ジェーレンベルク帝国には夜色の魔女がいる〜異世界で魔女暮らしを始めて五十年、助けた拾い子が皇帝になって「愛している」と迫ってきます〜(冒頭)
石造りの壁に、黒くて堅い漆喰のようなものと木で出来た古い家。
その窓からの景色は鬱蒼とした森の木々ばかり。
それでもここで暮らして五十年が経つ。
近くの街ではここは『西の森』と呼ばれており、わたしは黒髪と黒い目から、西の森に住む『夜色の魔女』と言われている。
近くの小さな暖炉でパチパチと薪と火が爆ぜる音がする。元の世界での忙しない暮らしを思うと、この音を聴きながら過ごす時間の何と穏やかで贅沢なことか。
のんびりと居間で本を読んでいると、外が少し騒がしいような気がした。
本を閉じるのと同時に、チリリン、と涼やかなベルの音が響く。
この家の中ならどこにいても聞こえる、玄関のベルの音だ。
テーブルに本を置き、膝掛けをソファーの背もたれにかけて立ち上がる。
この『魔女の家』への来客は少ない。
……買い物はこの間済ませたはずだけど。
扉の丸い擦りガラスの向こうにはぼんやりと人影が見えている。
もう一度、チリリン、と急かすようにベルが鳴った。
時々、近くの街の人が薬や怪我で困った時にわたしを頼ってくることがあるので、きっとそれだろう。
「はいはい、欲しいのは薬? それとも──……」
ガチャリと玄関扉を開ければ、そこには壁があった。
いや、壁ではなく、わたしよりも長身で体の大きい人間が立っていた。
顔を上げれば懐かしい色彩の人物がそこにいた。
鮮やかな赤色の髪に夏の植物のように綺麗な緑の瞳をした、けれどもどこか威圧感を感じる、美形の青年がわたしを見下ろす。
その後ろには数名の騎士らしき人々もいる。
「……ハヅキ」
そう呼ばれてドキリとする。
わたしのことを名前で呼ぶのは、二十年前に亡くなった恩人と、その後に拾った少年だけだ。
そして、恐らく目の前にいるのは少年だろう。
この家を出て行った時よりも大人になった。
「……ハルト?」
確認のために名前を呼べば、青年が嬉しそうに笑みを浮かべた。
……そんな、そんなはずはない。
「ああ、俺だ。……やっと迎えに来れた」
青年がわたしの手を取り、頭を下げてわたしの指先に口付ける。
「愛している、ハヅキ。俺と結婚してくれ」
色々とツッコミを入れたいところはあるけれど、とりあえず一番最初に感じたことを口に出すことにした。
「いやいや、あなた皇帝でしょ? どうしてここにいるの?」
そう、目の前にいる青年はこのシェーレンベルク帝国の皇帝、リーンハルト・アルトゥール・シェーレンベルクその人であったのだ。
* * * * *
わたし、暮井葉月は日本人である。
日本で生まれ、育ち、社会人一年目の冬に、突然地面が消えて、気付けばこの世界にいた。
最初にいたのはこの西の森で、行き場もなくフラフラと森の中を彷徨っていた時に恩人であるザシャという初老の女性に拾われた。
ザシャはこの西の森に住む薬師だった。
「あんた、行くところがないんだろう? とりあえず、うちに来な。この森で死なれると寝覚めが悪いんだよ」
そうして連れて来られたのが、この『魔女の家』だ。
ザシャは魔女ではないけれど、薬に詳しく、そしてほんの少しだが魔法も使えるという。
ザシャは不器用な人で、それでも、わたしを拾って色々なことを教えてくれた。
ここがわたしの生まれ育った世界とは別に存在する世界であることや、わたしのように異世界から時折、物や人が落ちて来ること。
異世界人はこの世界では『特別な存在』として扱われること。
「教会に行けば、あんたは『聖女』として贅沢な暮らしが出来るよ。まあ、その代わりに結婚どころか外に出る自由すらなくなるけどね」
しかし、教会に入るかどうかは自由意志で決められるそうだ。
「でも、一度行ったら出してもらえないかもしれない。落ち人の中でも黒髪ってのは一番好まれているからね」
異世界人──……この世界では『落ち人』と呼ぶ存在は、優秀な人間が多く、特にこの世界にはいない黒髪は好まれるらしい。
「それに黒髪の落ち人は小柄だけど、手先が器用だったり魔法に優れていたりするから、王侯貴族はその優秀さを得るためにこぞって結婚したがるものさ」
それはつまり、わたしは教会に入れば見知らぬ王侯貴族と結婚させられるということか。
当然、教会には行きたくなかった。
「……あの、他にわたしみたいな落ち人が生きていけるところはありませんか?」
ザシャは首を横に振った。
「少なくともあたしは知らないね。まあ、でも、あたしを手伝ってくれるならここに住んでもいいよ」
「え?」
