傷だらけの作家令嬢は隣国の王子に愛でられる。(冒頭)
「うちには治癒魔法を使える者がいます。すぐに快癒とはいきませんが、少しずつ傷を治していきましょう」
全身に感じる激痛よりも、その声と言葉が痛いほど優しかった。
動くことも、話すことも出来なくて。
このまま苦痛の中で死んでいくのだと思っていた。
こんないつ死ぬかも分からない人間なんて放っておけばいいのに、この人はとても怒ってくれた。
そうしてわたしを引き取ってくれた。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
わたしに言い聞かせる声が優しくて。
でも同時に酷く申し訳なくて。
霞んでまともに見えない目から涙がこぼれ落ちた。
* * * * *
それを目にしたのは偶然だった。
仕事が終わったばかりなのに、騎士の一人から「使わなくなった木剣を倉庫に仕舞っておけ」と声をかけられた。
「頼んだぞ、雑用係」
「……はい」
雑用係と呼ばれたように、わたしは自国の第四騎士団で下級メイドとして雑事をこなしている。
本当は他の騎士団にも行けたのだけれど、婚約者が第四騎士団所属で「俺の所属する騎士団で働いて欲しい」と言われてここを希望した。
第四騎士団は第三騎士団と共に場内の警備を担当しており、子爵家の次男である婚約者はその安定した給金と栄誉から騎士となった。
わたしの家は母が早くに病で亡くなり、父と兄がいるが、母を失ってから家族仲はあまり良くなく、寒々しい家にいることがつらかった。
毎日食事は自室で摂り、父や兄はわたしを見るとすぐに顔を背けて去ってしまう。
母によく似たわたしを見るのが未だにつらいのだろう。
わたしもそんな父と兄を刺激しないよう、いつも屋敷の自室にこもって過ごしていた。
そんなわたしを見兼ねた婚約者に言われて、今は王城内の一角で住み込みで働いている。
足元に置かれた箱には壊れた木剣が沢山入っていた。
もう辺りは暗くて、わたしはランタンを手に、荷車を取りに倉庫へ向かう。
それが事の発端だった。
倉庫は普段から滅多に使用されず、人気もなく、目立たない場所で、こっそり休憩出来る場所として密かに知られている。
でも、まさかそこに人がいるとは思わなかった。
「サイラス様、ダメです、こんな外で……」
「いいじゃないか。どうせこんな場所、誰も来やしないさ」
それも、親友だと思っていた人と婚約者が、とても口には出せないようなことをしていたなんて。
誰が想像出来るだろうか。
驚きと衝撃のあまり、わたしは思わず後退ってしまい、ガサリと茂みが揺れる。
二人がハッと振り向いた。
「な、なんで……?」
思わず呟いた声が震えているのが自分でも分かった。
だけど二人は身を離し、サイラス様の方は手早く服を整えていた。
「あーあ、よりにもよってサーシャに見られるなんてね」
親友のはずのデボラが言う。
乱れた髪に、乱れた服は、どう見ても情事を思わせた。
それが悲しくて、悔しくて、つらくて。
「どうして……、どういうこと? サイラス様がわたしの婚約者だってデボラは知ってたでしょ?!」
思わずデボラを責めれば、サイラス様がデボラを守るようにわたしの前に立った。
「よせ、サーシャ。彼女は悪くない」
「悪くない? 友人の婚約者を寝取ろうとするのが、悪いことではないと言うの?!」
デボラを睨みつければ「サイラス様、こわぁい」とサイラス様の腕にしがみついている。
サイラス様はそんなデボラに「大丈夫だ」と言う。
そしてわたしに向き直った。
「彼女に交際を求めたのは俺なんだ」
サァッと血の気が引く。
「なんで……サイラス様……」
思わず口に手を当てて呟く。
サイラス様は優しい人だった。
母が亡くなった時には励ましてくれて、花が好きだと言ったわたしに花を贈ってくれて、こうして職場で会っていても婚約者として季節の挨拶などの手紙や贈り物もくれて、時には一緒に街へ出掛けたりもした。
ちょっと強引なところもある人だし、気の強さが問題になることもあったけれど、それでもいつもわたしのことを心配して、気にしてくれる。
優しい人だと、思っていたのに……。
サイラス様はわたしから視線を逸らす。
「それは……。君が、君のその地味で暗い部分が嫌だったんだ。昔は気弱な君を守ろうと思っていた。引っ込み思案な君を引っ張っていってやりたいと考えていた」
サイラス様がわたしを見る。
「でも、もう、うんざりなんだ。母を失って悲しいのは分かる。しかしだからと言って、いつまでも暗い色ばかり着て、俯いて、陰気でいるのは違うだろう? 何を言っても反応が薄いし、君は笑わなくなった」
その言葉にハッとする。
母が亡くなって四年経ったが、我が家は今も喪に服したままだった。
それくらい、わたし達家族にとって母は大事な人で、男爵家にはなくてはならない存在だったのだ。
その悲しみからわたしも、父も、兄も、誰も抜け出せていない。
それについてはきちんと話したはずだ。
それでもいいと、サイラス様は言ってくれたのに。
「君とのことで悩んでいた時、デボラはよく相談に乗ってくれたし、俺のことも気遣ってくれた。そうしているうちに、君よりも、彼女のことが好きになってしまったんだ。……君はいつも自分の不幸を嘆くばかりだが、デボラは嫌なことがあっても笑顔を絶やさない、素敵な女性だ」
サイラス様の言葉に心が引き裂かれていく。
「いつ、いつから……?」
「一年ほど前からだ」
がつん、と頭を殴られた気分だった。
サイラス様は一年も前からデボラと浮気を続けていたというのか。
婚約者であるわたしを、友人であるわたしを、二人は裏切りながら平然と付き合っていたのだ。
我慢し切れず、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。
「はあ……、また泣くの?」
デボラの冷たい声がする。
いつも「元気出して」と優しく声をかけてくれたものではない、侮蔑を含んだ響きだった。
「そんなだから嫌われるのよ」
ザクリとその言葉が突き刺さる。
「自業自得じゃない」
……違う。
……違う違う違う!!
