第三話
そして試合開始と共に、時雨は初手で相手に腹を殴られ、あっさり瞬殺されてしまったのだった。
一応、黒服の白バージョンの人間が診察したが、彼らは問題ないと判断し、時雨をそのまま放置して帰って行った。
うなだれていた少年はもう退室していて、控え室にいるのは時雨一人になった。
「私……、何も……、悪い事……、してないのに……っ」
やっと身を起こした時雨は、そう独りごちて壁に背を預けて膝を抱えた。
こんなの……、いやだ……。
まだジンジンと痛む腹を撫でながら、時雨は小さく嗚咽を漏らし始める。
すると、廊下に出る方のドアが開いて、誰かが控え室に入ってきた。その人物は部屋の端にいる時雨を見つけると、ゆっくりと近づいてきて彼女の目の前で止まる。
「君は時雨ちゃん、かな?」
うずくまる時雨の頭上から、声変わり寸前の少年のような、少しハスキー気味の少女の声が降ってきた。
「はい……、そうです……」
彼女の質問にそう返事をした時雨は、泣きはらしてグショグショになった顔を上げた。
「……っ」
時雨の顔を見たその少女は、驚いたようにその精悍な目を見開いた。だがそれは一瞬だけで、すぐに元の表情に戻った。
そんな彼女は、酷い顔になっている時雨を見かね、これ良かったら、と手にしていた真っ白なタオルを時雨に渡した。
スラリと背の高いスレンダーな体つきと、スケートボード場にでも居そうな服装のせいで、その少女は、一見すると麗しい少年のように見える。
彼女に礼を言ってから、時雨は顔に付いた涙を拭う。
「この部屋には、あまり長居しない方がいい」
少女はしゃがみ込んで時雨に目線を合わせ、ここは空気が良くないからね、と付け足して、緊張する時雨の安心させるように優しく言う。
表情こそ硬めな彼女だが、その瞳には他の選手達と違って力強い生気が宿っていた。
「……あ、はい。ありがとう、ございます」
暖かみを感じる言葉を久しぶりに聞き、時雨は少し気が休まるようだった。
「あの、あなたは……?」
「ん? ボクかい?」
履いているスニーカーの紐を締め直す彼女は、時雨の質問に、玲だよ、と答えた。
「立てるかい?」
玲と名乗った少女は、時雨にそう訊ねて立ち上がり、腰を折ってぺたんと座っている彼女に、黒い指ぬきグローブをはめた手を差し出す。
その手を借りて立ち上がった時雨は、もう一度感謝の言葉を言ってから、
「あっ、あの玲さん」
「なんだい?」
「試合、が、頑張ってください……」
少し頼りなく弱々しい激励を玲に送った。
「どうもね」
彼女は少し切れ長の目を細め、頭のバイザーに手を触れつつそう言った。
時雨が自分の部屋に戻ると、ちょうど玲の試合が始まる所だった。
彼女の対戦相手相手は、長身の玲よりも2回りほど背が高く、プロレスラーの様に筋骨隆々の大男だった。
得物は用意された中で一番大きい、 長さ2メートルの棍棒を手にしている。
対して玲は何も武器を持っておらす、両前腕に防具を追加しただけだった。
大男の方は外部の選手で、地下格闘技界では有名人だ、とリングアナが説明した。
そんな人物と闘っても勝てないんじゃないか、と時雨は思ったが、
『青ゲート! 我らがチャンピオン! アァァァァ! キィィィィ! ラァァァァ!』
あんなに優しそうなのに、そんなに強いんだ……。
玲がここのチャンピオンだと聞いて、彼女はひっくり返りそうになった。
彼女の名前がコールされると同時に、観客席からすさまじい玲コールが巻き起こった。
大男はその事が気にくわないらしく、玲に向かって何かを言う。彼女はそれをショートパンツのポケットから出した、チューインガムを噛みながら完全に無視する。
案の定、玲のその態度が男の勘に障り、彼は激昂して顔を真っ赤にして喚きちらす。
それでやっと玲は男の方を見たが、彼女は恐ろしく冷徹な目をしていて、その口元だけが笑っていた。
まもなく、試合開始の合図が鳴ると同時に、玲は挑発のジェスチャーをした。それに乗った男は、何か叫びながら棍棒を振り上げつつ玲に突進する。
彼女はその場から全く動かす、パーカーの腹ポケットに手を突っ込んだまま、半身に構えていた。
「あぶない……っ」
その棍棒が、玲の頭に打ち下ろされる寸前のところで、
「……って、えっ?」
彼女は右斜め前の方へ素早く動いてかわした。
突然、視界から玲が消えたことで、男は動揺して動きが止まる。その隙に玲は彼の真後ろに行って膝カックンをした。
完全に不意を突かれた男が、膝から崩れ落ちると同時に、玲はその側頭部に強烈な後ろ回し蹴りをたたき込み、一撃で昏倒させてしまった。
直後、スタンド全体から再び大歓声が巻き起こる。だか玲は、特にそれに答える様子も無く、リングアナの勝ち名乗りを背にさっさと控え室へと帰っていった。
すごい……。
余裕のノックアウト勝ちを見せた玲に、あっけにとられている時雨は、
なんであんな人が……、私なんかに話しかけて来たの、かな……?
新入りで弱い自分を彼女が気にかけてくれたのか、さっぱり分からなかった。