おにいさま、わたしと結婚してください。(冒頭)
「これで、死ぬまで僕のものだ」
満足そうな笑顔にドキリと胸が高鳴る。
左手の薬指にはめられた指輪はきっと、わたしを縛る首輪のつもりなのだろう。
わたしは囚われてしまった。
……ああ、今日は一段とかっこいい……。
ぽろりとこぼれ落ちたわたしの涙に、美しい瞳が、ふっと目元を和ませた。
しなやかな指がわたしの頬を撫で、涙を優しく拭う。
そうして、そっと、目元に口付けられた。
「本当にリーリアはよく泣くね」
かわいいよ、と囁かれて目を閉じる。
唇に触れた感触に、また涙が伝い落ちた。
* * * * *
「この子はアージェント。私達の子で、君は、今日からここで暮らすことになる」
「我が家と思って過ごしてね」
整った外見の男性と女性が言う。
わたしは呆然と目の前の人々を見つめた。
正確には、その男性と女性のそばにいる、人を。
「アージェント、この子は私の弟の子供のリーリアだ。会うのは初めてだろうが、従妹だよ」
男性の言葉に、その人が一歩前に出た。
「初めまして、アージェント=ルヴィエです。よろしくね」
少し癖のある、燃えるような赤い髪。
氷山のように透き通ったアイスブルーの瞳。
整った顔立ちはわたしの知るものよりもずっと幼くて、でも微笑んだ顔には面影があった。
差し出された手にびくりと無意識に体が震える。
……わたし、この人を知ってる?
瞬間、ぐるりと世界が暗転した。
* * * * *
『Mirabelle』
それが、わたしが好きだった女性向け小説の題名だ。
美しく心優しい伯爵家の令嬢ミラベルが主人公の恋愛小説で、魅力的な男性達が現れ、関わっていく中でミラベルに愛を捧げるのだが、ミラベルはヒーローである王太子セドリックと恋に落ちる。
ミラベルを想うあまり暴走する者、ミラベルの幸せを願い身を引く者、その恋を良く思わぬ者。
そんな人々が起こす事件にミラベルは巻き込まれるのだが、ヒーローのセドリックが助けてくれる。
しかもミラベルは神力に目覚め、それによって治癒の奇跡を起こせるようになり、セドリックの助けになる。
二人は幾度も訪れる苦難に立ち向かい、愛を深め、そして結ばれる。
簡単に説明すると、そういう内容である。
マイナーな小説ではあったが、わたしは大好きで、何度も何度も読み返したし、その度に推しに涙した。
わたしの推しはミラベルでもセドリックでもない。
アージェント=ルヴィエ公爵令息。
赤い髪にアイスブルーの瞳を持ち、いつも微笑みを浮かべている品行方正な貴公子。
と、いうのは表向きで、本性はヤンデレなのだ。
最初、アージェントはミラベルにさほど興味がなかった。
セドリックの紹介で知り合うものの、治癒の奇跡に多少の関心はあったが、興味と呼べるほどではない。
だが、何度も会い、言葉を交わすうちに、心優しく美しいミラベルの、自分にはない清純さに心惹かれていく。
しかし、ミラベルの心はセドリックに向けられている。
アージェントは、ミラベルが自分に振り返ることがないと気付いていた。
それでも惹かれる気持ちは変えられず、やがて、アージェントは嫉妬に狂ってしまう。
どれほどミラベルに微笑みかけても、甘く囁いても、彼女の心は手に入らない。
……心が手に入らなくても、彼女が欲しい。
他の者にミラベルを渡したくない。
その感情が暴走し、アージェントはミラベルを誘拐し、監禁してしまう。
その一方で、嫉妬に駆られ、友であったはずのセドリックを毒殺しようとする。
ミラベルは何とか監禁された場所から脱出するが、セドリックの下へ向かうと、血の海の中、毒で苦しむ愛する人とアージェントがいた。
幸い、ミラベルの治癒の奇跡でセドリックは助かるが、アージェントはミラベルに剣を向ける。
「手に入らないなら、せめて僕の手で殺してあげる」
けれども、そこでミラベルを愛する別の男性キャラクターがミラベルを庇って死に、回復したセドリックとアージェントが戦うことになる。
そして激戦の末、セドリックはアージェントを討つ。
ミラベルが治癒の奇跡で治そうとするも、アージェントはそれを拒否する。
「君が手に入らない世界に生きる価値もない」
どうせ、生きていても王太子の暗殺、聖女の誘拐と監禁、そして殺人の罪で裁かれることになる。