自業自得なんかじゃない!!
少なくとも、デボラにはサイラス様の想いを断ることが出来たはずなのだ。
親友の婚約者と関係を持つなんて出来ない。
そう言って拒絶することも出来たはずなのに。
「そうやってすぐ泣くのが、ほんっとう大っ嫌いだったわ。鬱陶しい。しかも勝手に友人面されて不愉快だったのよ」
手を伸ばしたデボラにドンと突き飛ばされる。
突然のことに体が後ろへ傾いた。
デボラとサイラス様の驚いた顔が見え、空が見え、ガシャンと何かの割れる音がした。
瞬間、ブワッと熱に包まれる。
「いやぁあああぁあぁっ!!?」
壊れたランタンから漏れた油が倒れたわたしの服に触れ、そこから炎が燃え広がった。
デボラとサイラス様の慌てた声がするが、聞いている余裕などない。
「熱い! 熱い!! 助けて……!!」
地面を転がっても火は消えてくれない。
叫ぶわたしに今度は冷たい何かが降って来る。
バシャッと水音がして、それが水だと分かったけれど、同時に激痛が全身を襲う。
熱くて、痛くて、苦しくて。
それなのに喉からは叫び声一つ出ない。
ひゅー、ひゅー、と掠れた音がする。
……痛い。痛い。痛い……!!
「お、おい、どうする?」
サイラス様の動揺する声がする。
「とにかく、移動しましょ! そう、荷車にこれを乗せて! 人が来ない場所は?!」
「それなら、東にもう一つ倉庫があるが……」
「じゃあそこに運んで! さっきのこの子の悲鳴で人が来るかもしれないわ!」
焦った声のデボラとサイラス様が慌ただしく動く足音がする。
ギシギシと何かの軋む音がした後、痛みに動けないわたしを二人が持ち上げて、何かに乗せた。
触られたり、動かされたりするだけでも酷い痛みなのに、呻くことすら出来なかった。
それからガタゴトと揺れながら動くのが分かった。
しばらく動いた後、揺れが止んだ。
「これ、死んでないよな……?」
サイラス様の声がする。
「まだ息はあるみたい」
デボラが忌々しげに言う。
それからまた無理やり動かされ、どこかに置かれた。
「でもどうしよう、このまま死なれても見つかっても困るわ」
「医者に診せなくていいのか?」
「そうなったら治療師を呼ばれてしまうでしょ? この子が治ったらあたし達のことがみんなに知られるのよ? そうなったらあなたもあたしも終わりよ」
二人が一瞬、押し黙った。
不意にサイラス様が言う。
「そうだ、商人に売るというのはどうだ?」
「商人に?」
デボラが訝しむ声がする。
「ああ、最近来ている商人が訳ありの物でも買ってくれるって話を聞いたことがある。適当にいくらか握らせて死体を処理させるんだ。……どうせ、このままにしておけば死んでしまうだろう」
サイラス様の言葉に呆然とする。
体よりも、心が痛い。
婚約していたはずなのに、どうして婚約者にそんな真似が出来るのか。
一瞬、激痛を忘れてしまうほどの衝撃だった。
「そうね、じゃああたしがこの子を見張っておくから、サイラス様はその商人を連れて来て?」
「ああ、分かった」
そうしてサイラス様のものだろう足音が足早に遠ざかっていく。
代わりにもう一つの足音が近付いて来る。
見えないが、視線を感じた。
「あーあ、貴族のお嬢様なのにボロボロね。これじゃあもうサイラス様は貰ってくれないわ。良かったわね、サーシャ。婚約を諦める理由が出来て」
デボラは心底嬉しそうに笑っていた。
* * * * *
その騎士に話しかけられたのは、この国を出て、自国に帰ろうと思っていた時のことだった。
門に向かおうとしていた私達に人目を避けるように近付いて来た。
それだけで、何か訳ありなのだと分かった。
そういう者達は他者の視線を酷く気にする。
「なあ、あんたに片付けて欲しいものがあるんだ」
騎士が声を落として「金もそれなりに払う」と言われ、私は微笑んだ。
「どのような物でしょうか?」
「こっちに来てくれ。案内する」
そう言った騎士についていく。
私の他に従者もいたが、従者は拒否されてしまい、私だけでその騎士の後を追った。
もしも何かされそうになっても、目の前の騎士一人くらいならば余裕で倒せるし、王城内でそのようなことはないだろう。
そして騎士は私を王城の東側にある人気のない場所へ連れて来た。
……倉庫、でしょうか?