「実はあたしの親は落ち人でね。こっちに落ちたばかりの頃は色々と苦労したらしいんだよ。ずっと親の苦労話を聞いていたから、あんたの気持ちも少しは分かる。……何も考えずに教会なんて行ったら一生後悔するよ」
ハッとしてザシャを見れば、ザシャはニッと口角を引き上げて笑った。
「どうするんだい?」
その問いの答えは決まっていた。
「これからよろしくお願いします!」
それから、わたしはこの『魔女の家』で暮らしている。
ザシャは白髪交じりの薄い紫色の髪に、灰色の目をしていて、いつも黒い服を着て、外出時は同じ黒色の帽子を被っている。
魔法に必要な杖も持っていて、街の人々から『魔女』と呼ばれるのも分かる気がした。
その後、ザシャからこの世界の常識や魔法、薬草の知識などを教えてもらったけれど、一番驚いたのは『落ち人は長寿』という話だった。
落ち人は数百年生きるのだとか。
少なくとも、この世界の人間よりとても長命で身体能力が高いそうだが、何故かそれが子供などに遺伝することはない。
ただ、魔力の多さだけは引き継ぐようだ。
「あたしもそのおかげで魔法が使えるってわけさ」
この世界では魔法が使える者は少なく、ほとんどは貴族や王族で、稀に平民でも魔法を使える者がいるという程度らしい。
ザシャは多くの魔法を教えてくれたけれど、わたしはその全ての魔法を使うことが出来た。
それどころか『こういうふうな魔法を使いたいな』と思うだけで、その魔法を使えた。
……だからこそ、落ち人は欲しがられるのかなあ。
どんな魔法も使えるわたしにザシャは呆れていた。
それから、ザシャが亡くなるまでわたしは『魔女の弟子』として過ごしていた。
落ち人は長寿というのは本当で、ザシャが八十歳を過ぎてもわたしはこの世界に来た時の姿のままだった。
寿命だったから仕方がない。分かっている。
分かっているけれど、つらかった。
ザシャとは三十年も一緒に暮らして、この世界に来て右も左も分からなかったわたしに沢山のことを教えてくれた、第二の母のような人だった。
わたしはザシャを、彼女の望み通り魔法で火葬し、その灰を彼女が好んでよく通っていた森の花畑に撒いた。
死ぬ直前、ザシャは言った。
「いいかい。もし新しい道を歩みたくなった時は、迷わずその道を選ぶんだよ。ハヅキ、あんたの人生はあんたのものさ。後悔しないように好きに生きな」
ザシャが亡くなった後のわたしは抜け殻だった。
ただ、毎日生きるための日課はこなしていたけれど、それだけで、一人でいる時間の寂しさに打ちのめされていた。
それなりに広い家に一人で住む虚しさ。
家にいるとザシャとの思い出ばかりが頭を過ぎり、つらくなるので、あの頃は散歩に出ることが多かった。
だけど、ザシャが亡くなってから三ヶ月ほど経ったある日、わたしは森で子供を拾った。
鮮やかな赤い髪に綺麗な緑の目をした少年の近くには、壮年の男性が倒れていて、その男性は既に事切れていた。
森の中でどうすることも出来ず、男性の亡骸のそばに座り込んでいた子供の表情は虚ろだった。
わたしはザシャと同じく男性を魔法で火葬し、その灰の一部を持っていた瓶に詰めて子供に持たせてやった。
小さな手が大事そうに瓶を抱える姿は痛ましい。
こんな森の中に入って、死んで、それでも街にいられない理由があるのだろう。
……わたしだってそうだ。
落ち人という立場上、人と深く関わるのを避けていた。
それでも、子供を放っておくことは出来なかった。
「少年、行くところがないならうちにおいで」
三十年前にザシャがそうしてくれたように、わたしは少年にそう声をかけた。
「わたしも身内が亡くなって、一人で寂しいの。うちは強力な障壁が張ってあるから、わたしが許可した人しか入れない。安全な場所だよ」
差し出したわたしの手に、少年は控えめに指先だけで触れた。
その手をしっかりと握って少年を家に連れ帰った。
少年は痩せていて、服も着古して擦り切れており、小さいけれどいくつか怪我もしていた。
傷を治し、風呂に入れさせて世話をしながら話しかけ続けていると、少年は少しだけわたしの質問に答えてくれた。
「痩せているけれど、何歳?」
「……七歳」
「名前を訊いてもいい?」
「……リーンハルト」
「何か訳ありそうだし、これからはハルトって呼んでいいかな? わたしは葉月・暮井、葉月でいいからね」
少年──……ハルトが小さく頷いた。
汚れを落とすとハルトは整った顔立ちをした美少年で、将来、きっととても格好良くなるだろうと思った。
そこから、小さな同居人との暮らしが始まった。
そうは言っても大抵の仕事は魔法でパパッと出来てしまうし、ハルトは家の外に出たがらなかったので、料理を教えることにした。
最初は芋や野菜の皮剥きやそれらを切るところから始めたが、ハルトは物覚えが良く、教えたことはすぐに出来てしまう。
