恋慕の情
自室の窓辺に佇み、時折浅い溜め息を吐きつつ無数の雲がゆっくりと流れる空を眺めているお姫様。
ここ最近は油断しているとすぐにボーッとしてしまう。ついこの間も、メイドにそのことを指摘されたばかりだ。
公務が多忙でなかなか疲労感が抜けないだとか、そんな訳ではない。生活リズムは寧ろ規則正しくしていて、寝不足に陥るなんてことはまずありえない。その他の健康状態も申し分ない。
お姫様は深く考え事をしていて、ついついボーッとしてしまっていたのだった。
今もこうして、いつの間にか物思いに耽っていることに気がついて、ハッと我に返ってガックリと肩を落とし項垂れた。
「……」
とても悩んでいる。例えて言うならば、茨が幾重にも生い茂る暗く狭い迷路の中をどんどん奥へ進んでしまい、気がつけば身体中に茨が絡み付き、身動きが取れなくなってしまったかのような苦しい状態とでも言うべきか。遮二無二もがいてどうにか現状を脱したいのだが、完全に身体の自由が利かない状態。寧ろもがこうとすると茨の棘が身体に食い込んできて更に苦しくなるような感じ。
直面した事態にただ悶々とすることができず、もうどうにかなってしまいそう。
勉強も教養もそこそこそつなくこなせる彼女をここまで悩ませるものとはいったい何なのか。
「……」
出窓の床板に両手を静かに突いて、重苦しく長めの溜め息を吐くお姫様。
と、そんなところに、部屋のドアをゆっくりと静かにノックする音がした。その瞬間に、苦悶の表情を浮かべ悩む一人の女性から、皆が知っている普段の姫君へと切り替わる。呼吸を一つ、リズムを整え返事をした。
「どうぞ」
一つ間を置いて、ゆっくりとドアが開いた。
「失礼します」
ドアの陰から一人の執事がゆっくりと現れ、浅くお辞儀をした。
彼はお姫様専属の執事で、名を太刀洗耕介と言う。身長は175cmとそこそこな感じで、学生時代は野球やサッカーをやっていた為、体力には自信があるとのこと。年齢は姫と同い年で、高校を卒業し執事となった。なお、先頃、城内従事者の高齢化と定年退職による人員不足が懸念され始めた為に、ダメ元で求人を領内の高校へ出し始めた年に採用された新世代執事第一号でもある。
なんだか雰囲気の良い青年がやってきたな。と、お姫様はなんとなく思っていたのだが、なんとその新人執事が自分を担当することになろうとは夢にも思っていなかった。
「あの……、どうかされましたか?」
「……へ? あ、いや。コホン……なんでもない」
知らず知らずのうちに同い年の執事の顔を見つめていたお姫様。無性に恥ずかしさが込み上げてきて、思わず顔を俯かせた。顔が一気に熱くなる。
「姫……? 体調でも悪いんですか?」
「な、なんでもない。心配は無用です」
「はあ。なら良いのですが……」
どこか納得しかねているような面持ちの執事。
お姫様は冷静を取り繕い小さく咳払いを一つ。姿勢を正して執事と真っ直ぐに向き合い訊ねた。
「で、用件は?」
「……ああ、そうでした。今度の御茶会に出席される時のお着物が先ほど呉服屋から届きましたので、ご確認をお願いしたいのですが」
「そう。分かった」
「メイドにこちらへ持ってこさせますので、暫しお待ちくださいますか?」
「はい」
「……では、私はこれで」
浅くゆっくりとお辞儀をした執事は、静かに退室しドアを閉めて行ってしまった。
「……」
静まり返る部屋。まるでポツンと取り残されてしまったかのような感覚に陥るお姫様。
閉められたドアに視線を向けて小さな溜め息を吐いた。
ああ、行ってしまった。と。
とても名残惜しい。と。
「………………太刀洗」
無意識にそう呟いた。
「…………っ!!」
そして数秒後、それに気がついたお姫様は羞恥に胸の奥を焦がし、頭を抱えながら悶絶した。自分でも顔が赤くなっているのが分かるくらいに熱を帯びている。
ふらりとよろめきながら壁際に置かれたデスクの角に腰を掛け、左手でキュンと疼く胸をそっと押さえながら深呼吸を数回繰り返した。今にも胸が張り裂けそうな胸の疼きは身体の芯をじわじわ焦がす。日に日に増していく切なさを帯びた感情。そしてこの苦しみ。これを解消するにはいったいどうしたら良いのか分からず、悶々としたものが更に自分の中に蓄積されていく。
お姫様は今、心を患っておられるのだ。
『お医者様でも草津の湯でも惚れた病は治りゃせぬ』
この謳い文句。今現在に於けるお姫様の心境をこれほど的確に表現しているものはない。
つまりは、そういうことである。
お姫様は恋病を患ってしまったのだ。
御歳二十三歳のお姫様である。恋の一つや二つは経験しているだろう。ましてや領主の娘なのたから『御相手』の話などもあって当然だろう。……と、世間は思うかもしれない。たが、そんなこととは一切無縁であったこのお姫様なのである。
幼少の頃から何かと慎重だったお姫様は幼心ながら家柄を常に意識して暮らしてきた。些細な言動から箸の上げ下げの所作に至るところまで、一挙手一投足細心の注意を払い続けてきたのである。勿論、男女の関係についても同様だ。特に大学へ通っていた時は頻繁にコンパの誘いがあったものの、それとなく理由を付けてやんわりと断っていた。どこかでパパラッチされた日には大事になってしまう。そこへ更に話に尾鰭がついてしまって噂が広まってしまったら取り返しのつかないことになりかねない。だからお姫様は常に全ての事柄に対し自分を律して今まで生きてきたのであった。
だが、今は学生時代とは状況が違う。
一般の人との交流機会がぐんと減り、そんなことも気にしすぎる必要性もさほどない状況にはあるものの、無論、だからと言って滅茶苦茶なことをするわけでもないのだが……。
いや、ある意味に於いては滅茶苦茶と言うか、驚天動地と言うか、そんな状況だろう。
何故ならば、恋煩いを負ってしまうほどに思慕する相手が、自分の専属執事である太刀洗耕介なのだから。
いつからこんなことになってしまったのやら、気がつけば彼の姿を無意識に視線で追っている毎日。時折、予定の確認などで声をかけられる度に胸が高鳴り。キュンキュンと心臓あたりが妙に疼き、身体がポカポカと火照ってくるのだ。
──これが恋。
専属執事に懐いてしまったこの感情に気がついた時、どれだけ胸が熱くなったことか。その日の夜は眠ろうにも眠れなかったと、お姫様は記憶を反芻する。そして、その反芻が更なる胸の高鳴りを助長し、恋い焦がれる気持ちとやり場のない苦しみがより一層膨らんでいく。今にも発狂してしまいそうな心境だった。
「……………………くっ!!」
胸に手を当てて奥歯を噛み締めていると、部屋のドアをノックする音がした。そして、ゆっくりと落ち着いた口調と声が、ドア越しにお姫様へ訊ねてきた。
「虹ヶ埼です。先日注文した着物が届きましたのでお持ちしました」
まるで嘔吐一歩手前の時にこんこんと涌き出てくるしょっぱい生唾が口内を満たしている。コクッと喉を鳴らし飲み込んで、
「はい」
背筋を軽く反らすかのように姿勢を正したお姫様は、ドアの前までゆっくりと進んで一度立ち止まる。瞼を閉じて、胸がはち切れんばかりの深呼吸をひとつ。
気持ちの乱れを確りと整えたら、まさに一呼吸置いてドアをゆっくりと開けた。