随分と古い倉庫の前に来ると、扉を叩き、開けた。
手で入れと示されて中へ入る。
何やら焦げ臭く、生臭い異臭がする。
「サイラス様……!」
メイド姿の女性が騎士に駆け寄った。
「デボラ、見つからなかったか?」
「ええ、大丈夫」
騎士とメイドが互いの頬に手を伸ばす。
二人の世界に浸ってしまいそうだったので、ごほん、とわざとらしく咳払いをする。
「それで、片付けたいものとは?」
騎士が倉庫の隅を指差した。
「あれだ」
そこにあるものに気付き、息を呑んだ。
全身火傷だらけの人間が横たわっていた。
……死体?
一瞬、まさかこの王城内で殺しをしたのかと思ったが、微かに横たわる人間からひゅー、ひゅー、と音がする。
「なんということを……!?」
近付いて、ランタンの明かりで照らし出して気付く。
その横たわる人間は女性だった。
それも火傷だらけだが、年若い、小柄な人だ。
慌てて口元に手を翳せば、まだ息がある。
「何故治療させないのですか?!」
振り向いた先で騎士が剣を抜いた。
「そんなことはどうでもいい。お前はただ、黙ってそれを片付けてくれればいいんだ」
目前に剣先が突き出される。
「このままではすぐに死んでしまいます!」
「構わないわ」
私の言葉にメイドが言う。
「軽く突き飛ばしただけなのに、その子が持っていたランタンごと転んで燃えたのよ。このままだとあたしはお貴族様を傷付けた罪を問われるし、このままだとサイラス様のご実家もこの子に慰謝料を支払わなければならなくなる。それは困るのよ」
全くもって、身勝手な話だった。
突き飛ばしたというのなら悪いのはメイドだ。
それなのに自分の行いを隠そうと言うのか。
チラ、と見下ろせばひゅー、ひゅー、と微かに呼吸する音が聞こえて来る。
……彼女はまだ生きている。
しかしこのままでは本当に救えなくなる。
「……分かりました」
騎士とメイドがホッとした顔をする。
「あいにく手持ちは少ないが……」
騎士が財布を取り出そうとするのを手で制する。
「いいえ、買い取らせていただきます」
持ち歩いていた書類をカバンから出し、羽ペンとインクも出す。
薄暗いランタンの明かりの下で、手早く二枚の紙に同じ文面を書き記し、片方を騎士へ差し出した。
そこにはこの人間を買い取ること。
金額は金貨十枚であること。
買い取った後は私の所有物になること。
二度とこの国には返さないこと。
それらが明記された紙を騎士は見た。
「以上で問題なければ、そちらとこの紙にサインをください。そしてこの方のお名前も記入してください」
騎士は急いでいるのかザッと目を通すと二枚の紙にサインをした。
わたしは騎士に金貨十枚を握らせた。
「申し訳ありませんが、運び出すために私の従者を呼んでいただけませんか? 荷馬車と大きな布が必要だと伝えてくだされば幸いです」
騎士は「ああ」とだけ言って出て行った。
メイドは騎士からそのまま渡された金貨を嬉しそうに手に持って眺めている。
足元に横たわる女性に声をかけた。
「聞こえていますか?」
ひゅー、ひゅー、と掠れた呼吸音がする。
「私はあなたを金貨十枚で買いました。これから王城の外へ行きます。動かすので痛い思いをさせてしまうでしょう」
横たわる女性は動かない。
よく見れば、そこにいるメイドと似たような格好をしている。
手元に残った一枚の紙を見た。
そこには騎士が書いたのだろう、少し癖のある字で『サーシャ=オルコット』と記されていた。
それが私と彼女の出会いだった。
* * * * *