セドリックとミラベルが結ばれる姿も見たくない。
アージェントは最後に持っていた剣で首を切り、二人の目の前で、笑って自死した。
「僕を忘れるなんて許さない」
ミラベルの選択がアージェントを凶行に走らせた。
セドリックが友に毒を盛られたことも、友と剣を交えることになったのも、アージェントが死ぬのも。
全て、ミラベルがアージェントを選ばなかったから。
そう言って、アージェントは二人に深い心の傷を負わせて死ぬのである。
このアージェントの行いにより、ルヴィエ公爵家は爵位を落とし、社交界を追われてしまう。
ミラベルとセドリックは、その後もアージェントのことで苦しむことになるのだが、それはともかくとして、このアージェントがわたしの推しであった。
身勝手で、傲慢で、ヤンデレなキャラクター。
人によって好みはかなり分かれるが、わたしはアージェントの執着や狂愛じみた部分が好きだった。
ミラベルやセドリックは善い人間過ぎる。
この小説の中で最も人間味があると感じられたのが、アージェント=ルヴィエだった。
ハッと意識が浮上して、目が覚める。
全力疾走した時のように心臓がバクバクと脈打っている。
頭の中を、これまでの記憶が駆け巡っていく。
あまり口数は多くなかったけれど、優しいお父様。
明るく、穏やかで、使用人にも優しかったお母様。
娘であるわたしをとても慈しんでくれた。
そんな二人が、馬車の事故で死んでしまった。
七年間の記憶が洪水のように押し寄せてくる。
頭が痛くて、気持ち悪くて、悲しくて、苦しくて。
「……うぇ……っ!」
押さえた口元から胃液が漏れる。
喉が焼けたのか痛い。
でも、それ以上に心が痛かった。
ぼろぼろと涙がこぼれ落ちていく。
「おとうさま、おかあ、さま……」
わたしのなまえはリーリア=ルヴィエ。
現公爵の弟の一人娘であり、両親が亡くなったことでルヴィエ公爵家に身を寄せることになった、アージェントの従妹。
小説内で、アージェントに監禁されていたミラベルを解放した人物であり、その時以外は名前しか出てこない脇役キャラクターであった。
……大好きな小説の世界にいるのに。
幸せだと思えることは何一つもない。
お父様もお母様も死に、暮らしていた屋敷も引き払われ、伯父夫婦のところに身を寄せた。
そこで出会った推しすら、将来死んでしまう。
……どうしたらいいんだろう……。
悩んでいるうちに数日が経った。
使用人が教えてくれたが、わたしはルヴィエ公爵家に引き取られたあの日、気絶したそうで、公爵夫妻はお見舞いに来てくれたものの、アージェントが部屋を訪れることはなかった。
……まあ、そうだよね。
目の前でいきなり気絶されて良い気はしないだろう。
そもそもアージェントは他者への興味がないので、従兄妹という間柄であっても、気にかけることはないと思う。
でも、それはわたしにとってはありがたかった。
どうやら、前世のわたしは死んでしまったらしい。
スマホ片手に学校からの帰り道を歩いていたところ、上から何かが降ってきて、重くて、苦しくて、寒くて、動くことも出来ないまま意識を手放した。
多分、その時に死んだのだろう。
あの日は驚くほど雪が降っていた。
どこかの屋根に積もった雪が落ちてきて、たまたまその下を通りかかったわたしは雪に埋もれてしまったのだ。
前世の記憶を思い出してつらかった。
父と、母と、兄の仲の良い四人家族だった。
……もう、会えない。
そう思うと悲しくて涙が止まらなかった。
それだけで一晩中泣いて、更にリーリアの記憶を思い出し、この世界でも家族を失ったことが悲しくて、その喪失感もあって、結局、三日三晩わたしは泣き続けた。
そのせいで高熱を出して寝込んだ。
まだ全てを受け入れられないまま、アージェントと再会したのは、ルヴィエ公爵家に引き取られてから一週間後のことであった。
「まだ顔色があまり良くないね」
持ってきた花をメイドに渡し、ベッドの上にいるわたしを見てアージェントはそう言った。
ただそれだけなのに、何故か、わたしの体は震える。
ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
アージェントが困った顔をした。
「出直したほうがいいかな?」
