二度目の人生は愛するあなたを殺します。(冒頭)
ぽた、ぽた、と顔に雨が降り注ぐ。
温かくて大粒のそれに目を開ければ、彼がいた。
「どうして私を庇ったんですか……!」
そう言った彼は泣いていた。
なんとか持ち上げた手で、その頬に触れた。
「……わたくし、ずっとあなたを、愛していたの……」
王太子の婚約者として過ごしてきた七年間。
次期王太子妃、ひいては王妃となるべく必死に努力していたけれど、それは王命で決められた婚約だったから。
……でも、本当はずっとあなたに想いを寄せていたわ。
許されないことだと分かっていたから隠し続けた想い。
でも、それも今はもう隠す必要などない。
わたしの手に彼の手が重なる。
「っ、私も……私も本当はあなたを愛していました……!」
絞り出すように紡がれる声に苦笑が漏れる。
……知っていたわ。
だって、あなたはいつも熱心にわたくしを見つめていたから。気付かないほうがおかしいくらい。
手から力が抜けて落ちると、慌てた様子で握られる。
「死んではいけません……!! あなたはこんなことで死んで良い人間ではないはずです……!!」
かはっ、と咽せれば口の中に血の味が広がった。
遠くで、くだらない人々の声がする。
公爵令嬢は魔王に魅入られたとか、魔王が公爵令嬢を唆したとか、どれもこれも、自分達に都合の良いことばかり。
「もし、また会えたなら……」
……その時は今度こそ、あなたと共にいたい。
薄れゆく意識の中、わたくしの名前を呼ぶ彼の声がする。
「あなたが死んでしまうくらいなら、私が殺されたほうが良かった……!!」
慟哭のようなそれに目を閉じる。
わたくしはきっと愚かな令嬢として語り継がれるだろう。
覚醒した魔王を庇い、無駄死にした公爵令嬢。
魔王に魅入られて、命を捧げてしまった愚かな女。
……それでもいい。
彼が生きていてくれるなら、わたくしは本望だった。
* * * * *
ぱちりと目が覚める。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。
慌てて飛び起きたものの、体のどこにも痛みはない。
「わたくし、死んだはずでは……」
口から出た幼い声にまた驚いた。
とても、十七歳の声とは思えないほど幼く、高い。
手を首へやって違和感を覚える。首が短い。
どういうことかと手を見れば、手も小さい。
呆然としているうちに、どこからか扉を叩く音がして、ややあって静かに扉の開けられる音がする。
「あら、お嬢様、今日はお早いお目覚めですね」
そこにいたのはわたくしの侍女のユニだった。
しかし、何故かとても若い。
ユニは三十代のはずなのに、どう見ても二十代くらいにしか見えない。
訳が分からないまま、促されてベッドから出て、顔を洗う。優しく布で顔を拭かれ、化粧水などをたっぷりつけられる。
それから、髪を梳かすためにドレッサーの前へ移動する。
ドレッサーの鏡の中に映ったわたくしは子供だった。
十七歳ではなく、どう見ても、まだ十歳になっていないような幼い女の子だった。
声も出ないほど驚くわたくしにユニは気付かず、わたくしの髪を軽く整えるとドレスを着せ、そしてもう一度、今度は丁寧に髪を梳き、整えると、訊いてくる。
「ご朝食はいつも通りお部屋で摂られますか?」
「え、ええ、そうしてちょうだい」
「かしこまりました。本日は午前中はマナーの授業がございます。午後は坊っちゃまとご一緒に登城することになっております」
「そう、分かったわ、ありがとう」
ユニは洗一礼すると顔道具などを持って部屋を出ていった。
部屋に一人残されたわたくしは鏡をジッと見た。
「わたくし、どうなってしまったの……?」
何も分からないが、とにかく、生きている。
そしてすぐに頭に浮かんだのは彼のことだった。
……会いたい……。
彼の無事な姿が今は見たかった。
* * * * *
それから戻ってきたユニにあれこれ訊き、午前中のマナーの授業を受けているうちに、段々と状況が理解出来てきた。
どうやら今のわたくし、パメラ・バーキンは八歳らしい。
顎あたりまでの色素の薄い明るいふわふわした金髪に、水色の瞳、まだ八歳のわたくしは十七歳のわたくしよりも幼く、でも相変わらず少し気の強そうな顔立ちだ。
お父様はバーキン公爵で、お母様は自国の元王女で、五つ年上のお兄様もわたくしが知っているより幼かった。
恐らくだが、時間が巻き戻ったのだろう。
それがどうしてかは分からないものの、わたくしが王太子と婚約する前まで時が遡ったのは良いことだった。
今日の午後、お兄様と登城するのは、わたくしと王太子殿下の顔合わせのためであったはずだ。
お母様が現国王陛下の妹なので、王太子殿下とわたくしは従姉弟同士である。ちなみに、私のほうが三月ほど殿下より早く生まれている。
……王太子、カミーユ=ジャン・ロアエク……!
