隊の3割程が、剣の風圧によって真っ二つにされた。
場が呆然とした。
誰もが何が起こっているのか分からなかった。体が斬り裂かれ、地面に崩れ落ちる兵隊達。その様子を夢でも見ているかのように眺める兵隊達。
灰色の少年の体がぶれた。
一瞬の後には彼は全く別の場所にいて、そこを中心に赤い血の花が咲き乱れていた。
速い、速すぎる。目で追えない。もうあんな場所にいる。至る所で血が舞い散っている。全て彼一人でやっている様だが、速すぎて何が何だか分かりやしない。
私はその時初めて自分の理解が追いつかないものに出会った。
私よりも強い人に初めて出会った。
生き残りの魔族がわなわなと震えながら叫んだ。
「そ……そうか! お前か! お前が勇者グレイなのかっ!」
その男が叫び終わると、いつの間にかそのすぐ目の前に灰色の少年が立っていた。
「勇者っていう格好いい人間じゃないと思うけどね、僕は」
少年は剣を振った。
そしてもう、彼以外、誰も立っている者はいなかった。
「大丈夫?」
ちょっと馬車酔いでもした人に掛けるような気楽な感じで、灰色の彼が私に語りかけてきた。
これが出会いだった。
私、皇帝アリシアと勇者グレイの出会いだった。
* * * * *
「ぶえ゛え゛えええぇぇぇぇん゛ん゛んん゛んんんっ……!
助゛けてくれ゛てあ゛りがとう゛っ……! 助゛けてくれ゛てあ゛りがとう゛ござ゛います゛う゛う゛う゛うううぅぅぅぅぅぅぅっ……!
ぶわあ゛あ゛あ゛あああぁぁぁぁぁぁぁん゛ん゛ん゛んんんんっ……!」
「わ、分かったから……落ち着いて、ね? ……ね!?」
私はグレイと言う少年にしがみ付いていた。
年は私よりも上だろうか、12歳ほどに見える。
その彼にしがみ付き、顔を埋め、涙を擦りつけ、鼻水を擦りつけ、涎を擦りつけた。私は生き残れたことが余りに嬉しく、半狂乱になりながら、皇帝の誇りとか、女性としての品性とかそう言ったもの全てを鼻水と涎に変え、彼に擦り付けていた。
「ぶわあ゛あ゛あぁぁぁぁん゛ん゛んんっ……!
死゛ぬ゛かと思゛ったあ゛あ゛あぁぁぁっ……! も゛う駄゛目゛かと思った゛あ゛あ゛あぁぁぁっ! あ゛りがとう゛ござ゛います゛う゛う゛ううぅぅぅぅっ……!
うわ゛あ゛あ゛ああああぁぁぁぁぁぁん゛ん゛ん゛んんんん…………っ!」
必死でしがみ付いた。
自分自身もう訳が分からなくなっていたのだろう。ただ、ここで彼を離したら自分は今度こそ死んでしまいそうな気がする。そんな錯覚に囚われた。
だから容赦無く鼻水を擦りつけた。
「あぁ……どうしよう、困ったなぁ……、これ、どうしよう……」
彼はほとほと困り果てていた。さりげなく『これ』呼ばわりされたけど、そんなこと気にしていられる余裕はまるでありませんでした。
私は全く容赦をしませんでした。
彼は私を近くの安全な村に送り届けてくれた。
宿に着き、もう夜が更けていたので私達は床に着くことにした。
それでも私は彼を離さなかった。彼は頬を掻きながら困っていたが、傍にいて下さい、お願いします、傍にいて下さい、という私の必死な懇願によって傍で一緒に寝て貰うことになった。
そういう、男女の、性的な、意味では無い。
そういうものを意識するには私達はまだ幼かった。
ただ安心したのだ。彼が傍にいると。
一晩明けて、私は冷静さを幾分取り戻した。
そうすると昨日の行動に対する恥ずかしさが一気に込み上げてくるもので、申し訳ありませんでした、昨日は気が動転していたのです、大変失礼なことをしてしまいました、と極めて冷静に努めながら謝罪を行った。
いや、いいんですよ、とグレイさんが返してくれた。
あまり怒っている雰囲気は無く私はほっとした。
だが、じゃあ僕はそろそろ行きますね、一人で帰れますよね?と言う彼の言葉を聞くと、私は反射的に彼の服の裾を掴んでいた。
かあっと頬が熱くなるのを感じた。自分はこれほどまでに弱い人間だっただろうか。一回の死の恐怖が私の心を鎖でガチガチに縛っていた。
彼はまた頬を掻きながら、困ったなぁ、と言っていた。
彼は私を家まで送り届けてくれると約束してくれた。
恥ずかしい思いで一杯になった。大丈夫です、と強がりすら言えなかった。一緒にいて欲しかった。彼に守って貰いたかった。
私はこんなにも弱い人間であったのか。