その言葉に首を振る。
「だ、だいじょ、ぶ、です。その、ご、めん、なさい……」
「何が?」
「あの、ひ、きぜつ、しちゃ、て……」
リーリアの記憶を思い出して分かったのだが、このリーリア=ルヴィエという少女は根っからの泣き虫である。
ちょっと驚いただけで泣き、嬉しくても泣き、怒っても悲しくても泣く。とにかくよく泣く子供なのだ。
あまりに泣くので、母親とお茶会に行っても友達が出来ず、ひとりぼっちな女の子。
他の子供達にまで「泣き虫」と呼ばれて、それに傷付いて泣いてしまい、余計に周りが離れていくという悪循環の中にいる子供だった。
小説でミラベルを救った時も、一言も喋らないような人物で、描写からしても陰鬱な感じが読み取れた。
アージェントが関心を示さないのも分かる。
「気にしていないよ」
恐らく、公爵夫妻にお見舞いに行くよう言われただけで、リーリアには興味がないのだろう。
「体調、まだ悪そうだから今日はもう休んだほうがいい」
そう言ってアージェントが背を向ける。
それにズキリと胸が痛む。
推しに冷たくされたからなのか、リーリアの傷付いた気持ちなのか。……多分、その両方だ。
「あ、あの……!」
声を上げればアージェントの足が止まる。
「お花、ありがとう、ござい、ます……!」
きっと選んだのはアージェントではないだろう。
ちらりと見えたあれは、様々な色の花をまとめた小さな花束だった。
アージェントは振り返って微笑んだ。
「どういたしまして」
でも、その目は欠片も笑っていなかった。
アージェントは背を向けると、今度こそ部屋を出て行った。
入れ替わるように戻ってきたメイドが、アージェントが持ってきてくれた花の活けられた花瓶をベッドのそばの棚に飾る。
可愛らしい花に、また涙がこぼれ落ちる。
ぐちゃぐちゃになった感情がただただ苦しかった。
* * * * *
自室へ戻りながら、アージェント=ルヴィエは先ほど会った従妹について考えていた。
リーリア=ルヴィエ。今年で七歳らしい。
色素の薄い柔らかな茶髪に、淡い水色の瞳。
十二歳のアージェントよりずっと小さく、か弱そうで、アージェントが話しかけただけで泣き出すような子供。
両親からも聞いていたが、かなり気が弱いようだ。
すぐに泣いてしまうため、お茶会に参加しても、他の子供達から馬鹿にされてしまっているのだとか。
……まあ、でも、確かにそんな感じだったかな。
気弱で、小さくて、俯きがちで、社交が下手なら貴族の子息令嬢達から馬鹿にされても仕方がない。
両親は弟夫妻の突然の死を悲しみ、そして、その忘れ形見のあの子供を引き取った。
「いきなりのことで驚いただろうが、あの子は今、一人なんだ。他に頼る当てもない。……アージェント、あの子を気にかけてやってくれ」
「もしあの子まで失ってしまったら……。あなたにとっては従妹だけれど、これからは妹のように接してあげてちょうだい」
両親はあの子供に情を感じているらしい。
従妹と聞いても、アージェントにはどうでも良かったが、これまで良い子として振る舞ってきたので、嫌とは言えなかった。
起き上がれるようになったそうなので見舞いに行ったけれど、子供の顔色はあまり良くなく、今にも消えてしまいそうだった。
もし消えてしまってもアージェントは構わないが。
アージェントが従妹を無視したり、放置したりすれば、両親は良く思わないだろう。
小さく溜め息が漏れる。
「……仕方ない」
あまり気は乗らないが、従妹の世話を焼いてやろう。
手間はかかるけれど、両親を失った気の弱い従妹に優しくすることで、アージェントの評価がより良くなるかもしれない。
従妹に興味はないので面倒ではある。
それでも、まだ十二歳の子供に過ぎないアージェントに力はない。
今は両親の言うことを聞いて、良い子を演じているのが一番、アージェントの利益となる。
「明日もお見舞いに行かないとね」
自分の評価を上げてくれる道具と思えばいい。
ぼろぼろと泣いていた従妹を思い出す。
……でも、あの時の表情は悪くなかったかも。
初めて従妹と顔を合わせたあの日、気絶する直前に見せた表情は、少しだけ、面白かった。
「……あの表情、また見たいな」
絶望したような、あの表情が。
アージェントの脳裏に深く残っていた。
* * * * *