わたくしという婚約者がありながら、聖女プリシラ・ノックスと恋に落ちた挙句、聖女の口車にまんまと騙されてわたくしに婚約破棄を告げた男。
今度はもうあんな男と婚約する気はない。
たとえ王命であったとしても、だ。
……それに、わたくしがずっと想っているのは彼だけよ。
時が遡る前と同じならば、今日登城した際に彼とも初めて顔を合わせることになる。
思えば、わたくしは最初から彼に惹かれていた。
幼すぎて恋心に気付けなかっただけで。
「パメラは王城へ行くのは初めてだよね?」
馬車の中でお兄様に訊かれる。
「ええ、そうよ」
「迷子になると危ないから、着いたら手を繋いで行こう」
優しいお兄様の言葉に少し泣きたくなる。
時が遡る前も、お兄様はいつだって優しかった。
何があってもわたくしの味方だと言ってくれる、わたくしの大好きな自慢のお兄様である。
そっと頭を撫でられる。
「なんだか今日のパメラは静かだね? もしかして、どこか具合が悪いの? 大丈夫?」
心配するお兄様に思い出す。
そういえば、わたくしは子供の頃はなかなか落ち着きのない子だった気がする。それにかなり我が儘だった。
「いえ、わたくしももう八歳なので、これからは淑女らしくしようと思ったのですわ」
「それは失礼しました、小さなレディ」
お兄様が少し寂しそうな顔でわたくしの頭から手を離す。
「……でも、まだお兄様には甘えてもよろしくって?」
お兄様が嬉しそうにふっと笑った。
「もちろん。パメラは僕の可愛い妹だからね」
そうして、お兄様はまたわたくしの頭を撫でたのだった。
馬車が王城に着き、お兄様と手を繋ぎ、案内役の使用人について王城の中を歩く。
十七歳の記憶があるので本当は案内などなくても王城内は把握しているけれど、初めて訪れた八歳のわたくしが勝手に歩き回ったら怪しまれるだろう。
通されたのは謁見の間ではなく、応接室の一つだ。
そこにはお茶やお菓子が用意されており、既に先客がいた。
部屋に入ったわたくし達を見て、先客が立ち上がる。
「やあ、ジュリアン」
お兄様が親しげに手を上げて声をかけた。
そこには、彼がいた。
記憶よりも幼いが、確かに、無傷の彼がいる。
そのことに胸が震えた。
「お久しぶりです、ユーグ様」
幼い彼の声は記憶よりも高い。
わたくしよりも二歳上なので十歳くらいだろう。
彼と目が合い、ドキリとする。
「こっちは僕の妹のパメラだ」
お兄様の紹介に丁寧にカーテシーを行う。
「バーキン公爵家の長女、パメラ・バーキンと申します」
「ラングフォード侯爵家の次男、ジュリアン・ラングフォードといいます」
思わずお兄様の手をまた握り、少し隠れてしまう。
「パメラ?」
人見知りのないわたくしの行動にお兄様の驚いた声がしたけれど、照れてしまって、彼をまっすぐに見ることが出来ない。
部屋の扉が叩かれる音がする。
振り向けば、丁度開かれた扉から、仕事のために先に登城していたお父様とラングフォード侯爵、国王陛下、そして幼い王太子殿下が入ってきた。
お兄様と彼が礼を執り、わたくしも倣って礼を執る。
「そう堅苦しくする必要はない。皆、楽にしてくれ」
陛下のお言葉に顔を上げる。
陛下のそばにいる王太子殿下は少し嫌そうな顔をしていた。
王族でありながら政略結婚を嫌っていらしたが、こうして見てみると、最初からわたくしとの婚約を嫌がっていたのだろう。
今日の顔合わせも婚約のための布石と分かっているらしい。
陛下と殿下がソファーに座り、わたくし達も、それぞれソファーへ座った。
「パメラ嬢とは初めましてだな。私は君の母親の兄で、この国の国王でもある。君からしたら、私は伯父に当たる。私のことは気軽に伯父様と呼んでおくれ」
「はい、伯父様。改めまして、パメラ・バーキンと申します。今日はお会い出来て、光栄に存じます」
立ち上がり、もう一度丁寧にカーテシーを行う。
「ははは、やんちゃな娘だと聞いていたが、もう立派なレディのようだな」
陛下が微笑ましげに笑い、言う。
脇にいる王太子殿下は不機嫌そうなままだ。
「これは私の息子で、カミーユという」
「カミーユ=ジャン・ロアエクだ」
陛下の紹介に王太子殿下は渋々といった様子で名乗り、わたくしは一つ頷いた。
よろしくとは言わない。するつもりはないから。
シンと場が静まり返った。