グレイさんも村の人たちも私の顔を知らなかったようだ。
それもそうだろう。似顔絵でもない限り、辺境の地に私の顔が知られることは無い。それにグレイさんはこの帝国の人間でもないように見えた。
「君って帝都に住んでるんだ。まだ一度も行ったことが無いなぁ」
グレイさんがそう言った。
「いいところですよ? 今は前よりボロボロではありますが……」
「でも、そこの皇帝って凄く恐い人らしいからなぁ……。見たことある?」
恐い人ですか、そうですか。まぁ、仕方のないことですが。分かってはいましたが。
はぁ、と溜息をついた。
広い平野を歩いている時、事件が起こった。
魔族の軍勢が後方からやって来たのだ。
大軍が地響きを鳴らしながら近づいてくる。魔族の唸り声がびりびりとその身を震わせた。
たったそれだけのことで私は恐くなってしまった。血の気が引き、昨日の恐怖が体の中を駆け巡る。震えが止まらなくなってしまった。
「お、また来たか」
グレイさんは、まるでこれが日常の出来事であるかのように、悠々と剣を構え魔族の大軍に向かっていった。
そしてその人たちを軽く斬り殺していく。
私は反対方向に逃げだした。彼に付いていけばいいものの、足が勝手に魔族から逃れようとしていた。
それが完全に裏目に出て、別の方向から進軍していた魔族の軍に見つかり、取り囲まれてしまった。
「なんだ、この娘は」
怯え、震え、歯をガチガチと鳴らす私。まさか帝国の皇帝がこんな場所に一人でいるとは魔族も思わなかったのだろう。魔族は私の正体に気付いていないようだった。
「とりあえず殺すか」
魔族のその言葉に、私の体はビクッと震えた。
剣を構えながらゆっくりと近づいてくる魔族。私は足が竦み、ギュッと杖を握り締め、怯えた目で魔族を眺めるほかなかった。
魔族が剣を振り上げた。
「い、いやぁっ……!」
無意味な抵抗と知りつつ、手に握った大きな杖を横に振った。
「うごぉっ……!?」
魔族が吹っ飛んだ。
100mか200mは吹っ飛んだだろうか。私の杖が魔族の鎧を砕き、骨も砕いて、魔族を吹っ飛ばした。低音の悲鳴を口から漏らし、魔族は高く高く弧を描きながら吹っ飛んでいった。
皆一様にぽかんとしてその光景を見守った。
私もまた、自分でやったことの筈なのに、その様子を呆然としながら見守っていた。夢でも見たような気持ちになった。
その光景を見ると、私を強く縛っていた恐怖とか緊張とかが一気にすっと軽くなり、私は穏やかな気持ちで一杯になった。
もう一人殴った。ぽーんと高く飛んで行った。
「き、貴様一体何者だっ!?」
「ただの小娘じゃないぞ!? 何なのだ貴様!?」
狼狽えはじめる魔族達。
その様子を見て、私は確信を持った。
そうか……そうか、私は強かったんだ!
何も怯えることは無い! 私は強い人間だった!
それまでの恐怖は影も形も無くなり、体がとても軽くなった。
敵を殴った。敵が吹き飛んだ。敵をまた殴った。敵がまた吹き飛んだ。
ぽーんぽーんと敵が空高く吹き飛んでいく。魔族が狼狽えはじめている。それでも私はひたすらに殴った。
軽くなった体を動かし、強く握りしめた杖を振るった。
そうかそうか、私は強かった! 私は強かったのだ!
力こそパワー! 暴力と魔族が跋扈するこの世の中で、私は強い力を持っていたのだ!
力が世の中の全てではないだろう。だが、この世の中で力はとてもとても大切なものなのだ。嘘も屁理屈も建前も意味をなさず、力はとてもとても大切なものだった。
私はまだ、沢山のものを守れることが出来るだろう。
周囲にいた魔族は全員倒れ伏せた。
私は勝者だった。ウィナーだった。完全無欠だった。天下無双だった。
晴々した気持ちが胸の中に広がっていった。
戦える、私はまだ戦える。
死んでなんかいない、私は弱くなんてない。
強い人間として、私はまだ戦える。
私はまだ生きているのだ。
「あぁ……! 君、こんなところにっ……! 大丈夫だったかい……、って、うおぉっ!? なんだ、これっ!?」
グレイさんが周囲に倒れ伏せている魔族の群れに気付き、ぎょっとしていた。
私はにぃと笑った。
Vサインを彼に向けた。
それが旅の始まりだった。
勇者グレイと共に歩んだ、冒険の旅の始まりだった。
挿絵多めで頑張ります。