殿下、それは藪蛇です。〜婚約破棄予定の公爵令嬢は元飼い犬皇帝に溺愛される〜(冒頭)
「申し訳ございません、ロバート殿下」
王城の廊下を歩きながら、前を行く人に声をかける。
わたくしの前にいるのはこの国の第二王子、ロバート=マーティン・シャブラン殿下である。御歳十六歳だ。
父王や兄王子と同じやや色素の薄い金髪に、母である王妃によく似た深い青色の瞳をした、男性にしては可愛らしい顔立ちをされている。
「僕も兄上のところに行く用事があったから、気にしないでください。それより、これはサフィニア様が処理したんですか?」
王太子の婚約者サフィニア・ブランシェール公爵令嬢。
豊かな金髪に美しい紫色の瞳のわたくしのことだ。
「ええ、まあ、王太子殿下はお忙しいようでしたので……」
「それにしたって自分の公務をサフィニア様に回すなんて良くないですよ。兄上ったら、何してるんだか」
少し怒ったような顔をするロバート殿下にわたくしは苦笑を返す。
ロバート殿下には黙っているけれど、王太子殿下がわたくしに仕事を押し付けるのは今に始まったことではない。
ここ半年ほどはわたくしが書類仕事の大半をこなしている。
婚約者としての仕事、次期王太子妃、やがては王妃となるための下積みなど色々とある。
ただでさえ忙しいのに、そこに王太子殿下の公務まで入ってきたものだから、わたくしは毎日休む暇さえない。
婚約者だというのにここ二週間ほどは王太子殿下と言葉を交わすどころか、顔を合わせてすらいない。
……体力的にはつらいけど精神的にはマシだけれど。
ロバート殿下と他愛のない話をしながら王太子殿下の執務室へ到着した。
わたくしが到着すると扉の前にいた騎士達の表情が強張った。
扉を叩こうとする前に止められる。
「ブランシェール公爵令嬢、今はお入りにならないほうがよろしいかと……」
言葉を濁す騎士達にロバート殿下と顔を見合わせる。
「来客中ですか?」
「はい……」
「今日中に急ぎ目を通していただきたい書類があるのですが……。お客様はどなたかしら?」
「それは、その……」
騎士達も顔を見合わせている。
明らかに自分の口からは言いたくないという顔だった。
ロバート殿下は首を傾げたが、わたくしはピンときた。
「とりあえず、書類だけお渡しします」
扉に手をかけ、内側へ押し開く。
騎士達の制止する声がしたが中へと入った。
執務室はいつもと変わらないように見えたが、テーブルの上に二人分のティーカップと食べかけのお菓子が置かれたままになっている。
ふと、隣の部屋に続く扉が少し開いていることに気付いた。
隣室は確か、王太子殿下がたまに仮眠に使う部屋だ。
「でん──……」
殿下、いらっしゃるのですか?
そう言おうとしたが、開いた扉の隙間から聞こえてきた若い女性の声に足が止まった。
甘えるように高く王太子殿下の名前を呼ぶ声。
ベッドの軋む音に何かのぶつかる音、混じる水音。
その間に聞こえてくる王太子殿下の、相手の名前を呼ぶ声。
……う、嘘でしょう……?
硬直したわたくしの後ろで息を呑む音がした。
ハッとして振り向けば、ロバート殿下が扉の隙間を凝視したまま同じように硬直していた。
ロバート殿下と目が合った。
その口が開かれる前にわたくしはロバート殿下の腕を掴み、足音を立てずに執務室を出て、サッと扉を閉めた。
見れば、騎士達もロバート殿下も青い顔をしている。
「よろしいですか、今ここで起こっていることは決して口外してはなりません」
騎士達は青い顔のまま、戸惑った様子でわたくしを見る。
もう一度「良いですね?」と念を押すと、ようやく緩慢な動きで頷いた。
「ロバート殿下も、どうか、今はご内密に」
「そんな、待ってくださいっ。それではサフィニア様は……!」
「わたくしは大丈夫です。それよりも急ぎ、両陛下にお会いしなければなりません。共に来てここで起こったことを証言していただけますでしょうか?」
わたくしの言葉にロバート殿下は頷いた。
「もちろんです!」
「ありがとうございます」
「いいえ、一刻も早く父上と母上に伝えなくては……!」
行きましょう、と促されて歩き出す。
前を行くロバート殿下の背を追いながら思う。
……この日をずっと待っていたわ。
* * * * *
目を覚ました瞬間、体中の痛みに驚いた。
……なんで、どうしてこんなに痛いの!?
痛みのあまり声が漏れる。
すると若い女性の声がした。
「サフィニア様、目を覚まされたのですねっ」
見知らぬ少女に顔を覗き込まれた。
誰、と思った瞬間、頭痛と吐き気に襲われる。
わたしは誰?
──わたくしはサフィニア・ブランシェール。
ここはどこ?
──ここはわたくしのおうち。
違う、わたしは、わたしの名前は……?