わたくしと殿下の会話が続かなかったことで、場の空気が少し張り詰めたものの、わざわざ話しかける気はない。
「すまない、カミーユは少々気難しくてな」
陛下が少し慌てた様子で言う。
それにわたくしは首を振って微笑んだ。
「いえ、お気になさらないでください」
それからわたくしはお父様を見る。
「お父様、わたくしの我が儘を聞いてはいただけませんか? この我が儘を聞いてくださるなら、もうこれ以上、我が儘は言いません」
陛下やお父様、ラングフォード侯爵がいる今しかない。
お父様が少し眉を寄せた。
「パメラ、陛下の御前だ」
「申し訳ございません。でも、今言わなくてはいけないことなのです」
「パメラ」
お父様の口調が少し強くなる。
それに、陛下が「良い」と手で制した。
「パメラ嬢、その我が儘とは何だ?」
どうやら陛下はわたくしの我が儘に興味があるらしい。
わたくしは一度小さく息を吸い、そして顔を上げた。
「ジュリアン・ラングフォード様と結婚したいのです」
殿下がギョッとした顔でわたくしを見る。
陛下も、お父様も、ラングフォード侯爵も、お兄様も、そして彼も。誰もが驚いた顔をした。
「わたくし、殿下と結婚したくありません」
あの日、あの時、願った気持ちは変わらない。
わたくしが愛しているのはジュリアン・ラングフォード。
後に魔王の生まれ変わりだと判明し、苦悩し、聖女プリシラに『浄化』という名目で殺されそうになる。
それでも決して他者を傷付けようとしなかった。
庇ったわたくしのために泣いてくれた優しい人。
「ジュリアン様と婚約したいですわ!」
……今度こそ、あなたと共に生きていきたい。
それが、今のわたくしの願いである。
* * * * *
パメラ・バーキン公爵令嬢を見た時、何故か胸が震えた。
色素の薄い金髪は顎ほどくらいの長さで、ふわふわと毛先が内側に巻かれていて可愛らしく、ぱっちりとした瞳は晴れた春の日の空のような明るい水色で、幼いながらに大変可愛らしい。
彼女の兄であるユーグ・バーキン公爵令息とジュリアンは三歳ほど歳が離れているものの、よく王城の図書館で顔を合わせており、友人同士でもあった。
だから妹君についてもかなり聞いていた。
明るく、元気で、少しやんちゃで、我が儘だけれど、純粋な、世界で一番可愛い妹。
将来美人になるという言葉は兄の贔屓目ではなく、本当に、公爵令嬢は成長したら美しくなるだろう。
初めて会ったはずなのに強い既視感と懐かしさ、なんとも表現しがたい気持ちが湧き上がってくる。
今すぐにでも、彼女の前で跪きたくなる。
そんな気持ちは初めてで、内心で戸惑っているうちに陛下やバーキン公爵、父、そして殿下が来た。
……ああ、そうだ。
今回ジュリアンが呼ばれたのは殿下の側近として選ばれたからであり、公爵令嬢も、殿下の婚約者の最有力候補として呼ばれたからだ。
……僕が想いを寄せていい相手ではない。
そう、思ったのに……。
「パメラ!?」
「パメラ嬢……」
公爵令嬢はジュリアンと結婚したいと言う。
出会ったばかりなのに。
ただ、戸惑いよりも喜びのほうが大きかった。
……今度こそは、私も……。
ハッと我へ返る。
……今度こそとは何だ?
「わたくし、殿下とはきっと結婚できませんわ。だって殿下はわたくしのことがお嫌いのようですもの。そうでしょう、殿下?」
公爵令嬢の言葉に全員の視線が殿下へ向けられる。
殿下は一瞬怯んだ様子だったが、キッと眦をつり上げるとソファーから立ち上がった。
「ああ、俺はお前と結婚するつもりはない!」
「カミーユ!」
「父上、俺は政略結婚なんて嫌です! 好きな人とでなければ、結婚なんてできません!!」
陛下に厳しい目を向けられても殿下はそう言った。
それに公爵令嬢が頷いた。
「わたくしも殿下との結婚はありえませんわ」
公爵令嬢がこちらを見る。
「ジュリアン様、どうかわたくしと婚約してくださいまし」
まっすぐに見つめてくる水色の瞳は吸い込まれそうなほど透き通っており、それでいて、そこに確かに熱を感じた。
「皆様がお許しくださるなら、喜んで」
気付けば、ジュリアンはそう答えていた。
胸の中に様々な感情が湧き起こる。
公爵令嬢を見ていると、嬉しくて、悲しくて、苦しくて、切なくて、懐かしくて、申し訳なくて、しかし最も強いのは喜びであった。
……僕は彼女の婚約者になりたい。
それだけはハッキリと理解出来た。
* * * * *