毎日、一緒に厨房に立って料理をするうちにハルトは料理のレシピや薬草の知識も覚えて行った。
半年も経つ頃には料理当番を任せられるくらいになった。
昼はハルトが作り、夜はわたしが作って、朝は夜の残りを食べる。
おかげでわたしは街に卸す薬の調合に集中出来たし、ハルトも仕事をもらえて喜んでいたし、手が空けば二人で作ることもあった。
一年経った頃、ハルトが事情を明かしてくれた。
ハルトはこの帝国の高貴な身分の人と少数部族の女性との間に生まれた子供で、母親と共に帝都で暮らしていたそうだ。
だが、ある日、家に帰ると母親が殺されていた。
黒装束の見知らぬ人々に殺されそうになったものの、最初にハルトと出会った時にそばで亡くなっていたあの男性が助けてくれたらしい。
帝都から逃げ出したが、それでも黒装束は追いかけて来る。
あちこちの街や村を転々としながらハルト達は、帝都から離れたこの街に辿り着く。
けれども、度重なる黒装束の襲撃を受け、男性は怪我を負い、毒を受け、長くは生きられない。
そんな時にこの『魔女の家』の話を耳にした。
ここだけはどんな外敵からも守られている。
黒髪の『夜色の魔女』が魔法で守る家。
ハルト達はここを目指して森に入った。
しかし、男性の命のほうが先に尽きてしまった。
「……ごめん、ハヅキ。俺はハヅキを利用するために、ここに来たんだ……」
泣きそうな顔でハルトはそう言った。
わたしは、そんなハルトを抱き締めた。
「話してくれてありがとう。……わたしだって寂しいからハルトを受け入れたんだし、利用するって意味なら同じだろうし」
ハルトのおかげでわたしは孤独や寂しさを感じずに済んでいて、毎日楽しく、穏やかに暮らせている。
この一年、家の障壁に攻撃はされて来たけれど、どの攻撃も、侵入者も、わたしの障壁の前では無意味だった。
「ハルトが望むならずっとここにいていいんだよ」
それから六年、ハルトとの二人暮らしは続いた。
ハルトは勤勉で、本を読んだり何かを学んだりすることが好きで、家中の本が読み尽くされた。
そうしてハルトが十四歳になる頃には、攻撃もなくなり、街に出ることもあった。
だけど、楽しい日々は長くは保たなかった。
帝都から、皇帝陛下の命を受けた使者が来たのだ。
「リーンハルト・アルトゥール・シェーレンベルク第三王子殿下、皇帝陛下の命により、お迎えにまいりました」
そこで、ハルトが皇族だと知った。
わたしも、ハルトも、離れるのは嫌だった。
けれども、わたしの同行を使者は許さなかった。
拒否すればわたしは皇帝の命令に背いた反逆者となり、そのわたしに加担したとして街に兵を送り込むことも出来るのだと脅された。
ハルトはそれを受け入れるしかなかった。
十四歳の子供に『街の人々の命』を背負わせるなんて。
わたしだけなら魔法でどうにでもなるが、街全体を守り続けることは難しい。
一日だけ準備の時間を得て、わたしは自分の魔法をいくつか込めた魔法石のブレスレットを作り、それをこっそりハルトに持たせた。
家を出ていく時、ハルトは振り返らなかった。
でも、その気持ちは痛いほど伝わって来た。
行きたくない。寂しい。不安。怖い。
十四歳になり、わたしより少しだけ大きくなっていたハルトだけれど、その背中はとても頼りなげで、引き止めたかった。
使者と大勢の騎士達に囲まれて森の向こうに消えて行くハルトを、わたしは見送ることしか出来なくて。
わたしはザシャを失った時と同じように、空虚な日々を過ごすことになった。
ハルトが去ってから二年経って、ようやく気持ちの整理がついて、それから街の子供達の中から希望する子達に薬草の知識を教えることにした。
……いつか、帝都に行こう。
もしかしたら、一目でもハルトの姿を見られるかもしれない。
そう思いながらもわたしはなかなか旅立つことが出来ず、気付けば、ハルトが去ってから十三年という月日が経っていた。
目の前で、わたしが出したお茶を、成長したハルトが嬉しそうに飲んでいる。
「ああ、やはりここの茶が一番口に合う」
想像通り、美少年から美青年に成長したハルト。
色々と訊きたいことや話したいこともあるけれど、とりあえず、わたしはもう一度問いかけた。
「それで、帝国の皇帝陛下がどうしてこんな辺鄙なところに?」
ティーカップとソーサーをローテーブルに置き、ハルトが立ち上がるとわたしのそばに跪く。
「先ほども言ったが、ハヅキを迎えに来た」
わたしの手を取り、ハルトが言う。
「ハヅキ、俺と結婚してくれ。ずっと昔からあなたを愛していた。……俺はこのために皇帝になったんだ」
やっぱり爆弾発言は変わらなかった。