頭を抱えようとして、自分の手の小ささに呆然とした。
わたしは社会人だ。大人だ。こんな小さな手ではない。
両親がいて、弟がいて、一人暮らしをしていたはずだ。
そのはずなのに自分や家族、友人などの顔や名前が思い出せない。
同時にもう一つの記憶がわたしの中に流れてくる。
ブランシェール公爵家の令嬢、サフィニア・ブランシェール。この公爵家で生まれ、両親や兄、使用人達から愛されて、何不自由なく育ってきた少し我が儘な女の子。
その記憶はまるでわたしのもののように感じられる。
……わたしは、わたくしは、サフィニアなの……?
遠くで人を呼ぶ声がする。
頭が痛い。気持ち悪い。
濁流のようにサフィニアの九年間の記憶が押し寄せてくる。
目まぐるしく流れる記憶の中に、一頭の犬が現れる。
「サフィニア、誕生日おめでとう」
……お父様がくださった。
小さな小さな、黒毛の可愛らしい子犬。
つぶらな瞳は翡翠みたいに綺麗なグリーンで。
わたくしはその子にノワールと名前をつけた。
家族には愛されていたけれど、お父様もお母様もお兄様も忙しくて、わたくしはいつもひとりぼっちだった。
五歳の誕生日に父がくれた子犬がノワールだった。
それから、ずっとずっと一緒にいた。
最初の頃は大変だった。
絨毯やクッションを噛んでボロボロにしてしまうし、なかなか落ち着きのない子でいつも部屋中を走り回って、わたくしのお気に入りの人形を振り回すこともあった。
……でも、ちっともイヤじゃなかった。
ノワールはいつだってわたくしのそばにいてくれた。
仕事で忙しいお父様、社交で忙しいお母様、勉強で忙しいお兄様。
誰よりも一番そばにいてくれる。
庭師がノワールに躾を教えてくれて、一年経つ頃には、ノワールはとても良い子になっていた。
わたしの記憶の中にあるドーベルマンに近い外見で、立ち上がるとわたくしよりも大きかったけれど、綺麗な黒毛に細くてあまり長くない尻尾をぷりぷり振りながら甘えてくるノワールは可愛かった。
二年、三年と共に過ごすうちに、わたくしはノワールを家族の誰よりも愛するようになっていた。
……わたくしのかわいいノワール。
屋敷の中ではどこに行くのも、何をするのも一緒だった。
……あの日、第一王子殿下が屋敷に来るまでは。
わたくしは第一王子殿下の婚約者候補らしい。
何度か顔を合わせたことはあるけれど、殿下が公爵家に来るのは初めてだった。
楽しくないけれど、第一王子殿下と庭園を散歩していたらノワールがどこからともなくやって来た。
どうやら庭師の隙を見て逃げ出したようだ。
わたくしに懐くノワールを殿下は「その犬かっこいいな。私に献上しろ」とのたまった。
当たり前だけれどわたくしは拒否した。
拒否したわたくしを殿下は怒りのままに突き飛ばした。
驚きと痛みで声も出せなかったわたくしを見て、ノワールは聞いたことがない低い声で殿下に唸った。
そのことに驚いた殿下が、護衛の騎士に叫んだのだ。
「なんだこの危ない犬は! 私を噛むつもりだ!!」
もちろん、ノワールにそんなつもりはなかった。
ただわたくしを守ろうと威嚇しただけ。
けれども更に殿下は騎士に怒鳴った。
「今すぐこの犬を斬れ!!」
殿下は続けて、斬らなければクビだ、と言った。
そんな馬鹿なと思うだろうが、騎士は戸惑ったものの剣を引き抜くと、ノワールをその剣で斬りつけた。
ギャン、とノワールの悲痛な悲鳴が響く。
慌てて抱き締めたノワールの体から血が流れる。
殿下は騎士に殺せと言ったけれど、わたくしはノワールを庇い、とにかくこれ以上傷付けられないようにするので必死だった。
メイドの一人が慌ててお父様達を呼び、第一王子殿下と引き離され、獣医が呼ばれたけれど、その時にはもうどうにもならなかった。
腕の中でノワールの声が段々とかぼそくなり、呼吸が弱くなり、小さくヒャンと鳴いた後、動かなくなった。
わたくしは泣きながらノワールを何度も呼んだけれど、大好きなノワールは腕の中で冷たくなっていった。
動かなくなったノワールを何時間も抱き締めたが、生き返ることはない。
そして、ノワールの死んだ日の夜、わたくしは自室のバルコニーから身を投げた。
「あ、ぁ……」
わたしとわたくしが入り混じる。
わたくしの嘆きはわたしの嘆き。
ぽろぽろと涙があふれてきて止まらない。
「いや、いやよ!! ノワール、ノワール……!!」
「サフィニア様、落ち着いてください! っ、サフィニア様!! サフィニア様!?」
胸を引き裂かれるような悲しみと苦しみ、怒りに息が出来なくなる。
薄れゆく意識の中でわたしは理解した。
……わたしはわたくしで、わたくしはわたし。
何がどうしてこうなってしまったのかは分からないが、一つだけ分かることがあった。
この小さな体の本来の主であるサフィニア・ブランシェールは何よりも大切な家族を喪い、絶望し、その現実を受け止められずに心が壊れてしまったのだ。
本物のサフィニアはもう二度と戻らない。
* * * * *
最初に目を覚ましてから一週間。
三日目までわたしは意識を取り戻さなかったそうだ。
その間、わたしとわたくしの記憶は融合し、本物のサフィニアは心が壊れたまま意識を閉ざしてしまったため、サフィニア・ブランシェールはわたしになった。
……いや、これからはわたくしと言うべきか。
何故サフィニアの中に自分の意識があるのか謎だが、元の世界のライトノベルで死にそうになったことで前世を思い出したり、別世界の魂が憑依したりという流れを何度か読んだことはあった。
自分がその立場になるとは思ってもみなかったが。
わたしの世界に戻りたいという気持ちは全くないわけではないものの、家族や友人の顔や名前を思い出せないこともあって、絶対に帰りたいとまでは感じなかった。
それよりも、これからサフィニア・ブランシェールとして生きていかなければならない。
心にぽっかりと感じる空虚感はノワールを喪ったわたくしの記憶のせいだろう。
意識を取り戻した後はいつも忙しいはずのお父様やお母様、お兄様がすぐに会いに来て、抱き締めてくれた。
お母様もお兄様も泣いていた。
お父様も涙ぐみながら「生きていてくれて良かった」と言ったが、本物のわたくしの心は壊れてしまったのだから、ここにいるサフィニアはもう彼らの知るサフィニアではないのかもしれない。
記憶も体も持っているが、心は違う。
でも、全く違うわけでもない。
お父様達の様子を見て、愛しいと思う心はある。
申し訳ないと感じる心がある。
それはきっと記憶のサフィニアの心だ。
わたしはわたくしで、わたくしはわたし。
そしてこれからはわたくしがサフィニアなのだ。
後から聞いたが、本物のサフィニアが飛び降りたのは二階のバルコニーで、下は植え込みがあったため、擦り傷と打ち身程度で怪我は済んだらしい。
ノワールを喪ったことで精神的苦痛を受け、そのせいで現実を受け入れられずに意識が戻らなかったのだろうと主治医が言っていて、なかなかに鋭い人だと思った。
わたくしはもうこんなことはしないとみんなに約束した。
ノワールは公爵家の敷地の、よくサフィニアとノワールが一緒に昼寝をしていた木陰にお墓が作られたそうだ。
起き上がれるようになるとすぐにお墓参りに行った。
小さな簡易のものだったけれど、お墓を見た瞬間、涙が止まらなかった。
サフィニアの記憶をそっくりそのまま受け継いだわたくしにとっても、ノワールは大切な存在だった。
朝起きたらお墓に行き、日が沈むまでそこにいる。
そんなわたくしを誰もが心配し、戸惑い、労ってくれたけれど、心に空いた穴は埋まらない。
気付けば、そうして三ヶ月も経っていた。
他の何にも興味が感じられない。食事も味がしないし、自分が自分ではないような感覚で現実味がなく、満たされない。
ある日、お父様が昼間にわたくしの部屋を訪れた。
「今日から我が家で預かることになったレイだ」
お父様がレイ、と呼ぶと一人の男の子が入ってきた。
その男の子を見た瞬間、世界に色が広がった。
艶やかな黒髪に翡翠みたいなグリーンの瞳。
頭の中に一気に新しい記憶が流れ出す。
携帯、乙女ゲーム、ヒロイン、攻略対象、悪役令嬢、わたしが遊んでいた恋愛シミュレーションゲーム──……?
唐突に全てが繋がって一人の少女が現れる。
豊かな金髪に名前の由来となった美しい瞳の悪役。
……わたくしが、悪役令嬢……?
目の前にいる男の子が誰なのか気付いてしまった。
レイと呼ばれた彼は、本名レイモンド=レナード・シーグローヴ。隣国グロヴァー帝国の現皇帝の庶子であり、原作ゲームの後半で若き皇帝として登場してくる人物。攻略対象の一人。
そして、ヒロインと相思相愛になると、ヒロインを虐げていた悪役令嬢サフィニアを暗殺する。
母親を喪い、様々な思惑の中でブランシェール家に匿われていた間、彼はサフィニアに振り回され、まとわりつかれて女性嫌いになるのだ。
……だけど、彼にまとわりついた理由が今なら分かる……。
「まあ、ノワール、帰ってきてくれたのね!」
わたくしの口から出た言葉に男の子は怪訝そうな顔をして、お父様は「まさか、いや、そんな……」と何かに気付いて愕然とした。
そう、彼の色彩はとてもノワールに似ていたのだ。
タイトルは変わる可能性があります。
次作品予定ですが、現在多忙なため来年になるかもしれません。